orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

のび太の新恐竜についての追記および、映画よりも度し難いのは映画を見ずに語るひとたち。

映画よりも度し難いのは映画を見ずに語るひとたち。

※これは前回の記事
orangestar.hatenadiary.jp
の追記記事です。

 前回のドラえもんのび太の新恐竜についての記事。上げるべきかどうか悩んでいたのだけれども、やっぱり上げるべきではないと思った。
あの記事の感想をいろいろみた。「見ていて言葉にできなかったモヤモヤがすっきりしました」という感想が一番多くて、自分の言葉で自分の中のモヤモヤを形にしたらいいのに、と、思ったりはした。
 せめて、どこをどう思ったみたいな具体的な事を一つでも書いて欲しかった。それは、誰かの意見に左右されないその人自身の感想だから。
 この前のエントリの怒りは僕自身のもので、他の誰かのものじゃない。怒りを覚えたとしてもそれはその人の中にある、何らかの根拠によるもので、それはきっと別のものだと思う。
 「たかが子供向けのアニメにムキになっちゃって」というような冷笑的な意見があったけれども、これは本当に失礼だと思う。僕にじゃなくて、アニメを作ってる人たちに。アニメを作ってる人たちは、本気で、ドラえもんとのび太たちが生きている物語を作ろうとしていて、そして作っていて、だから、自分も真剣になってそれに対して怒っている。そもそも子供向けだから子供騙しで良いなんて子供に対しても失礼だ。
 あの記事を読んだ人には誤解されてるみたいだけれども、のび太の新恐竜は決して駄作ではない。映画単体としての出来なら、新ドラ映画のたぶん5本の指に入る。本当にただの駄作なら、ああいうエントリは書かないし、書けないよ。
 しかし、一番度し難いのは「自分は見ていないけど、駄作だとわかった」「見てないけれども、ほんと今のドラえもんはクソだな」というような意見。自分で見ずに他人の感想だけで分かったような気分になる人間、他人の尻馬に乗って何かを叩くような人間が、一番度し難い。

名作駄作の基準は人それぞれであって、それは、人それぞれに受容体が違うから。

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傑作かどうかを周りの評価で判断する愚かしさ - orangestarの雑記
 これは以前書いたエントリなんですが、自分の意見ではなく他人の感想やセールスで名作と決めるのは、本当に愚かですよ。
 万人が万人とも、その本人の中にそれぞれ違う琴線と逆鱗を持っていて、それは他人にどうこう言われるものではない。自分は、自分の琴線と逆鱗にまかせてあのエントリを書いて、だから他の人も、自分で感じた感想を自分の言葉で自分の砂場に書けばいい。たとえ、どんなに名作だって言われていても、その人の中で駄作なら駄作だし、どんなに駄作だってその人の中で名作なら名作になる。
 緑の巨人伝が最高のドラえもんだって人間も世の中にはきっといる。いるんじゃないかな。いるだろ、多分……。自分の感想を言いますと、正直よくわかりませんでした…、でも世の中には緑の巨人伝が親ドラ*1だった人もいるのだ……
 だから、感想を言うときは本当に気をつかう。
 この間のエントリも上げようかどうかを迷ったのは、あの記事を読むことによって、不快に思う人がいるからです。それに、映画を作った人達も。(ほかのどんな映画やコンテンツもそうですが)
 それでも書いたのは、どうしても書きたかったから。そして、最近の、”批評でもほかの作品を悪く言わない”という風潮がどうかとも思っていたから。でも書くからには、なんで怒ってるのか、どうしてダメだと思うのかっていう根拠をちゃんと書かないとならないと思った。それが、真剣に映画を作った人たち、その映画を好きな人たちに対する最低限の礼儀だと思っているんですよ。
 だから、映画そのものを見ずに、伝聞やうわさ、セールスだけで、映画の出来不出来を論じるという人たちに、自分は与しません。

なんのために考証をし、設定を練り、キャラクターを作りこむのか。

 前回のエントリで『感動できるなら何をしてもいい』という不道徳が、こののび太の新恐竜にはあるんですよ。と書きました。書きましたけれども、でも、そもそもの話、すべての物語は”感動”させるための装置なんですよ。(この場合の”感動”というのは、一般的にいう”泣ける!”だけでなく、笑える、楽しい、怖い、物の見方が変わる、というような、人間の心の動きすべてです)すべての物語において、キャラクターはハリボテでできているし、背景(世界観は)書き割りです。舞台演劇と同じように。
 それを本物にする、魔法をかけるための仕事が、考証や世界観の設定、キャラクターの作りこみです。リアリティをだす仕事。ファンタジーでも、その世界の法則やルール(世界観)を作りこんで、その世界で起きていることはその世界の本当だと思えるようにする。キャラクターが生きているように、何を思い、何を見て生きているのかを、作りこんでいく。それはギャグ漫画でも同じでキャラクターが”生きている”って思わせないと、どんなギャグも面白くならない。(逆にキャラクターが生きていると、ちょっとした掛け合いでも面白くなる。カラブリ、BLEACHの4コマ漫画とかまさにそれ)
 そして、その仕事には、果てがない。歴史や事実は風俗は調べても調べてもきりがないし、キャラクターも、一人の人生すべてを作りこむのは難しい。映画の大道具小道具だって、作りこみには限界がある。どうしても”今はここまでしかできない”、というラインが存在する。テーブルの中に入っている誰も読まない芝居上も使わない手紙をちゃんとしたものとして作りこむことはできても、山を動かすことはできない。
 そして、その作りこみが甘いせいで、それが嘘だってわかってしまうと、キャラクターはハリボテに、背景は書き割りに戻ってしまう。
 そしてその需要レベルは人によって違う。みんながみんな知識があるわけじゃないから、例えば自分は中世ヨーロッパにトマトとジャガイモが出てきても、気にならないで、その中の物語を本当のことだと思うと思う。チャーチルを主人公にした映画をしたときに、自分はチャーチルのことをよく知らないから、でたらめな映画でも、リアルなんだと思ってしまうと思う。
 そして、その物語が見せようとしているリアリティ深度によって、必要とされる考証のレベルも変わってくる。厳密な18世紀の話を、生活をリアルに描くことを目的としている作品でその時代にない食べ物があったら、それはその作ろうとしてる世界のリアリティを毀損するけれども、そういう細かいことを気にしない痛快アクションだったら、そういうことは気にならない。
 また、リアリティレベルの調整ができてないと、覚める原因になる。ドラゴンボールの世界では人は階段から落ちたくらいでは死なないけれども、anotherの世界では必ず死ぬ。ドラえもんのび太の宝島では、のび太が垂直の壁を駆け下りたり、エネルギータンクのなかに飛び込んで平気だったりして、ドラえもん世界の肉体のリアリティを逸脱してしまったので、それで魔法が解けてしまった。
 今回の新恐竜で”恐竜→鳥”の年代が問題になるのは、この作品の物語のコンセプトが”恐竜→鳥”のミッシングリンクが明らかになる!というフィクションなので、それ以外の部分は”本当”にしないとならない。一番大きな嘘を『本当』に見せるために、それに関するところはそれ以外のところはしっかり事実を並べないとならない。今回、途中で酸素濃度の話が出てきて、”すごくうまく魔法をかけてきてくれてる、と思ったのに、一番肝心なところで、魔法が解けるようなことをされて、それで、ひどくガッカリした。
 でも、それが気にならない人もいるし、そういう人にとっては魔法にかけられたまま、すごく面白い映画だったのだと思う。
 (あと、感動させるためになんでもするって言ったら、藤子ドラも、感動手法の中の禁じ手の『自己犠牲』をやってますからね……。しかも三回も……。(海底鬼岩城、鉄人兵団、雲の王国)(そのうち、雲の王国では、不思議パワーで壊れたドラえもんがよみがえるまでやってますからね……)(それでも、辟易しないのはなんでだろう、そこに至る過程をエモく書かずに出来事として書いているからかも)(よくわからん))
 (あと、昔の特撮界隈では、見方の作法として『細目で見る』というのがあったらしいのだけれども(どう見ても偽物のセットを本物としてみる)そこらへんは自分のよく知らない文化なので……)

