orangestarの雑記

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自由とは「やりたいことをやれて」「やりたくないことをやらないでいい」という状態

inujin.hatenablog.com
上の記事を読んで思ったこと。

自分は自由っていうのは、簡単に言うと
「やりたいことをやれて」「やりたくないことをやらないでいい」という状態
だと思う。

つまり、5000兆円あれば、問題なくなる!5000兆円欲しい!終わり!

……というような単純な問題じゃないだろう。
この自由が成立するには

「やりたいこと」

「やりたくないこと」

がないと、なにも始まらない。
じゃあ、やりたいこととやりたくないことってなんだ?


まず、生きていると自分の周りには『枠』がある。
やらなきゃいけないこと、やってみたいこと、やってはいけないこと、やったほうがいいこと
それは金銭的な問題で発生したり、人間との関係性で発生したり、倫理観やそのほかによって発生したりする。自分を囲むいろいろなものが、自由を妨げている。
じゃあ、その『枠』が一切なくなってしまったら?

自由か?

「やりたいことをやりたい」という意思と「やりたくないことをやらない」という意思は、その周りの不自由から来ているのではないか?不自由がないと、自由も存在しないのでは?
(id:inujin)さんは、自由を妨げるものは、『自分自身が自分に課した枷』だと言っているし、自分もそう思うけれども、その枷がなければ本当に自由なのか?その枷自身を自分に科すのか科さないのかも、また、自分の自由意思によるものではないか?自分で選び取った不自由によって、その先の『自由』という概念を得ているのでは?

自由、というものは『不自由』であるときにだけ生まれて、手に入れてしまえば、そこに『自由』という概念はなくなってしまうのでは?と思う。

じゃあ、自由ってどこにあるの?

自由は、『自由を求めて苦しんでいるとき』にしかないように思う。
『やりたいこと』を見つけて、それを実現するために、苦労しているとき『自由』はそこにある。

でも、まず、自分の『やりたいこと』を見つけないと。な、と、ちょっと年を取って欲望のレベルが下がってしまった自分は思うのだった。

思考メモ、資本主義の悪魔と傷物の悪魔の相互作用について

orangestar2.hatenadiary.com

というような漫画を描いたのですが、描いた後でこれは、そんなに単純な話じゃないぞと思ったので
「交換不可能」と「交換可能」を行き来することによって近代、そして近代以前の社会が形作れれてると考えると、『社会システムがどのような力学で動いているか』を説明できるのでは?という霊感がちょっと出た。

交換可能なものを交換不可能にすることと、交換不可能なものを交換可能にすることは、今も、相互に起こっている

  • 丁度水の平衡状態のように、いろいろなものが交換可能になり、交換不可能になっている。
  • このふたりの悪魔は、どちらかが強いというわけではなくお互いがお互いを補完しながら、社会を形作っている。
  • 今まで、『資本主義化』だと思っていたものは、実は、『傷物化』であった、あったのだ。交換可能なものに交換不可能(付加価値)をつける。そして、それがまた『交換可能』なものに変換される(陳腐化)を繰り返し、そして、そのたびに『物の価値の総和』は膨れ上がっていく。
  • 人権のもともとの『自由権』は資本主義を形作るうえでもっとも重要な権利で、それに伴う『人権(福祉)』も資本主義が作動不能にならないために必要なオイルのような役割を果たしている。
  • 実は、人権は再発見されたものではないのか?5000年前の『組織化されたダンパー数を超えた社会』以前の社会では、人権(交換不可能な個々人としての人間)は存在していたのでは?
    • それが、ダンパー数を超え、物語(概念)で世界をとらえるようになった結果、人権が消失して、『原始資本主義社会』が終わり、封建制度が始まったのでは?
    • 原始的な部族は、『交換』によって、社会が成り立っていた、貨幣、の概念があった。

交換可能なものと、交換不可能なものは、社会制度によって変化していく。

  • 人権以前は、『人間』(奴隷、女性、子供たち)が交換可能な商品だった。人権(自由権、自己決定権)は成人男性、または、身分のある人間、にしか認めらていなかった。
  • その中であっても、『子供がおもちゃに愛着を抱くように』個々人にとって交換不可能な存在というものは生まれていったと推測できる。大家族としての荘園のようなものもあったであろうし、家臣、郎党というのもそれに近いように思う。」

