40代自意識語り
ここら辺の。
自分も自分の人生もまとめみたいな形ですこし書いてみる。
まあ、少し前に書いた
今までの人生で脳汁がでるほど嵌ったコンテンツ125 +α本 - orangestarの雑記
これが、それにあたるといえばあたるのだけれども。
いろんな人の40代がある。
ただ、それに対して”語れる”ひとはそんなに多くはいない。
20年前、10年前、5年前はブログで頻繁に記事を更新していたような人も、もうブログの更新を辞めてしまったり、インターネットから消えてしまった人が多い。(twitterは時々生存確認みたいにツイートしてたりするけれども)
みんな、生活があり、その生活に埋もれていくのが30後半から40代なのだと思う。
文章を書いて自分を振り返ること、自分の40代を語ることができる部類の人間というのは、『成功したという部類の人』か、『まったく失敗してしまった人』か。どちらかでそのどちらでもない人は語ることがない、またはいろんな感情が渦巻いていてうまく語れないのだと思う。
うまくいかなかったこともあり、まあ、何とかなったこともありの中で、悩んだり葛藤したりしながら明確な言語化できる状態を持たず、後の人生を消化試合のように、または東京マラソンの一般参加の選手のように、ゆっくりとそんなに悪くない人生を淡淡と過ごしていく。そこに、文章となるようなものはおそらくない。もしなにか変化が起こるとしたら、60代を過ぎてからのような気がする。かくいう自分も、そのどちらともつかない40代で、だから、今の自分とこれからの自分について書くことがない。何かのターニングポイントのようなものは見えず、ただ、坦々とした生活の、通過点のような気持でいる。
ただ、40代とは別のいろいろな要素はあり、それについて、色々と考えることはある。
…まあ、それが40代の煩悶なのかもといえばそうなのかもだけど。
その要素いろいろ書いてく。
子供と鬱で10年間、30代の成長に充てる貴重な時間を仕事に使うことができなかった。
前半は鬱がひどくて動けなくて、子供ができたらそちらに手を取られるようになって仕事をすることができなかった。
うちは嫁がメインで働いて、自分が家事をしているので、本当に自分の時間さえ取れない時期が長く続いた。その間、インターネットやコンテンツに触れる機会もなく、アンテナを張ることもできずに、本当に時代に取り残されてしまったし、自分の感性も、(歳をとって摩耗する部分もあったが)本当に衰えてしまった。
一般に人生において30代というのはキャリアを積んで実力を積み上げる時期で、その後の人生の礎を作り上げる時期なのだという。会社でもそれ以外の仕事でも。自分はそれができなくて、弱ったなあ…困ったなあ…って思ってる最中です。
今やっと、子供が小学生になり少し手が離れるようになって、いろいろなものを見たり聞いたり、少しずつ手を動かして漫画をもう一度書く準備をしたりしている。実際1からの挑戦みたいになってしまっていて、まあ、それなりに大変なのですが、頑張っていこうと思います。
なので、誰か仕事ください。
やはり、加齢によりできないことが増えた。
感性は衰えた気がする。
おもしろい~~~!って思ってそれに夢中になれるということが、今無くなってしまったし。
あと、昔は、できたことができなくなっている。
漫画を描く時とか一瞬で頭の中でアイデアが浮かんでそれを出力できたのに、今はメモしながらコツコツと出していかないとうまく形にできなくなった。
多分こういうのは、30代のうちに技術として蓄積して、勘や才能以外の『テクニック』として身に着けておかないとならないものなんだったんだと思う。まあ、それでもちょっとずつやってます。
数をこなしていくうちに何とかなるような気はしている。
なので、誰か仕事ください。
死ぬには歳をとりすぎた。
死ぬには贅肉が付きすぎた。体にも心にも。
「髪結いの亭主」という映画がある。僕の大好きな映画です。最後、美しい妻の自殺で幕を閉じるのだけれども、その理由というのが
「愛はいつかやさしさに変わってしまう、その前に」
自分は死ぬには歳をとりすぎた。もう死なない。
辛い絶望も、虚無も、死ぬより恐ろしいこともあることにはあるけれども、そこから出る方法もいろいろ知ってる。逃げ方もうまくなった。何かの小説のセリフで、