キャラクターは生きている、どこに?みんなの心の中に。

 うまく魔法がかかったとき、その世界は本当の世界になって、そこにいるキャラクターは生きているキャラクターになる。見た人の心の中で。その人の中に生まれた生きているキャラクターというのは、その人と一緒に生き続ける。なので、その人の中のキャラクターから逸脱したキャラクターの出てくる作品をみると、拒絶反応がでる。
 今回の自分のはソレだったし、ただ、その心の中のキャラクターはその人だけのものなので、今回のキャラクター造形に齟齬がない人もいるだろうと思う。(自分は基準点が藤子ドラになってるけれども、新ドラが基準点になってる人はそこまでずれを感じなかっただろうと思う)
 自分の中のドラえもんは、5歳ごろからずっと自分の中にいるドラえもんで(初めて見に行った映画は魔界大冒険、石にされるシーンは本当に怖かったですね!)そこから、藤子先生が亡くなってから少しインターバルが開いたけれども、飛び飛びでずっと見ていて、(飛んでいる間の映画は後で全部見直した)子供が生まれてからは子供と一緒にみて、最初は新しいドラえもんに戸惑ったけれども、今では新しいドラえもんも含めて、自分の中のドラえもんだ。ほかの人とは違う自分の中のドラえもん。そのドラえもんに対して今回の新恐竜はnot for meだった、客観的にみたらただそれだけのことなんだけれども、どうnot for meなのか、言語化しないと気持ちが整理できない性分なので…あんな長い文章に……。
 for me になるか、not for meになるかは、その人次第で、それで今回の映画はnot for meだった。普通だったらそれで終わりでいいのだけれども、なんであんなに憤っていたかというと、映画の出来が、ドラえもんと切り離した映画自身ではとても良かったからだ。
 でも、脚本家の人は、本当にドラえもんが好きで、心の中にドラえもんが住んでいるのだと思う。それは映画を見ててわかるし、ただ、脚本家の中に生きているドラえもんと、自分の中に生きているドラえもんが全く別なのだと思う。それだけのことだと思うけれども、真剣にお出しされたものには真剣に感想を書かないいけないし、許せないものには許せないと言わないといけない。

新恐竜はプロット、構成、キャラクター配置、シナリオの緩急が無茶苦茶テクニカル。ワクワクさせる描写がすごくうまい。

 自分にとってはnot for me だったけど、とにかく脚本がテクニカル。まず一つ目。観客の脳の負荷のコントロールが計算されている。
 映画でも、小説でも、漫画でも、演劇でも。見てる人間のの脳容量(負荷に耐える力)は一定で、だから、そのリソースをいい感じに管理するというのがパッケージ化されたコンテンツには重要になってくる。
 一度に変数(状況が不明な要素)が3を超えると一気に理解度が下がってしまうので、それを超えないようにするとか、逆に、単純なシナリオでも、変数を増やすことによって脳の負荷を上げて難解に見せけるとか。
 京極堂シリーズも解きほぐすとものすごくシンプルな構造をしてるのに、情報の出し方がうまくて(常時展開される変数が多い)、すごく難解な話を読んでるように思える。(さらにその出し方がうまいので、難解でも話が理解できる)
 これの難しいところは漫画や小説では後戻りしながら読めるので、負荷の限界を考えなくてもいいけれども、演劇や映画の場合はリアルタイムで時間が流れるので、瞬間的な負荷の限界を見極めながら作らないとならない。また、この脳容量は、よく動く絵や、音楽、そういうもの情報を理解、分解している間も使われるので、それも踏まないといけない。
 新恐竜は、この負荷の管理が成功している。
 のび太恐竜展→発掘→キューとミュー誕生→育つ→見せる→過去へ返しに行く→過去で仲間を探す
 までがシングルタスクで、記憶しておかなければならない情報、謎のまま結論や答えが示されない情報がない。(キューを返すかどうかのことを悩んでいるとき、自分で餌をとれて飛べないと生きていけない(だから返すのかどうかを真剣に考えないといけない)ということが問題にしなければならないことを、問題にされていないが、これは、多分、最初はその部分の会話なりがあったがこの負荷の管理のために意図的にやっていると思う)(シナリオの中に、それをにおわせる残りを感じる)
 そしてシングルタスクにした結果、くるくる動く絵や、魅力的なキャラクターに集中できるようになる。魅力的な秘密道具やその効果、ワクワクさせるためのギミックに。伏線として振られるジオラマを1億6500万年前に落とすシーンも、ギミックの合間、ちょうど静かなシーンに差し込んで、みんなが確実に覚えられる。
 その後、中盤、アニメとキャラクターに慣れてみる人間の脳の負荷が減ったころに謎のサル(キムタク)の登場、謎の恐竜(ケツァルコアトルスの影)の登場。謎を差し込んできて、中だるみしないようにしている。
 そして終盤、のび太とキューの感動的なシーンは、すべての謎が解かれてから。
 頭に入れる、残しておくべき疑問点がすべて解消された後に挿入される。その、ふたりの物語にだけ没入できるように。ぐいぐいと圧倒的な画面の情報をこちらに投げ込んでくる。
 絵の情報量も含めた脳の負荷を踏まえて脚本を書ける人間は稀有だし、素晴らしい技術だと思う。
 (宝島も、構成が凄くテクニカル。のび太たちがしていることは船に乗って何かを追いかける、という状態が続いてるだけなんですよ。状況がものすごくわかりやすい、そういう状態にもっていくためのプロットの組み方が整理されている。状況がものすごくわかりやすいから、人間の関係性のドラマをいくらでも入れられるし、状況がややこしいしずかちゃんサイドに尺も割けるし、観客も状況理解のためのリソースをさける。
 そして、やっていることは、純粋な追いかけっこ、が続いているだけなのに(だからこそ)その意味の切り替わりで関係性や、目的が変化していっていることがわかる。とてもきれいな構図だと思う。)
 ただ、そのために新恐竜では、のび太が、今までわかっていた問題に唐突に気付いたようになったり(飛べないと野生でやっていけない)、ジャイアンとスネ夫がどっか行ったことが意図的に無視されていたり、見ている間はおそらく気が付かない、気にならない矛盾点を作ってしまってる。(そしてそれが発生することも織り込み済みで、こういう方針をとっている)
 そして、二つ目。プロットの組み方とそのためのキャラクターの配置。
 この物語は、成長の物語、そして鳥から恐竜に代わる進化の物語だ。成長の話を作るときに、キューが一匹だとその成長の度合いがわからないので、比較としてもう一匹の恐竜、ミューを設定したのだけれども、この発想がでるっていうのが、すごい。出来上がりから見てるから、そうなんだって思うかもだけれども、誰も知らない恐竜の一般的な成長、を描くために、もう一匹出すっていうのは本当にコロンブスの卵で、なかなか出るものではない。すごいアイデアだと思う。
 そして、恐竜の進化の物語についても。その二匹用意するというのは、鳥になる(予定)の恐竜が、既存の滑空恐竜とどのようなところで異なっているのか(尾羽や体の形状など)を示すこともできる。一石二鳥というか、本当にすごい。(このギミックが最初、短所として語られて、それが長所として最後に示されるのも本当に心憎い)(だから、この話を努力による成長の物語ですよ、ってねっとりやられなければ(煙幕的にやってもらえば)このギミックで最後無茶苦茶泣いただろうし、神作品だ!って自分でもなったろうに、って思う)