「傷物の悪魔」と「資本主義の悪魔」によるファシズムやポピュリズム、政府によってコントロールされる差別

  • 交換不可能なものは、交換可能にしたときに、『高値』で売りつけることができる。
  • また、「交換不可能」なものは値段が付かないので、『価値』と交換したときに交換された相手は「なんか得した気持ち、自分は価値を持っている気持ち」になる。
  • 交換不可能なものは『ルールメーカー』によって、作成可能。

以上の権能を使うことによって、効率的に市民を支配、搾取することができる。実質は奪われているのに、与えられたような気持になる。現在アメリカで起こっていることや、過去のファシズム政権で起こっていたことがこれにあたると思われる。
『ファシズムの14の兆候』というものがある。

1. 強力かつ継続的なナショナリズム(Powerful and Continuing Nationalism)
2. 人権の蔑視(Disdain for Human Rights)
3. 団結させるための敵の設定(Identification of Enemies as a Unifying Cause)
4. 軍事の最優先(Supremacy of the Military)
5. はびこる性差別(Rampant Sexism)
6. 支配されたマスメディア(Controlled Mass Media)
7. 国家安全保障への執着(Obsession with National Security)
8. 宗教と政治の結合(Religion and Government Intertwined)
9. 企業の力の保護(Corporate Power Protected)
10. 労働者の抑圧(Labor Power Suppressed)
11. 知性や芸術の蔑視(Disdain for Intellectuals and the Arts)
12. 刑罰強化への執着(Obsession with Crime and Punishment)
13. 身びいきや汚職の蔓延(Rampant Cronyism and Corruption)
14. 不正な選挙(Fraudulent Elections)

  • 1.ナショナリズムは、国籍、民族というものを強調し、それが『交換不可能』であるとすることによって、価値を「売りつける」ことができる。これによって、国民の「不平不満(金銭的な不充実)/交換可能な価値」を無理やり「その交換不可能な価値」と交換させている、3. 団結させるための敵の設定、5. はびこる性差別 も同様だ。
  • 『交換不可能』性、というのは、価値の多様性、でもある。支配するには、順列を重視し、上意下達で同一の価値観を持たせる必要がある。
    • 知性や芸術の蔑視、宗教と政治の結合は、交換不可能な価値を、同一の『交換可能な貨幣』に置き換える作業だ。

他の項目はほかの力学によって動いているが、交換不可能と交換可能の活用『効果的に、投入したコスト以上のリターンを得る』ことが可能だ。

「推し」という、『資本主義の悪魔』と『傷物の悪魔』の丁度綱引きの間にいる存在

キャラクター消費、も含めて。
金銭的に交換可能だが、それは『交換不可能』なものを『交換可能』にすることによって生じる差分を金銭に変えている。
交換不可能性が高ければ高いほど、その差額は大きくなる。



などなど。

傷物の悪魔、についての補足

傷物の悪魔は、人間が人間らしくあるために必要なもので、例えば、子育てや結婚生活というものは、この悪魔の力によって成り立っている。
『生命の泉』という社会実験があった。まあ、wikipediaとかで読んでもらったらいいのだけれども、ナチスドイツで、子供たちを集団で効率的に育てて、優秀な民族を作り出そう、という計画だった。のだけれども、盛大に失敗。人間には、どうやっても「愛着/特別に愛情をささげるという差別」というものが必要だったんだなあ、という結果に終わった。特別な存在である、特別な存在を持つ、ということは、人間が人間らしくあるために、どうしても必要なものなのだ。それは、人間相手だけではなく、物に対しても、同じで、ライナスの毛布の例えもある。
傷物の悪魔がいないと、社会が成立しない。
ゲマインシャフト(資本主義の原理が働きにくい、地域社会、家族社会)の領域だけではなく、ゲゼルシャフト(社会契約やギルトによって成り立つ、交換可能な社会)でさえ、傷物の悪魔による、人と人をつなげる引力、は発生している。

