『なぜ木村政彦は力道山を殺さなかったのか』を読んで知ったのは、明治大正昭和の財界人、ヤクザ、実業家、みんな若いころに柔道をやっていて、そのコミュニティでどんどん人脈が広がり、それで社会的に成功していったので、社会的な成功に『柔道がそれなりにできる』が必須だったこと。
勉強ができるだけでは駄目で、社会的成功には文武両道が求められていた時代だったのかな、と思う。柔道家の視点からのドキュメンタリーなのでそうでない部分も多かったと思うが、映画「風立ちぬ」でも主人公は柔道が強かったし、やはりそういうのがあったのだと思う。
それが昭和後期(戦後)になると野球やラグビーになって(これはGHQによって武道が禁止されたところが大きいと思う)そして、大企業への就職や、取引なので、どこどこ大学の野球部(ラグビー部の)だれだれ、という形で、人脈が作られて行ったのだと思う。社会的成功にスポーツが必須だった。
今はそういうスポーツによる社会的資本の囲いは無くなってしまったように見える。しかし、これはいいことでない。全然いいことではない。むしろ悪い。
今、現在起こってる社会的資本の囲い込みは、出自であったり出身の社会的階層によってなされるようになってしまったからだ。
かつて、スポーツによって人脈が形成されえた時代は、出身や出自に関係なく、ただスポーツができれば(できなくてもそこに所属していてある程度人間関係ができていれば)その人脈をたどって知り合いを作ることができた。
今はそれがなくなり、社会的階層を越えて強く人をつなげる役割を果たすものがなくなってしまった。
『縦の旅行』と『横の旅行』という言葉がある。縦、とは、その住んでる地域での社会階層を越えての交流で、横、とは地域を越えて別の文化圏のしかし同じ社会階層の人間との交流のことをいう。
今は、本当に縦の旅行が失われてしまい、違う社会階層にいる人間の姿が見えなくなっている時代だと思う。人を縦に縦断させるための、強い、社会クラスタを越える文化というものが今は、ない時代なのだと思った。よくない。多分これは良くないんだろうけど。どうしたら良いのかわからない。
そういうのを、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読みながら考えました。この本の本筋とは大きくずれた話ですが。