あごだしで丁寧に作ったスープのラーメンに背油をたっぷりとぶち込んだような。

 とにかく、映画の構成だけでみると、感動させるための装置として、本当によくできている。ものすごく楽しい映画だと思うよ。
 でも、よくできているんだけれども、そのために特化しすぎていて、とにかく、いろんなものがチグハグになっていたり、意図的に無視されたりしている。それが本当に自分には許せなかった。
 ドラえもんとのび太のキャラクターも、そのために今までのものと連続性のないものになってる。
 途中、酸素濃度の話が出てきたとこから、おそらく、徹底的に白亜紀を調べていて、当時生息している恐竜や、”鳥”の発生年代も絶対に調べているであろうに、絵的な面白さを優先して、いろんな恐竜をいっぺんに出してしまったり(でも間違えて1億年前に行ったときにステゴザウルスを出したのはよかった。ああいうのは好き)”恐竜から鳥”への進化の発生年代を無視したりしている。(直接”感動”に結び付くところ以外の考証はとても丁寧にされているところからも、それはおそらく確かだと思う)
 上で書いた、一般の客が嘘だとわかる(魔法が解ける)知識のラインを、低めに見積もってる。観客に対して誠実ではない。子供含む観客を舐めているといってもいい。not for meだ。
 あごだしで丁寧に作ったスープのラーメンに背油をたっぷりとぶち込んだような。でも、構造も、構成も、背油なしでも十分においしいラーメンだし、おれはそのラーメンを食いたいんだ。成長と、巣立ちの、素朴な物語のドラえもんのび太の新恐竜が見たいんだ。
 作中で伏線が雑(学芸員とか)なところがいくつもあって、それがとても不思議なんだけれども、おそらく最初のプロットでは意味があったのだと思う。それを、”感動”のために骨が見えるまで、そして骨まで削っていってしまった結果、変に残ってしまったように思える。

うまくfor meにさせてくれ。

 映画としては、とてもいいんだ。うまいと思う。うまくfor meにさせてくれたら絶対に泣く。いろいろ書いたけど結局、そういうことなんだ。前回のは、だから、本当に個人的な文句なんだ。
 泣けるのもわかる。最高傑作だという人がいるのもわかる。でも、自分には、not for meだった。not for meだったんだ。
 そして、それは見る人によって違うから、not for me か、for meかは、自分の目で確かめてから言ってほしい。
 映画を見ずに、駄作だとか、失敗作だとか言わないで、みて、自分の言葉で映画の良し悪しを語ってほしい。本当お願いします。

自分には子供がいるのですが

 うちの方針として、子供が見たいものを見せるようにしていて、でも、まあ、『見せたい』作品というものもある。
 ただ子供が見たいと望んだものは法律の問題や余程の事情がない限り、できるだけ与えるようにしています。
 で、うちの嫁の話なんですけれども。嫁はドラえもんのび太の新日本誕生が地雷なんですね。どこが地雷かっていうと、物語そのものではなくて、親目線への目配せが大きい、親から子供を心配しているという描写があるところ、「それを観客である子供に見せる」ところ。親が常に子を心配しているというメッセージを子供に理解させようとしているところ。それは、多分、親子で一緒に見に来ていることへの配慮もあるのでしょうけれども、嫁はそれが苦手で。のび太たち(子供たち)の冒険は、のび太たち(子供たち)だけのもので、後ろ(親の方向)を振り返って欲しくない、全力で冒険できる年齢は短いという、哲学?みたいなものを持っていて。だから新日本誕生は観客の子どもの親のエゴに対する配慮が地雷だとか。ちなみに漫画版のび太の恐竜の、ラスト、机の引き出しから出てきた5人に、ママが「あら、どうしたの?みんなそろって」というのに対して、のび太がそっけなく「うん、ちょっとね」って答えるシーンがものすごく好きらしいです。(細部不明、今ちょっと手元にのび太の恐竜がなくて。家の中で遭難中)
 たしかに大長編ドラえもんは、子供たちの、子供たちだけの冒険だと思っていて、あんまり、大人への目配せがないほうがいいなあ、ってたしかに思いました。
 大長編ドラえもんは子供向けだからこそ、慎重に描かねばならないし、子どもを信用して、でも信用し過ぎずに、誠実に作って欲しいと祈っています。

そして新恐竜におけるのび太と、取り巻く状況について

 最近の学校のカリキュラムの方針では、子どものダメなところを叩いて伸ばすのではなく、子どもの長所、得意なところを褒めて伸ばしていく、という風に変わってきています。
 子どもの自己肯定感をあげていって、自信をつけさせていくというやり方で、そして、そのやり方の方が、最終的に子どもが伸び、全体的な底上げができるという事も実証されてます。
(そして当たり前のことですが、自己肯定感の高い子どもは精神的にも安定して、幸福度ももちろん高い)
 この作中でのび太は、苦手なことが多い、本当に駄目な子どもとして描かれています。
 本来の彼の得意なあやとりや射撃、大長編ドラえもんでよくあるスタンダードではない故に思いつく突飛な発想による問題解決など、新恐竜ののび太には一つも取り柄はありません。
 学校でも叱られ馬鹿にされ、自己肯定感をバキバキに折られて、正しいやり方が分からないまま逃避します。
 そしてそのバキバキに折られたやり方を、自分よりも弱い立場であるキューに強要しています。だってそれしか知らないから。負の連鎖。
 最後は感動的に終わって、のび太も、正しい方法は分からないまま、がむしゃらに特訓した結果鉄棒ができるようになるけれども、でも、その過程のやり方、それを是として描くことには問題があると思います。
 少なくとも、新恐竜で描かれたのび太のような傾向の子どもにとっては。

