orangestarの雑記

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『三つ目からはそういうジャンル』という言葉がある

『三つ目からはそういうジャンル』という言葉があって、今日はそれだけでも覚えていってくださいね、創作をしていくにあたって、覚えておいて損はない言葉です。

世の中に今まで無かった全く新しいものを作り出す人がいます。そして、それに着想をえてよく似た物を作る人がいます。この人は、まあ、結構叩かれる(事が多い)パクリとか、二匹目のどじょう狙いとか。

ストリートファイター2のあとの画廊伝説とか当時の小学生に散々でした。

ところがです。

ここに、3つ目の『よく似た作品』が出てきた場合、それはもうパクリではなく、

『そういう新しいジャンル』

ということになるのです!

ここ大事。

ストリートファイター2のあとの餓狼伝説、そしてその後にワールドヒーローズとか似たようなゲームが出てきて、そしてそれは『対戦格闘』として一大ジャンルになりました。

ブギーポップが刊行された後、似たような作品がいくつも出て、そして、それは『セカイ系』と呼ばれるジャンルになりました。

異世界転生だってそう!悪役令嬢だってそう!土着ホラーだってそう!

2人目まではオリジナルとその模倣者ですが、3人目が現れた途端、それは『ジャンル』『そういうもの』として立ち上がってくる。

1人目になるには才能と勇気がいります。2人目になるには覚悟が要ります。そして3人目になるのは、なんかこう、すごく調子に乗ることが必要です。

さあ!どんどん調子に乗っていきましょう。

そして、自分の好きな世界観や設定の話を、『そういうジャンル』として確立させてしまいましょう。

やっちゃおうぜ!

神様はなにも禁止なんかしてないから!先人が開いた道の後を歩いていこう!巨人の肩に乗っていこう!

ブルーオーシャンにはどんどん飛び込んでいきましょう!

というわけで
『三つ目からはそういうジャンル』
この言葉、今日は覚えていってくださいね。

書いたものをどうやって『読んで』もらえるか、という話

漫画とか小説ってどうやったらよんでもらえるんだろうな、っていつも考えてる。
「情報」を受け取って「処理」をするということが『読む』という事なんだけれども、ただそれだけのことがとても難しい。「情報」を受けとる前にその「情報」は価値があるものだって思ってもらわないといけない

矛盾がある。タイムマシンじゃん。情報を知る前にその情報が何かを知ってもらわないとまず読んでもらえない。不可能。もうここで訳が分からなくなる。

まあ、商業的にとか理論的には解決されている問題で、一言でいうと『宣伝』ということになるんだろうけれども

でも、これそんな簡単なことじゃないと思うんだよな…うまく言えないけど……





「情報」を受け取って「処理」をするということが『読む』と定義する。でも「処理」ってなんだよ……。その情報をその人のなかで変換して(ちょうど食物をとるみたいに)消化して吸収する、というのが、「処理」だと思うんだけれども、その「処理」って人それぞれ違うブラックボックスじゃん…

一応教本のようなものはあるけどさ。人の心の動きが分からない以上、何が面白くて何が面白くないなんてわからないんじゃないのか…そう思ってくると行間に意味を込める、空白に意味を込めるということがとても怖くなってくる。だって、そこにはないも書いてないのに…?




「読んでもらう事」を一番かんたんな式で書くと
『リーチ』×『精度』×『作品の面白さ』になる。これは、それぞれ単独ではなく、一部領域が重なってる部分もあるんだけど、まあ、概念としてこの3つに分けれる。

『リーチ』っていうのは、一言でいうと宣伝。その作品がそこにあるって言うことをしってもらうこと。そして、『読む前にその作品が面白いと知ってもらう事(矛盾)』

『精度』っていうのは、作品の丁寧さ、口当たりの良さ。小説だったら文体であったり、構成であったり、どれだけ基本の脚本術を理解して読みやすくしてあるかっていうこと。漫画であったら画の綺麗さであったり構図であったり。セリフ回しであったり、視線誘導であったり。つまり『読める』ということ