「自殺というのは、本当に死んでしまうのから逃げる方法」
というのがあった。細かいセリフは覚えていないのだけれども。
人間は変わってしまう。
その変わってしまうことによって、自分の心の中の大切なものであったり、自分自身に属する大切な感情であったり、正義であったり、主義であったり、それを失うくらいなら『死んだ方がましだ』と思えるようなものは誰でも持っている、持っていたはずだ。自分もそれを持っていて、でも、変わってしまって、それをなくしてしまった。なくしてしまったら、もう、そうやって生きていくしかないよね。
愛や美しさは失われる。それでも優しさは残る。
大人になった。子供もできた。自分がいないと回らないことも多い。若いころは何を食べても太らなかったんだけど体重も増えた。体にも心にも贅肉が増えた。皺も刻まれ始めて、今まで生きてきた人生が体に現れるようになった。もう、そう簡単には死なないし、死ぬにはかっこ悪い。自分は今、人生の花の時期を過ぎた後の生活の時期の中にいて、そこには、死の気配はあまりない。
ずいぶん遠くまで来ました。
胸の中にいる14歳と、絶交して、また仲直りした。
それでも、自分が物語を描くと小学生~大学生くらいが主人公になる。なってしまう。少し進んでも社会人5年目くらいか。
大人の物語が書けない。(まあ、これには、前述の生活の話もあるのかも。大人になると生活が主で、劇的なことは起こらなくなる)(あとは自分が社会や会社で仕事をしていないからか)
でも、自分は大人になってしまって、それで、14歳とかの物語を書いていいの?っていう、よくわからない感情がついこの間までずっとあった。もう当事者でないのに、そのころの物語を書いていいの?っていう。
ちょっと前に舞台や映画関連の話題で『同性愛者の役は同性愛者の役者がやるべきだ』という話があったじゃないですか。最近の傾向として語り部にそういう当事者性が求められるようになってる空気があって、それもあり、自分がこんな物語を書いていいのか、14歳の死と絶望の話を書いていいのか。それは(年齢的なもの以外に)恥ずかしいことじゃないのか、と思うようになっていたんです。*1
前述したように、大人になってしまって、子供の感性をなくした人間が子供を書いていいのか、っていう。
だけど自分の中にも、確かに14歳のころの自分も残っていて。ただ、もう、それは使えないものだから、と言って箱の中にしまっておいたんです。
しまってたんだけど、今は、まあ、いいかなと思うようになった。14歳の自分と対話して、14歳の物語を書いていこうって、また思えるようになった。
何がきっかけだったかな、『おっさんが10歳の魔法少女になる話』の漫画のプロットを描いているうちに、色々と考えが変わってきた。14歳の自分から、今の自分まで含めて自分自身だと思えるようになった。中学生が聞いてリリカルになるような音楽を聴いて心を痛めてもいいんだって思うようになった。
最近は『花譜』さんの曲をよく聞いています。とても良いです。
『お金とか、ビジネスとか、効率とか、そういうことをこれから考えなくちゃいけないんだ』
という歌詞から始まる歌詞なんですが、すいません40代になってもまだ、お金とかビジネスとか効率とかのことをうまく考えられません。心が痛む。
なので、誰か仕事ください。
つまらない大人になってしまった。
つまらない大人になってしまった、ある程度うまくつまらない大人になれたと思う。それでみんなやっていってるし、やっていこうって思ってます。
とりあえず、家以外の人間関係を作って、交流関係を作って、残り多分20年以上ある人生を何とか泳いでいかないとな、って思ってる。
ただ、他の人がブログで描いているような喪失というものはあまり感じていなくて。というのは、自分が喪失したのは加齢によるものではなく、それ以前の30代に失っていたもので、そして、今やっとそれを取り戻せる状態になったからだ。昔に比べて手も伸びないしうまく走れないけれども、今からやっと始めることができる、そういう風に考えています。
なので、誰か仕事ください。
*1:でもそれを言ったら、職業ものとかスポーツものとかも描けなくなるんですけれども