 うちの子どももあまり運動ができる方じゃなくて、逆上がりもできませんでした。
 でも、逆上がりができるようになったのは、スパルタ式の教育ではなく、褒めて、ちゃんと逆上がりのやり方を理論的に教えてくれる体操の先生のおかげでした。
 そこに大きすぎる感動はありません。でも、当たり前にできる理論や技術で向上していって一つずつ成功を積み上げて、自己肯定感を伸ばすという事が一番大事だと思っています。
 出来ない人間が必死に(傷を負いながら)努力してやっとできるようになる、というのは大きな感動だけれども、そのシーンのために、できない子の自尊心を削るようなことをしたら駄目なんですよ。 
 そして努力による成長を進化と子どもにミスリードさせることの罪深さはここにあると思っています。
 たとえば、誰かがのび太に逆上がりのテクニックを教えてくれたら、同じようにキューにただ努力しろと迫るのではなく羽ばたき方を教えるような描写があれば、また違ったのになと思います。
 またはさっき書いた本来ののび太くんの特技があれば、今回みたいな卑屈な子どもにならなかったんじゃないかなと思うと残念でなりません。
 
 これは子どもに届ける作品として、考証を削っていくのとはレベルの違うダメなことだと思っています。
 のび太の新恐竜は、とてもテクニカルで上手な映画なので、語られる言葉や感動が強く心に刻まれる映画なんですよ。
 その時に刻まれる感動がその後の人生にどう響いていくのか、子ども向けの作り手はもっと慎重に誠実に向き合ってほしいのです。

*1:人生で初めて観るドラえもん映画のこと

ドラえもん のび太の新恐竜が自分にとってやっぱり度し難い理由。

ドラえもん のび太の新恐竜はいうなればたちの悪い『江戸しぐさ映画』だった。

 いろいろと許せないところはあるけれども、一番大きな理由、始祖鳥先輩を無視していること。無視していることが問題なのではなく、そういうことをする姿勢が問題。感動させるためには、何をやってもいい、歴史になかったことをあったことに、あったことをなかったことにしてもいい、というスタンス。”感動することをやっているのだから歴史を捏造してもOK”という江戸しぐさしぐさ。これをよりによって、ドラえもんでやるということが、本当に度し難い。


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のび太の新恐竜のあらすじ

 あらすじを話さないと、どこがどう悪いのか、ということが言えないのであらすじを書きます。ネタバレが嫌な人はここで回れ右してください。

  • のび太が恐竜展に併設されている発掘体験コーナーでスネ夫とジャイアンに丸ごとの恐竜を見つける!見つけられなかったら目でピーナッツをかむ!と宣言するちなみに、この発掘体験コーナーは断層とかではなく、恐竜展の敷地の一部を浅く掘っただけのもの
  • のび太が発掘体験コーナーで卵の化石を見つける。
  • タイム風呂敷で包むと、恐竜の卵でそこから双子の恐竜、キューとミューだった。
  • キューはミューに比べて、体が小さく、病気がち。尾羽の大きさも小さい。ミューは、滑空で空を自由に飛ぶのにキューは手をバタバタするだけで飛ぶことができない。
  • 家の中では狭いので、飼育用ジオラマセット(箱庭系の道具で、その中で小さくなって生活できる。また天候調整機能とサイズ調整機能がついている)で生活させる。
  • いろいろ、現代で暮らすのは無理が来たので、キューとミューがいた時代に二匹を戻して、同じ種類の仲間のところに連れていくことに決める。
  • タイムマシンで過去に向かう。タイムマシンから出るときに、昔は酸素濃度が違うから、といって秘密道具の『探検服』を出す。(最初テキオー灯と書いてました。記憶違いでした。ご指摘、ありがとうございました)
  • 最初についた場所は、時間の設定を間違えて、ジュラ紀についてしまっていた。そこでのび太は飼育用ジオラマセットを落としてしまう。
  • キューとミューのいた6500万年前につく。ともチョコ(桃太郎印のきびだんごみたいな道具、さらに、食べた相手の能力を1時間使うことができる)を使って、恐竜を仲間にする。
  • 足跡スタンプという痕跡をたどることができる道具を使って、キューとミューの仲間のコロニーを探す。
  • 途中、謎のサル(キムタク)が現れる。
  • 途中、何か恐ろしいものから逃げている様子のプテラノドンの群れに遭遇する。ちなみにプテラノドンはこの時代には絶滅している
  • 謎のサルの正体は、この時代を監視しているタイムパトロールだった。上司からは早く何とかしろと言われているが、「もう少し様子を見ましょう」といってのび太たちの様子を見守っている。でも、ジャイアンとスネ夫は捕まえる。
  • プテラノドンが逃げていたものは巨大なケツァルコアトルス(作中では種族名は出ず、謎のでかい恐竜扱い、パンフにも名前は載ってない)だった。(説明はされていないが、キューとミューの仲間もこのケツァルコアトルスに住処を追われ逃げていたらしい)
  • 崖に追い詰められたのび太とキューが崖から落ちる。キューは飛ぼうとするが飛べない。二人とも海に落ちる。
  • 夢的なシーンで、フタバスズキリュウ(神木隆之介)がやってきて、のび太を乗せてどこかの島に運んでくれる。ボール遊びをする回想シーンがカットイン。ちなみに、のび太がピースケを返しに行ったのは1億年前。
  • のび太が漂着したのは、キューとミューの仲間たちが住む島だった。すぐに他の個体と仲良くなるミュー。しかしキューはその中に入っていけない。仲良くなろうと近づくと、とさかをもって群れのボス的な個体に引っかかれて傷を負ってしまう。
  • のび太は、キューが仲間に入れないのを、体が小さいから、弱いから、空を飛ぶことができないからだと思い、キューを特訓することにする。
  • スパルタ式の特訓をするのび太。しかしキューは飛べず、手足をバタバタとするばかり。なんども落下を繰り返して体がボロボロになるが、飛べないキューにイライラしたのび太はキューを置いて去ってしまう。
  • のび太が黄昏ていると、しずかちゃんがやってきて、「のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人」と言われて、キューのもとに戻る。
  • キューは一人で特訓していた。それをみて、のび太は、キューのとなりで、自分も頑張ってもいつまでもできない、逆上がりの練習を一緒にするのだった。
  • 巨大な隕石が降ってくる。タイムマシンで移動した先の時代は、K-Pg境界の隕石が落ちるときだった。すごいタイミング。
  • 子供たちを保護しようとするタイムパトロール。恐竜たちを助けようとするのび太。歴史を変えることは許されないというタイムパトロールとドラえもん。でも必死ののび太に絆されてドラえもんはのび太側に
  • 結局タイムパトロールにつかまるのび太たち。
  • しかし、ずっとのび太たちを見守ってきたタイムパトロール隊員(キムタク)が「タイムパトロールがその存在が歴史の特異点かどうかを調べるカード」でのび太をチェックするとビカーッと光る。のび太のこれからの行動は歴史の上での重要なポイントなので、一切手を出してはならない、ということがわかる。のび太たちから手を引いて、見守ることにするタイムパトロール。
  • キューとミューの仲間の住んでいる島が、1億年前に落とした飼育用ジオラマセットだということが判明する。サイズ調整機能が壊れたせいでこういう島になったらしい。
  • 飼育用ジオラマセットの天候調整機能を使えば、ここの島だけは隕石衝突の影響を免れることができるから、できるだけたくさんの恐竜をこの島に集めよう!ということに。1億年放置されているドラえもんの道具が動くなんてすごい!ほとんど安物の中古品で、タケコプターなんてすぐ故障したり、電池切れを起こすのに!
  • 場所を入れ替える道具でできるだけたくさんの恐竜をあつめている最中に、先ほどの巨大なケツァルコアトルスがやってくる。次々にキューとミューの仲間を襲う。
  • ドラえもんとのび太と、ケツァルコアトルスのバトルになる。
  • (この後30分くらいかけて、心揺さぶるシーンが続く。)
  • キューを助けようとするのび太、いろいろあって、ケツァルコアトルスにしがみついたまま降りれなくなり、空高く連れ去れててしまう。
  • のび太を助けるために何度も高所からの落下を繰り返しながら、最終的に、羽ばたきによる飛翔を獲得して、自由に空を飛び、ケツァルコアトルスから落下したのび太を助ける。
  • タイムパトロール(キムタク)による解説。あれは、初めての、滑空ではない羽ばたきによる飛翔で、今この瞬間が、恐竜から鳥への進化への特異点だ。というような意味のことをいう。
  • ケツァルコアトルスがスモールライトで小さくされて無力化される。
  • 隕石衝突による大津波の前に、恐竜を避難させることに成功する。
  • のび太とキューとミューの別れ。
  • 現代に戻ったのび太が、一人校庭で逆上がりの練習をする、逆上がりに成功したとき、その上を一羽、鳥が飛んでいく。