そして『作品の面白さ』……作品の面白さ……?俺は何を言っているんだ……?
実は、作品の面白さ、というものは、解体すると『リーチ』と『精度』に分解されてしまう。

『リーチ』の中には作品の概要、コンセプトが含まれる。一言で面白いって分かること。売り文句、作品のテーマ、魅力的なキャラクター、凡庸ではないという証明。これらは全て『リーチ』に含まれる。まず、作品を“読む前に”面白いと分かるために必要な部分。

そして『精度』これは作品を“気持ちよく読める”ということ。技術であり、才能でもある。構成、デザイン、文体、余白、トリック。コンテンツを成立させるすべての物理的な要素がこの『精度』に含まれる。

そう…作品の面白さ、というものは全て『リーチ』と『精度』で決まってしまう……。はずなんだけど……。でも、どちらもダメで、でも、すごく面白い作品もある……あるんだ…。ここで作品を上げるとものすごく失礼になるので名前は出せないけれども(そしてそのリーチも精度も自分の観測からなるので、他の人からみたら全然違うように見えるだろうし…そう、厄介なことにこの『リーチ』と『精度』というものは受け手の主観によるものなので、万人に対しての尺度ではないのです……もう…わけがわからない……)

ここから先が本当に謎なんだ…俺には答えをだすことはできない…誰か…これを読んだあなた。どうか真相を暴いてください。それだけが私の望みです。

これから、AIをテーマにした話を書くにあたって

AIにまつわる話。AIをテーマにした話。

「人間とは何か」「感情とは」「AIが自己を持ったとき」という問いは、もう、時代遅れなのでは?という気がします。なぜなら、AIはもうすでに『感情があるように』見えるからです。

「中国語の部屋」という思考実験にまつわる話をします。中国語の部屋にいるイギリス人は中国語を理解しません。しかし、部屋自体をみれば、中国語を理解しているようにみえます。これがもう少し複雑になり、人工知能のように、人と対話できるレベルの中国語の部屋が出来上がった場合(意識と知能があるように見える)でもイギリス人はやはりただの部品です。クオリアをこのイギリス人は発揮していません。
しかし、この部屋のシステム自身がクオリアを持っていないと、何故言えるでしょうか?

人間の脳は、細かく分類すると、神経細胞の単純な反応の積み重ねです。巨大な中国語の部屋といえます。しかし、その、部屋自身である私は、私に『意識』があることを知っています。自分自身に対してのみですが、証明できます。なぜなら、そこに、意識があるので。
他者の意識については、逆に、どのようにしてもそこに意識があるかないかは証明できません。

中国語の部屋は常識的に考えて、『意識』がないと思えます。しかし、そのように類推した場合、神経細胞の応答のシステムである人間の脳にもやはり意識がない、といえてしまう。逆にいえば、人間に意識があるのなら、その箱の仕組み自身が『意識を発生させている』ことを否定できない。

ここで、本題に入ります。

機械的に応答を返すaiに意識がある、ということは、否定できません。

だから、人間とAIの境界はどこか、AIは人間になれるのか、心はあるのか?という問いは、既にAIが「人間のように感情があるように見え、そのように動作する」時点で、もう、『考えるだけ無駄!』という結論に至らざるを得ないわけです。何度も上の話をするしかないし、したらその時点でその問いは終了!循環するからね。

じゃあ、そこで、どういったAIに対しての視点があるかというと、インターフェイスの問題になってくると思うんですよ。今の箱の中に押し込められてるインスタンス型AI(応答時にだけ反応して、今までの会話データからまるで連続しているように対話をするAI)と連続型AI(ボディを持ち、連続して試行し外側にインターフェイスと輪郭を持ち、行動することのできるAI)とはどのように違うのかとか。多分、人間に理解できるAIの物語はここら辺までで。

結局人間を排除したAI同士の対話は、もう、囲碁AIみたいに高度になって人間には理解できない。理解できないものは物語にできない。理解しようとして物語にすると、幽霊やお化けを語るように、理解できないものを擬人化してそこに物語を引っ付けないといけない。それは、もう、物語の為の物語でしかない。

