orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

『ただPDCAサイクルを回していくだけの映画』が好き

ジャンルとして呼ばれることも無いんですが、
『ただPDCAサイクルを回していくだけの映画』
が好きなんですよ。
劇場版アイカツとか、あと『パリに咲くエトワール』もそういう映画で、そういう意味でもパリエトは好きです。

フラガールもそうですね。あと、王立宇宙軍も一部そうです。そういう映画って、ラストに必然的に、その成果がどのように実を結んだのかの『本番』が淡々と進行することが多くて、そういうのも含めてすごい好きです。

そういう映画ご存知の方いたら教えてもらえませんか?


追記

『大脱走』と『特攻大作戦』をおすすめされました。
どちらも名作で名前を聞いたことはあったんですが、実際に見たことはなかった。また見てみたいと思います。
あと、『シンゴジラ』もそうでは?という指摘を頂きました!たしかに!

PDCAの小説として、『ロケットボーイズ』も好きです
青春小説としても素晴らしい、ずいぶん昔の本ですが

あと、舞台なんですが『真説まなつの銀河に雪のふるほし』もPDCAサイクルを回すものとしてとても良かったです。

追記2

PDCAを回すのに一番必要なのって、バッファなんですよね。時間的余裕であったり、人材の余裕であったり、気持ちの余裕であったり。カツカツで回されるPDCAはPDCAではない、というか、そもそもカツカツだとPDCAが回らない。PDの部分でトラブルがあった途端に頓挫してしまう。
よくできたPDCAものは、だから、そのバッファの部分についてちゃんと書かれてします。実際、カツカツはカツカツなのですが、それをどうやって補っていくか、どうやって頑張るか、そのバッファをどうやって捻出するか、何なのかそのバッファとは、そういうものが作中に遭って、それも良い。
『パリに咲くエトワール』ではフジコの頑張り、フジコの存在そのものがバッファですし、フジコの培った人間関係そのものがバッファとして機能していました。要は人間。いざとなるときに助けてくれるのは頼りになる仲間。少女革命ウテナの劇場版にもあるセリフですが「志が高いといい仲間が集まるもんさ」ってやつです。このセリフ本当に好き。

もめんたりー・リリィ見たよ!面白かった!たしかに既視感はあるけど、ちゃんと新しい物語だった

もめんたりーリリィ、amazon primeでのこり6日なのでみてみた

すごい面白かったよ!なんでこれが話題にならなかったのか不思議!自分の観測範囲が小さいだけでちゃんと話題になってたのかな……

絵や動きのクオリティマジ高いし、OPも曲も神

OPだけでも見てくれ…OPで得られる印象から全くOP詐欺ではないので、OPが気に入ったらそのまま本編行けると思う……

www.youtube.com

設定も、キャラも、世界観も、展開も、オチも、すべて既視感がある、ベタなセカイ系、と言われるとそうなんだけど、『ベタ(王道)が強い』ということを改めて信じさせてくれる最終回までのルートなので、本当に、面白かったんですよ。






なんかよく分かんない敵が攻めてきて崩壊して人類が殆ど滅んだ世界(都市)で、女の子たちが大きな武器を持って、大きなよく分かんない敵と戦うっていう、もう何度目だっていうネタなんですけれども、丁寧に作り込むとちゃんと面白い、なぜならこれは面白いからっていう、当たり前の作品なんですよ。
あと、廃墟三分割烹が良かった。
ご飯を食べる、ということの意味、生きてるっていうことの意味。滅んだ世界で再生産の出来ない世界で食べ物を食べるということはとても大事で、テーマ的になるんですけども(これもよく見るネタだ)保存食を使って『少しでもおいしいものを食べたい』っていう、そういうささやかなところを作品のテーマに持ってきてるところも良かった。
大きな逆転劇も、大解決もなくて、すこしずつ進んでいくしかないっていうところが、2025年に作られたセカイ系の物語という気がした。

そう、2020年くらいから、セカイ系のリバイバルが来てるんですけれども、セカイ系、やっぱり当時と味が変わってるんですよ。世界滅亡、が昔は希望だったのが、今は『立ち向かうもの』に変わってる。滅びの美学ではなく『滅んでいく日常を精いっぱい生きる』っていう雰囲気の違いがある。表現型は似てるからおなじセカイ系、でくくれるとは思うのですけれども