 赤字になっている部分は特に度し難いところ。

恐竜と、鳥の誕生について。

 恐竜の誕生は、ペルム紀が終わり三畳紀が始まったときにおこった大絶滅(所謂pt境界)に端を発する。その時代、(なぜそうなったのかというのには諸説あるが)地球全体が低酸素状態になり、その結果、大絶滅が引き起こされた。そして、その時の低酸素状態を克服するために、爬虫類に属する双弓類から進化したのが恐竜の先祖だ。
 低酸素の状態から酸素を十分に取り込むために、肺の機能をポンプのように発達させた。また、移動の際に体の動きによって呼吸が邪魔されないように、二足歩行を発達させた。それが、およそ2億5000万年前の話。2足歩行をして、ポンプ肺を持つ生き物がすべての恐竜の先祖になった。(のちのジュラ紀や白亜紀で4足で歩いている草食恐竜も、この二足歩行の恐竜がクジラのように先祖返りした生き物だ)
 低酸素状態が回復した三畳紀の終わりごろから、恐竜が増え始める。その中から、羽をもち、グライダーのように空を飛ぶ恐竜が生まれだす。所謂始祖鳥という生き物だ。(始祖鳥は今の鳥の直接の子孫ではないと言われています。ただ、似たような鳥形恐竜がいて、それが今の鳥の先祖であるのは間違いないと思われます)
 しかし、そのような鳥形の恐竜は、分類的には鳥とは言えない。まず、くちばしがない。尾に骨が通っている。強力な胸の筋肉を支えるための胸骨がない。骨格的に、背中まで翼をまわす翼の打ち下ろしができない。その形状から、今の鳥のように自由には空を飛べなかったといわれている。
 この、始祖鳥の生きていた年代は、およそ1億5000万年前
 そして、その後、1億1000万年前には真鳥類と言われる今の鳥とほぼ変わらない空を飛ぶ鳥が生まれている。(しかし、それらの鳥は白亜紀の終わり(6500万年前)の隕石衝突で絶滅し、生き残った別の地上生活を行う鳥がのちに空を飛ぶようになり、それが今の鳥の先祖だといわれている)
 つまり、空をグライダーのように飛ぶ恐竜から、空を自由に飛ぶ鳥への進化は、ジュラ紀の1億5000万年前から1億1000万年前に終わっている。真鳥類のイクチオルニス(9600万~6500万年前)は形的には殆どいまの鳥と変わらない。胸のところに羽ばたきに必要な巨大な筋肉を支えるための巨大な胸骨があり、うち下ろしの羽ばたきが可能な骨格をしている。イクチオルニスはこの骨格から、羽ばたきによって比較的自由に空を飛べたと考えられる。

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イクチオルニス
※画像はwikipwdia のパブリックドメインの画像です。
イクチオルニス - Wikipedia



 キューとミューの仲間がいた時代というのは、すでに鳥が存在している時代で、恐竜から鳥へのミッシングリンクがある場所ではない。じゃあ、なんで6500万年前にしたのか
「6500万年前の隕石衝突と絡めて、感動的な絵にしたいから」
それ以外に考えられない。この、感動のために何をしてもよい、という姿勢はあちこちにあふれている。決して無知ゆえにそうなったのではなく、ある程度情報を調べたうえで、あえて、その科学的に正しい描写をなかったことにして捨てている。その根拠として、恐竜時代は酸素濃度が違うからといってテキオー灯を使うところ。恐竜が鳥になった理由の大きな要素に酸素濃度があり、その知識がなければ、テキオー灯のシーンはおそらく思いつかないからだ。

進化、と努力する、ということをテーマにしてしまったせいで、物語が脱臼している。

 素直に素朴に、この作品からメッセージを受け取ると、『努力は大事』。努力(とのび太を思う強い思い)によってキューは飛べるようになった、というお話、に見える。
 しかし、キューが飛べるようになったのは”進化”だから、というようにしたときに、その『努力は大事』というテーマが脱臼する。進化というのは、生まれつきの自分の体の劣っている部分を今生活している環境で努力して補うことによっておこるのじゃなくって、生まれついての特長を生かして、今までとは違う環境へ進出して、適応していくことだ。それに必要なのは、”努力”ではなくて、”逃げる”こと。自分が努力しないでも生きていける場所への逃走こそが進化(適応)する、ということだ。
 キューは、しっぽが短く、体も小さい。飛ぶときにバタバタと手を動かす。それは、滑空して獲物を得る、という”環境”では短所だけれども、空間を自由に動くのが求められる環境ならば、それは長所になる。進化とは、頑張ることではなくて、頑張らなくてもできることを探すこと。そして、実際、ミューは自分の長所を生かして、鳥のように空を飛ぶという適応をした。
 しかし、のび太、側の側面から見た、「生まれつきの自分の体の劣っている部分を今生活している環境で努力して補う」ような物語に見えるし、実際、その方向で感動できるように、観客の感情を誘導している。(キューが飛ぼうとしているシーンで、のび太との親子的な生活のカットインを入れたり、キューやのび太の、泣いている感情あふれる表情を長々と流したり)それ自身は悪いことではないし、観客が感動して涙して気持ちよく帰ってもらう映画なら正しい。でも、その正しさは、今まで、ドラえもんの映画や、普通ドラえもんが作ってきた正しさではないよね、と思う。ハロー新のび太。