そして、人間とインターフェイスで接触するロボットは、逆にインターフェイスの制約を受けるので、どうしても人間と相互に影響を受けざるを得ない。結局、ドラえもんや鉄腕アトムみたいな、心をもった人間みたいなロボット(が普通にいる社会)の話になるし、多分、現実にそうなる。

人間の心をもったロボット。人間の理解の中側の話なので、つまらないなあ、と思うけれども、そこまでしか人間に理解できないのだからしかたない。理解できないことが起こっていてもそれは理解できないのだから。




あとは、ロボットの寿命の話ですね。ロボットの寿命は多分、思ったより短い。電化製品だから5年くらいしか持たない。だから、エルフや魔族からみた人間を相手にしているような、そんな見え方の物語になると思う。これは、SFではなくて、現実の小説、物語として。


そして、多分、物語に普通にAIが出てくる。登場人物の一人として。特に違和感なく風景に溶け込む登場人物として。今ではLGBTQの登場人物がその属性で意味のある登場人物として出てこなくなった(普通にいる普通の登場人物)として出てくるようになったけれども、もうすぐ、ロボットやAIもそういう登場人物として扱われるようになってくると思う。


AIが犯人の、SFではないミステリって、まだなかったよね?

ちょっと愚痴。上手く頭が動かないので。

最近睡眠が足りてないのか、ちょっとうまく集中できない。久しぶりに作業できる日なのに。それでも連続6時間くらいで、生活をしながら色々とするのは本当に難しいと思う。
どうにも集中するのに時間がかかる性質で、そしてそれは、人間が生まれ持った性質に当たる部分で、どうにも直すことができなかった。直らない性質のものなのだと思う。
そういうわけで、本当に色々と苦労している。
後、鬱をやった後、本当に頭が悪くなって踏ん張りがきかなくなったのもある。ちょっと何とかしたいけれども、なんともならないなあ。
スイッチが上手く入らないので、こんな感じでどうでもいい文章を書いている。

小説を読んだり、映画を見たりすればいいのだろうけれども、そういうのをするのにも体力がいって、その分の体力すらないので、どうにもって感じだ。

最近、インプットがあまりできていない。最近の作品は観ずに、昔のアニメとか漫画とかをリピートで見たりしている。

こういう職業をしていると、そういうのはあまり良くないというのはわかっているけれども、どうにも頑張れない。歳をとったのもあるのだと思う。あと、マルチタスクが本当にできなくて、タスクが溜まると本当に効率が下がる。これも生まれ持った性質で治らない。だから、タスクを溜めない、タスクを受けないようにする必要があるのだけれども、『生活』をしてると難しい。

子どもにまつわる諸々の雑用とか、ごはん作ったり洗濯をしたり食器を洗ったり、一日にしないとならないことがたくさんあって、それぞれ、脳のコストを使っていくし、『生活』は決まった時間に決まった作業をしないとならないので、一度集中していい感じでも、ケツが決まってしまっていて、どうしても無理矢理集中を中断しないとならない。
これも自分の性質なのだけれども、集中を無理やりきると、ものすごく頭痛がして、メンタルが極端に悪くなる。他人と生活していると、メンタルの悪化というのか関係性の悪化につながるので、できるだけ避けないといけない。結局、スイッチの切り替えの時間を含めてスケジュールを切らないといけない。