もうちょっとサンプルを見てみないと分からないけれども(そして今体力的にそんなにたくさん作品を見れない)色々と、時代の違いみたいなものを感じてる。当時と違って目に見える不安が大きくて、それをどうやってくかっていうことがリアルライフの課題になってるからなんだろうな、って思ったりした。



あと、少し前に『神椿市建設中』もみたんですけれども、こちらも、セカイ系で、新しいことをしようとしているのは分かったし、10話は、神椿というコンテンツでしかできなかったことだと思ってそれはすごく好きだったんですが、正直、残念ながら『枠』を超えることができなかったな…可能性はあったんだけどな…と思いました。なんていうか、ちょっと古い感じがした。好きなんですけれどね…。


舞台と漫画と映画と小説のシナリオ、全然ちがうなあと思うなど。

結局、「物語を見せる」というのは時間の管理をすることで、体感時間として『重要なシーンの体感シーンは長く、それ以外は短く』というように調整をすることなのだけれども、そのための手法が漫画と舞台と、そして映画で全然違ってくる。舞台と映画は、時間が見てる人と同時に流れるため、ベタな演出ではスローモーションにしたり、ゆっくりとセリフをいったり、間を貯めたり、そういうことをする。小説では文章量がその前後で増える、描写が細かくなる。漫画の場合は大ごまを使うという方法ができる。

それを『シナリオ』という形に直したとき、映画と漫画は『セリフが減る』が舞台の場合は逆に『セリフが増える』ということがある。映画と漫画はクローズアップという技法が使えるが、舞台は使えないため、その分の時間の体感シーンを長くするには、シーン自身を長く、つまりセリフ量が増える(小説の字の分が増える現象と一緒)によって、それを起こすことができるし、そういう風にやってるのが多い(と思う)

そして物語を管理するということは情報量の出し方を調整するという事。見てる人の処理能力と媒体の表現能力にあわせて、出す情報の量を決めるということ

例えば、状況を勧める際に、映画と漫画は一つのシーンに4人くらいまで出せる。それ以上になると画面に収まらない
小説の場合は、基本的に2人だ。4人になったときに誰が話しているのか上手くやらないとわからなくなる(だから役割語をしゃべる)

舞台においては、12人くらいまで同時に出せてしまう
舞台上にいて、メインで喋って会話している人間が4人いて、そこに、別の人間が横入りとかも簡単にできる(まあ、ごちゃごちゃになるのでそこら辺の交通整理は必要だけど)

これがどういうことかって言うと、結末まで行く途中の『状況』において、できる事が変わってくるので、物語のシナリオの構造も変わってくるという事。

同じ物語を作ろうとしても、プロット段階は同じでも、あらすじ状態にしたときにそれぞれ大きく変わってきてしまう。

マンガと小説は『時間停止』ができる。実質の秒数は1秒でも、その間に500文字くらい喋ることができる

舞台と映画はそれが出来ないので、『別のところで喋ったセリフ』が、その瞬間に観客の頭の中で解凍されるようなつくりをしないといけない。

媒体によって、全然、できることできないこと得意なこと苦手なことが違うので、翻案する際には、(同じ面白さを出そうと思ったら)大幅な翻案が必要になる。

本当に難しいよなあ…





追記

あと、物語を読むとき、人は『速度』は意識してなくて、『加速度』の変化で、体感時間の変化を得るので、そこら辺周辺の『物語や演出のスピード感』の調整で『加速度』を演出するのだわ

超かぐや姫、すごい映画だった。

超かぐや姫、すごいのが、「サブプロット」を一切捨てて、『いろはとかぐや』のこと以外の要素をすべてオミットしたこと。

大抵の映画とか物語、ある程度長くなると、色々な人をキャッチしたいので、サブテーマとかサブキャラのエピソードとか、本テーマとシナジーのある色々な要素、サブストーリー、サブキャラをいれていくんですけれども、超かぐや姫はそういうのを完全に削除して(母親との和解もカットで済ませる)『いろはとかぐや』だけの話だけで2時間半を作り込んだところ。
だから、『いろはとかぐや』っていうおもしれー女が好きになれなかった人は全く楽しめないし、葛藤も何もないように見えるし、すべてが薄味でストレスがないように見える。(だから面白くなかったのは老いのせいではない)逆に、『いろはとかぐや』のことが好きになった人には、ちゃんと、挫折も後悔も、立ち直りも、全部ぶっこまれていて、『ちゃんとした映画』(かそれ以上の)と同じ食後感が得られる、っていうつくりになってる。