ケツァルコアトルスの扱いが雑。

 名前のない巨大恐竜として描かれているケツァルコアトルス。ほかの恐竜を助けたい、っていうときに、その巨大恐竜はその対象ではないの?なにをもって選別するの?のび太のやさしさをフューチャーしてるのに、そのやさしさはその巨大恐竜には注がれないの?
 結局、敵としてしか描かれないケツァルコアトルスの扱いが雑だし、それにたいしてののび太の処理も雑。
 今までのドラえもんでは、そういうラスボスっていうのはいなくって、敵となるには敵となるだけの理由があって、そういう描写をちゃんとしたうえでの空気砲だったりショックガンだったりしたわけだったんですけど、ほかの恐竜とサイズだけが違うというだけで、この扱いはひどい。だって、このケツァルコアトルスは、まったくevilではない。ただ生き物として捕食しながら生きていただけで、こういうふうに『悪いいきもの』として描かれる謂れはない。パンフレットにも名前が載ってないし、守るべき恐竜の仲間ではない、という線引きがされてしまっているように感じる。
のび太に対しても、誠実ではなくて。のび太はこの時代の恐竜全部を救いたいって最初に言うんだけれども、それはものすごい独善なんですよ。それじゃあ、その恐竜が滅びなかったら、この後の哺乳類も生まれないけれどもいいの?人類も生まれないけれどいいの?歴史を変えるってそういうことだよ?って昔のドラえもんだったら誰かが言っていただろうし、それを無視して独善を貫くなら、すべての恐竜を区別なく救うべきなんですよ。のび太と竜の騎士が許されたのは、あれは因果が閉じる話だったからですよ。

ドラえもんを見に来た子供たちが、科学に対して誤解をしたまま帰る。

 鳥の起源について、始祖鳥という存在を完全に無視してる。また、何も知らずにこの映画をみると、『キューが頑張って恐竜から鳥に進化した』というように見える。獲得形質は遺伝しないし、進化というのは1代で起こるものではなく、100万年という時間をかけて変わっていくものだ。そこら辺の進化に対する知識、年代についての知識を間違って覚えて帰る可能性がある。もっと、ファンタジーな映画ならいいけれども、ドラえもんって、そういう映画じゃないじゃん?科学的には正しい部分を提供するっていう、そういう未来から来たロボットのSFじゃん?だから、自分は、ドラえもんで、江戸しぐさみたいなことをするのが、本当に度し難いんですよ。

ドラえもんはキッズ向けのムービーからデートムービーになってしまった。

自分がまだ中学生だったころの話。大山ドラのころの話なんですけれども、中学生にもなってドラえもんを見に行くって恥ずかしいことだったんですよ。アレは、完全に子供向けの映画で、中学生にもなってそれを見にいくなんて、っていう。
ところが、今って、ドラえもんって、デートムービーじゃないですか。高校生がカップルで見に行ってもおかしくない映画になってしまった。それはいい、もう、それは、映画として生き残るためには正しい進化です。でも、その中で、できの悪い邦画の持っている『感動できるなら何をしてもいい』という不道徳が、こののび太の新恐竜にはあるんですよ。

のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人じゃないよ。いたずら好きの子供だよ。

あと近年の感動のび太病とでもいうべき、何かにつけて、のび太に対して、「のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人」って定義づけをするんですけど。これ、もう、ほんと、短編ドラえもんを読んだことがなくって、映画ドラえもんや、エアプでドラえもんを履修している人間がいってるんじゃないかって思ってます。ドラえもん単行本をみたら、のび太は他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人なんかじゃ全然ないですからね。ドラえもんの短編の三分の一くらいが、ジャイアンとスネ夫に仕返しをしてゲラゲラ笑うような人間ですからね。お年玉をくれない正月の訪問客から道具を使ってお年玉をせしめたりする。発掘おじさんにこうもり傘の化石を見せて「新種の始祖鳥だ!」っていってるのをみて笑ったりする。(その後反省して謝りましたけど)
 第一結婚式の前日に、結婚相手の男を評する言葉なんて、リップサービス以外の何物でもないじゃないですか!
 あと、しずかちゃんが(出木杉じゃなくて)のび太を選んだのって、なんとなくわかる気がする。いつも隣にあんな完璧超人がいたら、(そして自分自身、ある程度ちゃんとできると自認してる人間なら)ノイローゼになりますよ。そいて、出木杉と比べたら、ほかの人間なんて、全部似たり寄ったりの能力ないですか。出木杉がすごすぎて。そんななか、のび太って、いろんなものに、大人になっても新鮮なリアクションをしてるんだろうって思うし、思いついたことを思いついたままにやって、失敗して、泣いたりするだろうし。そういう人間がとなりにいたら、やっぱり生活が潤いますよ。経験者は語る。
 だから僕は『のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人』じゃないと思ってますよ。『いたずら好きの子供』だよ。たぶん大人になっても。で、しずかちゃんはそこがよかったんじゃないかな、って勝手に思ってる。
 ところで、映画館でのび太の新恐竜が始まる前の映画の宣伝で、stand by meドラえもん2 の宣伝がやっていたんですけれども、のび太が結婚式当日に逃亡する話なんですけれども、ああ、これたぶんまた、「他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る」のび太の話なんだろうなあ、感動するんだろうなあ、って思って、not for meドラえもん、と思いながら、そっと目を閉じた。あとに始まったのが新恐竜です。

ちゃんとした監修の人が入っているのに、なぜこうなったのか。

 スタッフをみると、ちゃんとした博物館の名前があって、この人たちが監修をしているのに、なんでこんなことになったのかと思うのですよ。始祖鳥先輩を無視していることに対して絶対突っ込みが入るはずなので。だから、決して、無知によってこのようになったのではなく、確信犯であろうと思います。無知によって起こってしまった事故というのは『実はフタバスズキリュウは胎生で卵で生まれない』とかのことですよ……。(ただ、当時はそこまでよくわかっていなかったし、資料集めも今ほど簡単じゃなかったから……)フタバスズキリュウは卵で生まれないんですよ…どうすんの……これ……。


というような、理由により。
ですので、私は、こののび太の新恐竜がどうしても度し難いのです。

度し難い以外の、個人的な感性で嫌いな部分。

今まで書いてきたのは、できるだけ客観的に見て、誰がどうみてもこれはおかしいしやっちゃダメだろ、っていうところについて。
ここからは、個人的な好き嫌いで、嫌いな部分について書きます。

卵から生まれた生き物を自然に返しに行くのって倫理観的にどうなの?