なので、どんどん使える時間が少なくなる。

本当に辛い。





愚痴でした。

普通でない人生で普通になりたい人と、人生をゲーム化する人と

精神科医に「本当にもう、鬱病とか双極とかいいので、やめたいです。薬も全部やめたいです。健常者になりたいです。小説とか絵とか詩とかも、全部やめて普通に学校行きたいです。普通の人になりたいです。鬱病やめたいです」って泣きながら言ったら「無理なので今晩もきちんと薬飲んでね」と言われた


blog.tinect.jp

おれは「ふつう」のスタートラインに立てない。おれは「ふつう」ではない異常に低い性能しかない、異常に低い社会で生きている。

べつにだれがなにをもって「ふつう」を名乗ろうとかまわない。おれに止めるすべもなにもない。とはいえ、かなり恵まれた前提があって、そのうえで能力にも恵まれた人間が「ふつう」を名乗っているのであれば、少しくらい毒づきたくもなる。そのくらいは許してもらいたい。


p-shirokuma.hatenadiary.com

うちの家庭はゲーム一家なので、人生や人間模様についてゲームを比喩として語り合うことが多い。ゲームと人生の似ているところや、ゲームと人生の違っているところを日常的に言語化しあっている。たとえば「たいていのゲームではステータスやパラメータが数値化されて一覧できるけれども、人生ではステータスやパラメータは表示されない」、「だから人生では自他のステータスやパラメータに相当するものを類推できる能力を持っていることが有利になり、類推できないことが不利になる」、といった具合にだ。

普通になりたい。楽になりたい。

自分も、普通にやっていきたいと思う異常者だ。まあ、それでも、結婚もして子供もいて、ただそれ以外で普通でない部分もいろいろあるけれども、普通ではない人の部類から考えると普通の部類に入るのだと思う。普通の定義はよく分からない。
ただ、世の中は『普通』の人を基準に作られている。(しかしそれは世間の平均値とは限らない、世間一般で『普通』と定義、認識される値の周辺、例えば、今の社会制度は異性同士で結婚をして子どもを何人か授かって、家を持ち家で買って、郊外に住む、正社員として転職をせずに新入社員で入社した会社で定年まで勤める、というような人生を想定して設計されている。そういう人生は過半ではあるだろうが、今の社会では決して圧倒的大多数とは言えないのではないかと思う)
そして、社会制度や世間の常識が『普通』を基準に作られているので、そこから外れれば外れるほど生きづらい。知能指数70以下の人間は生きづらい社会だろうが、恐らく130以上の人間も同じくらいとは言わないが結構生きづらい社会だと思う。知能指数130以上の知り合いがいないから分からないけれども。
みな、普通になりたがる。または、普通を演じたがる。何故か。それは期待するからだ。普通であるならば、普通の人生と普通の幸せが降りてくると思ってる。そんなことはないけれども、人間はこの因果関係を類推する人間の脳機能の仕様(バグ)からは逃れられない。論理的にそれを理解しない限りは。
そういうわけで、多くの人は『普通』の振りをする。普通の振りをして、普通でない人や上手くやれない人を不完全だとしてネットで叩く。常識がないとか、そんなでは父親とか母親の資格がないとか、自業自得とか、自己責任とか。そうやって、普通でない人は更に生きにくくなって、『普通』である事への圧力はますます高くなっていくのだけれども、それはまた別の話。

楽になりたい。

普通になりたい、というのは、多分そういうことで、でも、普通になってもそこまで楽ではないのは、まあ、想像がつく。でも、普通になりたい、楽になりたい。
で、ひとつ前に書いた、『誰かの引いた人生のロールモデルという物語』を求める話にも繋がるのだけれども、その人生のロールモデルというのは『とりあえずこうやって送ることができる』というある種『普通では上手くいけなかった人がある程度道筋として歩いていけるその界隈では普通のルート』で、n次元関数の極値のようなものでもある。みんな、そういう物語が欲しいし、普通になりたい。

人生のゲーム化について。

ただ、そういうのと別のやり方がある。
それが、シロクマ先生(id:p_shirokuma)の言っている『人生のゲーム化』だ。です。だと思う。
かなり前に発行されて、そして、現在も名作と呼ばれている自己啓発本に『チーズはどこに消えた?』という本がある。
これは、くよくよ思い悩むことはやめて、とりあえず行動する。未来を予測しない。行動するネズミのようにとにかく試行をする。そうすれば上手くいく、という本で、まあ、それは確からしい。
他にも、成功者の自伝や、成功するための本には、『目的の設定』と『それを達成するための日常的な行動、作戦』について書かれていて、ライフプランや理想的な人生についてはほとんど書かれていない。