一言でいうと、『愛』と呼んでいるものと、とても近い。愛は差別的だ。万人を愛するということは誰も愛さないということと同義、みたいな言葉がどこかにあった気がする。

資本主義は、幽霊を見ない、信じない

資本主義を突きつけるとすべてが交換可能、個別の人間の魂、意思というものは存在しない、というところまで解体できるので、幽霊は、いない、ということになりそう。
共産主義の幽霊はいる。まださまよっている。

  • 経済学は、実はここのユニットとしての人間、法人は『同じ能力を持つ存在ではなく、個別にそれぞれ得意不得意があり、持つ能力には明確な差がある』という設定(建付け)になっている。
  • それぞれの支払い能力、生産能力が異なっているので、結果として『需要供給曲線』『神の見えざる手(適正な価格)』が自然発生的に決まる、ということになっている。
  • 個々人のユニットはここでは、『交換不可能な最小単位』として、扱われる。

共産主義は、個々人のユニットに、『差がない』として扱ってる…ように思う?どうなんだろ、資本論難しすぎる。よくわからない。







そういうことを、まず、さわりとして考えている。たぶん、ここからいろいろ発展して、いろいろなことを説明できるようになると思うし、それをコントロールする方法も見つかるかもしれない。



 

「マンガに『おばさん』が少ないことに気づいた」に対して

anond.hatelabo.jp

いるよ。完!


30~50代の女性が主人公、および脇役の作品は、なんていうか数えるのもめんどくさいくらいたくさんあるので(そこらへんを主人公にした小説、漫画、映画などたくさん)このコメントをした人の観測範囲が狭い。
で終わっていい話なんだけれども、まあ、それだけではない色々があるので、その色々をかくよ。


妙齢の女性を描く際には、『妙齢の女性』という属性が付く
妙齢の女性が主人公の場合、主人公には2通りあって

何者かである

何者でもない

の2種類だ


前者は、科捜研の女であったり、洋ドラの主人公たちであったり、プラダを着た悪魔であったり、女海賊であったり、医者Xであったり、まあ、いろいろだ。職業物であり、そして、『男性』としても物語は置換可能だ。

そして、もうひとつ

何者でもない

場合

実はこれが「マンガに『おばさん』が少ないことに気づいた」問題の本質であると思う。
これが『おばさん』が社会にとって透明化されている、ということだ。

なぜ『おばさん』が社会にとって透明化されるのか。
それは、ずっと長い間『おばさん』には、『おばさん』としての役割が与えられていて、それは、社会で『透明であるべき』という役割だった。ここでいう社会とは、男社会であり、物語を持つ社会であり、語られる社会である(それ以外の『生活』では、彼女たちは顔を持ち、キャラクターを持つ人間であり、あったのだけれども、その社会は長い間『物語』を与えられてこなかった)。

なので、今(はそうでもないけれども、すこし前)は何者でもないおばさんの物語は、まず、何者でもないおばさんが、物語を獲得する、ところから物語が始まる。それは不倫であったりもするし、殺人事件であったりするし(OUT_(桐野夏生)はその典型であり、名作なのでできれば読んでくださいね)、莫大な借金であったり、とにかく、そういうところから物語は始まる。そして、大多数のおばさんが、『物語を持たない』存在として、この日本社会には存在しているからこそ、おばさんが物語を獲得する、という物語が、文学性を持ち得ているのだ。

そして、はい、ここからが、「マンガに『おばさん』が少ないこと」につながるのだけれども、上記の例は、『おばさんが物語の主人公になる』場合で、脇役で登場する場合はそうはいかない。おばさん、というデフォルトの設定では、『彼女たちは物語を持っていない』のだ。

物語をもっていないので、主人公に影響を与えることがない、登場人物、脇役としての力が弱い。
そこらへんが、この増田が「マンガに『おばさん』が少ないことに気づいた」と思ってしまった理由だと思う。

これが、おじさんの場合、逆に「今までの人生で物語を持ってこなかった」という『特殊な人間』の物語になる。
(本当はそんなことなくて、物語を持たないおじさんは世の中にたくさんいるのだけれども、(『男性』社会(つまり上記で描いた、物語を持つ社会)からオミットされている男性))
最終兵器黒沢、とかそういう物語だった。まず、主人公が物語を持たない。ということ自身が、物語性(文学性)を持っていた。