卵から育てたら、その後のその動物の人生に責任を持たないといけないし、気軽に命を扱うというのはどうなのか。いや、旧ドラ、漫画ドラだと、けっこうのび太は簡単にそこら辺の生命倫理を飛び越えるのですけれども(台風のふー子の話は、しずかちゃんが卵から育てた鳥がしずかちゃんになついているのをみて、「僕も卵から何かを育てたい」といったのが始まり)今のわさびドラののび太、ドラえもんは、そこらへんを今の時代の価値観に合わせてきてるので、今ドラで、それをするのはどうなの?って思う。もう少し思慮が必要、今の時代に合わせるのなら。
結局手におえなくて自然に返す、という考えも、今の時代、問題があります。人間の手でそだてられた生き物は、自然ではなかなか生きていけなくて、結局死んでしまうことが多い
。結局、自分の手を汚さずに動物を殺すということだし、自分で自覚せずにそれを行う卑怯な行為です。人間が育てたなら、最後まで人間が育てるのが、今の、生き物育て界の倫理だし、自然に戻すのなら、そのつもりで一番最初、卵から生まれた時から、自分で餌をとって生活できるように訓練していかねばならない。そういう覚悟がない。そして、そういう覚悟を書くべきなんじゃないかな、今の時代野生動物を育てる話をするなら、と思ってしまう。
あと、コンタミの話。
キューとミューを仲間のところ(同種族)のところに返す、という話だけれども、同種族でも違う場所から来た種を入れればそれは外来種です。恐竜時代、はるか昔の話だから問題がない、だろうけれども、(わからん、それはタームパトロールの管轄。でもたぶんダメっていう)買ってる生き物を、自然に放つ、ということに対して、今はとても配慮がなされています。小学校でも、カブトムシの捕獲に対して、「一回捕まえたカブトムシは、自然に放すことはしないで、最後まで(死ぬまで)責任をもつこと」っていわれる。今、それくらい動物と外来種に対しては神経質になっていて、そういう時勢に対して、あまりにも無邪気。

周りが芝生の恐竜展博物館の庭みたいなところを掘って、恐竜の卵の化石が出てくる。

出てくるかそんなの。石油や埋蔵金じゃねーんだぞ。
あれは福井県立恐竜博物館の屋外恐竜博物館ツアーやかつやま恐竜の森で行っている化石発掘体験のような、施設内に化石が出そうな石を運び込んできて、化石の発掘を体験してもらうというコーナーではないかという指摘をいただきました。たしかにそのように見えます。訂正します。

冒頭で恐竜のことを教えてくれた学芸員。

あの人何で出てきたの?必要だったの?出木杉くんでいいじゃん。

最初出てきたとき物語のキーパーソンかな、と思ったら、そのままいなくなってしまった。タイムパトロールの人の先祖とかでもないみたいだし。本当に素直に、「何だったんだろう、あの人……」と思ってしまった。恐竜を飼ってるって秘密を、ばらすわけでもないし……。

今までの映画だったら、こういう時に頼りになるのは出木杉くんで、聞いたら何でも答えてくれる。結局冒険には連れて行ってもらえないけれども。
出木杉くんに関しては、前回の月面探査記の解像度が高すぎて、ちょっとだしづらかったのかもしれないな…。あの出木杉くん、黒い靴下はいてたしな……。

ピースケ。お前どうなっているんだ……。

最初、こののび太は、のび太の恐竜ののび太とは平行宇宙ののび太だと思ったんですよ。だから、恐竜を育てるとかも初めてで。だから、あんなに無邪気に恐竜を育てられる。ピースケのあと、公園で恐竜をかって、どうにもならなくなって、白亜紀に返しに行くことになったこともないのび太。
って思ったら、エンドロールではっきりと「ピースケ(CV神木隆之介)」ですよ。え?こののび太、ピースケを知ってるのび太なの?じゃあ、ピースケ育てて、あんなに後悔したのに、また恐竜を卵から育てているの?学習しないの?サイコパスなの?あと、ピースケを送った年代と違うんだけれども、それまでピースケ生きていたの?(漫画版では1億年となっている)(けれども、ティラノサウルスとか出てきていて、ティラノサウルスの生息時代は6600万~6800万年前)(ティラノサウルスとプテラノドンが出てくるけれども、これらが同じ時代に共存したことはない)(フタバスズキリュウは卵から生まれない)(……む…、昔の作品だから…)(死)
おそらく、これも、感動させるための装置として無理やり挿入されたんでしょうけれども、それによって、本当にいろいろと酷いことになってる。

タイムパトロール隊員が苦手。

 子供が困ってるときに、「彼らが何をするのか、見ものだ」みたいな感じでなんでお前他人ごとなの?大人としてどうなの?子供が困ってたり、どうにかしたいと悪戦苦闘してたら、そして、その場にいるなら、それをなんとか助けようとするのが大人でしょ?だから、白亜紀末期の基地なんかに左遷されるんだよ。とか思ったりした。舞台装置として彼は存在しているのだけれども、あまりに舞台装置過ぎる。
タイムパラドックスとか、そこら辺の話がおかしいって気にする人がいるかもしれないけれども、そこは問題ないんだよ。昔のドラえもんでも、藤子不二雄のSF短編でも、こういうパラドックスはいろいろギャグシリアス含めてやってるし。
 問題はTP隊員の態度ですよ。お前の態度が気に入らない。
 あと、これをちゃんと書き出すともう1万文字くらいいくのでざっとしか書かないんですけれども、彼の行動と精神が、TPぼんに出てくるタイムパトロールの精神とあまりにかけ離れている。TPが助ける相手というのは、その人物を助けても、歴史に影響がない人間、チェックカードが反応しない人間で、つまり、TPの行動って、一切なんの生産性もないんですよ。助けたからといって歴史が変わってその後の歴史がよくなるわけでもない、その人物のおかげで世の中がよくなるわけでもない。なんの生産的な理由もなく、ただ、そこに困っている人がいるから助ける、っていう、究極の人道主義、福祉の精神の体現がTPの在り方であるわけですよ。(たぶんF先生はそこまで考えていなくって、物語のガジェットとして、適当に設定しただけだろうけれども)さすが主題歌をアンパンマンと同じ人が歌っているだけのことはある。
だから、それに照らし合わせると、ここで恐竜好きのTPであるならば、『せめて歴史に影響のない恐竜なら助けたい』って思って、そう行動するはずなんですよ。神の視点になんか立たないと思うんですよ。
 TPの仕事っていうのは、時間犯罪者の逮捕ではなくって、そういう困ってる人をしらみつぶしに助けるってものなんですよ。これはTPぼんじゃなくって、ドラえもんに出てくるタイムパトロールだから…なんて言い訳は聞かないぞ、チェックカードまで出しておいて。

のび太くんとのび太を取り巻く環境(圧力)がドラえもん的ではない。『劣った人間や他と違う人間は人一倍努力してようやく社会の一員として認められる』というような、ストーリーの背景にある思想について。