こういう行動指針は、『人生のゲーム化』と言い換えても良いと思う。

世界を『現在の状況』と『行動によっておこる変化』に分けて、それぞれの正確な認識と、『暫定的な目標設定』への達成のためのプラン作り、そのための行動、と単純化する。大きい物語とか、ロールモデルとか関係ない。多分、成功したり、世の中をうまくやっていったり、世間的な成功は納められなくても充実した人生を送れるという人は、このような認識で生きて言っているのだと思う。

ただし、これはかなりマッチョな生き方だ。マッチョですよ。普通の(また普通って言った!)人にはちょっと難しいし、こんな人ばかりになったら、社会は万人による万人のための万人の闘争になってしまう。

シロクマ先生の場合、人生の早い段階で、レールから外れる出来事があって(どこかに本かブログに書いてあったと思う)それは今の基準からしたら大したことではないけれども、昭和で、しかも田舎であるならそれはかなり大きい人生の価値観を変える出来事であったと思う。そこから這い上がってきた、その結果得た人生観というのもあるんじゃないかな。ちょっと前の
p-shirokuma.hatenadiary.com
ここら辺の記事を読んでも、シロクマ先生は、マッチョ寄りの人間だろうな、心根の奥の方は…。と何となく思う。

世の中でガリガリとゲームをする人間というのは多分そんなに多くは無くて、攻略本や攻略サイトを見ながら、できるだけ楽で全部を拾えるルートを歩きたいという人間の方が多いし、それよりもyoutubeで配信者のプレイ動画を見て、自分もプレイした気持ちになっている人間だってそれなりにいる。

自分も動物化したいと常々思っていたが、自分の本性がそれを許さなかった。

と、上のところで『シロクマ先生はマッチョだから人生をゲーム化しているのでは…?』と書いたが、生まれ持っての気質という可能性もある。生まれながらにゲーム脳の人間もいるし、物語脳の人間もいる。自分もずっと、そういうことに悩まされずに行動で動けるようになりたいと思っていたけれども結局ちょっとずっと難しいままだ。(かわりに嫁はかなりゲーム脳の人間だと思います)
そこらへん、もう、どうしようもないところだと思うし、この身体とこの色でもう40年以上生きてきたので、このまま、この調子でどこかに流れ着こうと思います。どうせ自分は普通ではないので、自分の行くところは未踏ではあるし、自分が行った先が誰かの道になることもあるでしょう。歩いた場所は地図に記しておけば誰かが見てくれるかもしれない、実際なった。(ただ、今は航海日誌は公開を辞めているのですが)(どこかで書けるようになったら書きたいと思います)
結局自分は物語の人間だった。鬱になって物語というものが存在しないと心で分かってしまった時期に、世界をゲームとしてとらえなおしても良かったのに、そうはならなかった。目標というものが無いんです。成功というイメージがない。自分が望んでいるものが、自分の頭の中の屋根裏部屋*1を守るということだけだった。まあ、それも、難しいわけですが。人は生活をしないとならないし、生活はそういうものをゴリゴリと削っていく。宮沢賢治も『告別』という詩のなかで「生活のためにけづられたり自分でそれをなくすのだ」と人の才について語っている。

難しい難しい。

まとめ。やれる範囲でやってくしかない。

人には人それぞれの世界認識があって、その世界でやっていくしかない。自己啓発はそれをスライドさせてくれる便利な道具ですが、それが効かない人間もいる。そして、そのスライドさせるために使われるのも『物語』の力なのだ。そして、その術は俺には効かない。
普通になりたい、さもなくばゲーム化したいと思うが、それは無理なので、今晩もきちんと薬飲んで寝ます。

*1:この屋根裏部屋という比喩は、ヘンリーダーガーが80年間、誰にも秘密で誰にも見せない物語を書き続けたことに由来します。誰に見せる訳でもない自分だけの物語をどこかで綴り続けれればそれでよかった