現代映画の作り方(特に)netflix式にのっとって、3分に1回山場を持ってくるとか、連続して同じ感情を視聴者が持たないように工夫するとか、最初の1秒、15秒、60秒での『要素の組み込み方』など、作っているのに、映画の作り方の中の結構な重要な要素の『サブプロットを組み込む』という仕組みを(そうすると楽しめる人が増える)意図的に完全に削除していて、それはもう、ものすごい胆力で作られた映画だった。




例の画像
超かぐや姫は、この中身が全部「いろはとかぐや」でそれ以外にない感じ。

超かぐや姫を面白いと思った人に対して「トラペジウム」を勧める人がいるけれども、まあ、構造としては、同じものだしな…。
『トラペジウム』は『東ゆう』というおもしれー女を好きになるかどうかで全部が決まってしまう。徹頭徹尾東ゆうという人間に関しての物語なので。

でも、やっぱりトラペジウムを勧めるのは「そんなのおかしいよ!!」ってなるな……。

AIはいつ(素人の書く小説の)読者になってくれるのか

どうしてみんな、文学に関して、作者がAIに取って代わられることばかり心配して、読者がAIに取って代わられることを懸念しないのか? 現在、猛然と進んでいるのは、むしろ「読む」という行為をAIが代替して、人間が自分で読まずに要約を受け取るような状況。影響力の規模的には、こちらの方が恐らく深刻だろう。本好きは勿論、自分で読み続けるだろうが、『魔の山』とか、一番読んでいるのは、今や人間ではなくAIではないか。

言ってることとはちょっと違うのだけれども(AIに要約ばっかさせてないで自分で本を読めよ)っていう話

ただ、それとは別に
【読者がAIに取って代わられる】
という言葉にひっかかったのでちょっと書く

世の中に小説投稿サイトは今星の数ほどある
そして書いてる人も星の数ほどいる
しかし、その書いている人に比べて、読んでくれる人の数が圧倒的に足りていない
小説投稿サイトに投稿される小説の殆どが殆ど読んでもらえない
10PVつけばよいくらいで、1,2PVくらいで終わってしまうものがその小説投稿サイトに投稿される小説の殆どを占めている


kakuyomu.jp


こちら、自分がカクヨムで書いた小説なのですけれども、ほぼ1カ月まるまるかけて書いた13万字くらいの小説になるのですが、そしてそれなりに自信はあったのですが、感想まで読んでくれたのがたったの3人ほどです(その3人の方には本当にありがたいと思っています)
1カ月、時間を捻出して、ああでもないこうでもないと構成を練って、苦心して生み出した作品が3PVです。そして、これは自分だけではなくて投稿される小説の殆どが結構こんな状態です

物書きに対して読む人が圧倒的に少ない

人間が読んでくれないならAIが読者になって読んでくれたらいいのにと思うけれども、AIは小説を読んでくれない

ところでAIに小説を読ませて感想をもらう、ということができます
でも、面白いか面白くないか、どこが構造的におかしいか、どこが弱点かとかそういう話をしても、そのAI自身にとって面白いかどうかの話はしてくれないんですよね。だってAIには人生経験が無いから
人間と共通した人生経験がないので、物語を読んでも面白いとか面白くないとか思う価値観が無い

最近はAIが小説を書きます
そしてそれをみんなが面白いという

でも、小説を書く人間はもうすでにたくさんいるんです

必要なのは読んでくれる人間なんです
読んでくれるならもうAIでもいい

でもAIはまだ小説が読めないんです




AIが小説を読めるようになるのは、AIがもっと人間社会に浸透して、人間と共に行動して個別のAIがそれぞれに自我をもって固有の体験をして、個別の成長をするようになった時、やっと、人間の書いた小説に対して感想を言ってくれるような気がします、が

その頃はAIがAIのためにかいた小説もたくさん書かれるようになって、そして、AIにとってはそっちの方が(共感できる部分が多いので)面白いのでしょうね、という未来予測が簡単に立って

やっぱり僕の書いた小説は読まれないのです

お終い