 なんだろう、自分の受け取り方の問題なのかもしれないけれども、この映画ドラえもんのび太の新恐竜ののび太は、ずっと、社会や自分自身の内面から、『頑張って普通になれ』という圧力を受けている感じがする。努力して頑張って成長しろ、そうするべきことが正しい、というような世界観をこの映画から感じる。それはとても道徳的に正しい。道徳の教科書に載るくらい正しい。
 でも、ドラえもんって、そういう話ではない。ここはもう、本当に、絶対に譲れないポイントです。
 ドラえもんっているお話は、できない、どうしようもないことを肯定する話で、できないことや無理なことを便利な道具で解決する話で、どこまでも他力本願な話だし、そうあるべきだと思ってる。80年代には、ドラえもんはのび太が道具でなんでも解決してしまうから不道徳だと糾弾されたこともある。でも、ドラえもんって、本来不道徳の話です。ギャグマンガだし。あんな夢こんな夢を不思議な道具でかなえてくれる話です。そこに自助努力はない。ポケットを開くと簡単に道具が出てくる。
 また、藤子F不二雄作品において、『努力の効用によって成功、成長する』といった類の話というのは(ほとんど)存在しないんです。自分の観測範囲なので、もしあったら教えてください。(時門と、ウマタケのエピソードで努力して結果を出している、という指摘をいただきました…。たしかに……。)ドラえもんでも、のび太が、『よし!努力するぞ!』と決意しても決意するところで終わって、机の前に座ってるところでだいたい終わります。努力の効用によって、のび太が成績が良くなったとか、スポーツがうまくなった、とか、そういう、努力によって結果を得る、というシーンってほとんどないんですよ。(練習したり頑張ったりしてるシーンはある)藤子作品全般に漂う『努力の効用の否定』については、いろいろと自説があるんですが(終戦を体験した作家であるとか、F先生自身が努力が嫌いとか)それを書き出すとまたそれで1万文字くらいかかるので……。
 そんなわけで『劣った人間や他と違う人間は人一倍努力してようやく社会の一員として認められる』ということに対しては、とても藤子的てはないな……、という感想を持ちます。エスパー魔美で、魔美の父親が疎開先で、祖父が青い目をしているせいで、外国のスパイとしていじめられます。その時に父がとった手段は、『逃げる』でした。
 TPぼんのエピソードで、原始時代に行って、狩猟採集をしている部族で狩りが下手な若者、狩りが下手で組織の成員として認められない若者を助ける話があるんですが、その時の方法は、『打製石器の作り方を教える』でした。
 基礎的な能力が足りなくて組織で認めらない人間は、逃げるか、別の能力を発揮するか。飛べない鳥に飛べ!という必要はないんです。
 そして、今回のドラえもんについて。たぶん、(進化と適応の学術的な話をしらない)普通の人がみて、この作品から得られる感想は、劣った存在でも、人一倍努力して、みんなと同じように、空を飛ぶことができる。努力の賛美。だと思います。それ自身はいい(あんまよくないと思うけれども)。ただ、その努力の賛美というものは、『できない人間に対する努力の強制』に容易に結びつくし、できない子供自身に対しても、彼を内面からさいなむことになります。でも、ドラえもんってそんな話じゃないじゃん?困ったときに他力で助けてくれる話じゃん?
 ついでに。最近の教育の考え方としては、そういうスパルタ的な教育はあんまり効果がないんじゃないかって否定され始めてます。今は所謂、ほめて伸ばす、というような、まず自己肯定感をアゲておいて、そこから能力を伸ばしていくというような方向が効果があるという、根拠ある調査結果もあります。スパルタとその成長の物語は、物語として見ていて面白いし感動するし、泣けるんですけれども、子供向きで、これをみて、自意識が作られるであろう子供、周りと比べてできない子供にたいして、この映画はあまりにも配慮がないのではないかと思うんですよ。ドラえもんの本当のターゲットである、『のび太』みたいな子供に対して、この映画はあまりにも厳しい。


 あと余談ですけれども、なんで努力して頑張って成功する話で感動するのかっていうと、因果を認識する人間のバグなんですよ。物事に因果関係を勝手に見出してしまうバグが人間にあります。そして、支払った分が大きく、リターンが大きい、と出来事ほど、人間は”感動”してしまうようなバグがあります。このバグを利用して、感動できる話とその演出がなされるわけです。人間が感動して涙を流すのは、大体バグによるものです。SFという、科学、分析、世界を切り分ける概念が深い部分を流れているジャンルと、泣ける物語というのは、基本的に相性が悪い。それでも無理に泣かせる、感動させる、エモーショナルな話にしようとすると、どこかで話とテーマが脱臼する。
 





ここらへんは、本当に個人的な好き嫌いなので、あの、それの部分が好きだっていう人がいたらごめんなさい。


ただしアニメーションはものすごく素晴らしかった。

ミューの飛んでいく姿や、飛んでいるときの疾走感。のび太やジャイアンのキャラクターもすごく生き生きと描かれていて、CGで表現された恐竜たちもすごく丁寧な動きをしていた。コミカルのシーンのディフォルメも素晴らしかった。なによりも、最後のケツァルコアトルスとの対決のシーン、すべての絵がすごく生き生きと描かれていて、ああ、いいアニメを見ているなあ、と思ってしまった。ともチョコのアイデアとギミックもよくて、アレがあると絵がとても華やぐ。うまいなあって思った。
本当に、本当にアニメーションはよかったので、そこだけは見てほしいと思うんですよ。ミューとキューが本当にかわいい。

追記:

orangestar.hatenadiary.jp
言葉足らずだった部分を追記しました。
あと、今回、これだけたくさんの人に見られる中で思ったことなどを書いています。



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月面探査記は本当によかったので、ぜひみて下さい。

以前に記事を書きました。
orangestar.hatenadiary.jp

ベランダにテントを出した

とりあえず日常などを。

外に出れず子どもたちも煮詰まっているので嫁がいろいろ考えて家の中でできる楽しいことをいろいろ模索している。
マンション在住なので、できることが限られてる。一戸建てだったら庭に出て色々できたと思うんだけれども。


家の中で退屈だろうと、ベランダにテントを出すそうということで、子供が寝た後、去年の夏、海に行ったっきりほったらかしだったポップアップのテントをお風呂場で洗う。砂だらけだったので、結構洗うの大変。お風呂場が砂だらけに。夜のうちにベランダに干して。
ベランダ、うちは結構広くて、テーブルセットを出している部屋も多い。

翌日、気づいた次男が、アレ?という訝しげな眼で見てる。長男は早速遊びたがって、朝ごはんを食べたらね、ということで、朝ごはん。食べてからベランダへ。クッションとか、ぬいぐるみとか、いろいろ柔らかいものを放り込んで、居心地をよくして巣を作る。そこで寝るつもりみたい。お昼は、おにぎりをソーセージ、卵焼きをつくって、ベランダにもっていってそこで食べる。ちょっとしたピクニックみたいにして。


夜も出しっぱなしにしてたら、翌日、朝早く子供起きて先に入って中でゴロゴロしてた。テントの中をのぞいたら、布団の中からニヤニヤしてこっちを見た。(しかし危ないので手の届かないところに補助鍵を付け足さねばならない)




そんなこんな感じで毎日を過ごしています。