これ以上踏み込むとややこしいジェンダー論になってくるので(すでになっている気がするけれども)いったんここらへんで。

ラセーヌの星のOP前の語りが一言一句に至るまで、文章として完璧なので、ぜひ聞いてほしい


www.youtube.com

フランス大革命の前夜、花屋の娘として育てられた美少女シモーヌはラセーヌの星と名乗り剣をとって戦う。しかし彼女は自分が王妃マリーアントワネットの妹であることを、全く知らなかった「(民衆の声)マリーを吊るせ~!!」


というのが、ラセーヌの星のOP前に流れる『語り』なんですけれども、この20秒ほどしかない語りが、細かい前置詞、単語の置き方含めて完璧なんですよ。

まず、フランス革命、ではなく、大革命、という言葉の選択、そしてそれに続く、
「花屋の娘として育てられた美少女シモーヌはラセーヌの星と名乗り剣をとって戦う」
シモーヌの情報として、まず、花屋の娘とあり、これで『庶民』であることがわかる。そして、(~として育てられた)ということで、実はそういう身分ではないということを示唆している。さらに、さりげなく入る『美少女』という情報(これがあるかないかで、視聴者のイメージする彼女の様相が変わってくるし、暗喩などを使わずに直接いってるところが強い、ここは限られた文字数で的確に伝える)
そしてそれに続く「ラセーヌの星と名乗り剣をとって戦う」
ここでは「ラセーヌの星」が何者かまだ分からないが、その直後に『名乗り剣を取って戦う』から、変身ヒーローのような戦う戦士なのだとわかる。そして、ここで、最初に『花屋の娘』と書いておいた部分との落差が出てくる。この【花屋の娘、から始まり、剣をとって戦う】までの1行。ログライン(小説や脚本などで1行でその作品の本質をしめす部分、これが創作において一番重要視される)として完璧すぎるんですよ。

そして、それに続く「しかし」の文。これが、「そして」ではないんですね。
文章的には、そして、でも、しかし、でもいい。
しかし、ここで「しかし」を選ぶことによって、彼女がその運命をまだ知らない、そして、おそらく「マリーアントワネットと思想的に対立するであろう」予感を示している(そして、これによって、直前に語られていた『剣をとって戦う』のがおそらく民衆のためであることが視聴者にわかる)

主人公が実はマリーアントワネットの妹である、という設定そのものもものすごく面白さを予感させるし、本当に「ログライン」が強い。

そして、最後に流れる、民衆の声の「マリーを吊るせ~!」が主人公を、そしてその姉であるマリーアントワネットとの先行きの不安を暗示していて、勇ましさだけではない不安さ、運命の悲劇を予感させる。

この100文字ちょっとの文章で、これだけの情報量と、「面白さの種」を詰め込める技量は本当にものすごいです

SNSは結局そのSNSを作ってる人間のメッセージを読んでいるということ

wirelesswire.jp


この記事とは少し違うけれども、SNSでのツイート、ポストは、「誰かわからない第三者」もしくは「フォローしている誰か」のツイートポストを読んでいるつもりでも、実際のところは、アルゴリズムを支配している『運営』のメッセージを読まされて、そして誘導されている。


運営の読ませたい方向のポストを優先的に表示させる仕組み、そして、見せたくない方向のツイートを間引く仕組み(これは、フォローしているユーザーのポストさえ間引かれている現状をみればよくわかると思う)になっていて、そして、おすすめユーザーも、運営の好ましいと思える方向の人間をおすすめに乗せることが可能だ。

例え、運営が『公正』だとしても、アーキテクチャ(どういう仕組みで人と人がかかわるのか)の設計で、悪意が満ちる仕組みになるし、運営が『非公正』だった場合、もっとひどいことになるのは明らかだ。

metaも、X(旧Twitter)も実際にそういうことをしていることが調査の結果ある程度明らかになっている(というかもう隠そうとしていない)

というわけで、SNSはほんとに健康に悪いよなあ。という感想を持っている