orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

社畜の歌と人間賛歌

【結局自分は物語を通じてしか世界と向き合えない、でも誰だってそう。それが物語として書かれた物語か、常識やロールモデルとして社会に規程された物語化の違い】
蟻のように生き。蝶のように死ぬ。 - orangestarの雑記
続き。
もう少しだけ考えた。
人生には物語が必要だ。人生を物語にすることが必要だ。誰だってそうしてるしそうやって生きてる。
物語のない虚無の人生だって、そう思ったって、そこには『物語のない虚無の人生』としての物語がある。自分の人生を語るとき、語れば、語った瞬間に物語は発生する。

『自己実現は馬を走らせる幻の人参ではないか』
『欲求段階説のピラミッドが古い古いと誹りを受けてもなお、繰り返し引用されているのは、産業界との親和性が高いこと、労働者や実業家が生産効率を向上させていくのに都合の良い言説だったからでもある。ドラッカーなどもそうだが、産業界がたびたび引っ張ってくる啓発的な言説は、どれほど人間の可能性を謳っているようにみえても、それは資本主義に適合する詩であり、生産性や効率性に貢献する社畜の歌である。』

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220506/1651822091

とても良い文章で額に飾っておきたい。社畜の歌というのは言いえて妙で。ここで社畜と狭く名前を付けられているけれども、それは、社会やこの『認識によって成立する娑婆世界』全般に適応するための『物語』全般を社畜の歌と呼ぶことができるだろう。この社会で語られる物語は全部、社会の中で語られる限り、社畜の歌になる。そこから出るための物語は、社会の外、消費される娯楽の物語の中にしかないのではないか。そして昨日の話。

『泥なんてなんだい』
『ハロォ、ザレムの『死の天使』さん!勝利者インタビューに答えてよ~!』
『姉ちゃん、明日って今さ』

JOJOで、人間賛歌って呼ばれているもの。それは、娑婆の物語からは出てこなくて、物語の中の物語からしか出てこない。
それが、でも、現世の物語からドロップアウト、または廃棄されたり、不要とされて除去されたときに、人を支えるものになる。なってほしい、なる可能性があるんじゃないかな。

どちらにせよ、自分はフィクションの物語を通じてしか世界と向き合えない。さよなら絵梨。【正しい大人になって社会に貢献するため、みんなと協力して頑張ろう】っていう物語をインストールし損ねたので自分をうまく社会化できなかった感じがする。後、鬱をやったせいで、”ちゃんと見よう”とすると、物語や出来事の連続性(それは実際には存在しない人が作り出す物語、因果関係だから本当は存在しないものだからです。私はそれを知っています)を排除した事実の積み重ね、になってしまい。ちゃんと見ることが(見すぎてしまうために)できない。世の中は、真空の虚無か、物語の中か、その間をうまくとることができなくて。

自分は、となりの801ちゃんみたいな漫画を描いていますけれども、日常エッセイ漫画が苦手。日常エッセイ漫画というか、ドキュメンタリーとかそういうジャンルの話になるのかもしれないですけれども。だってエッセイ漫画って嘘じゃないですか。日常って実際意味も無くて、連続はしているけれども意味の連続性も因果もなくて、物語性のない出来事とも言えないことの積み重ねが日常じゃないですか。それが日常エッセイとして漫画にしたりしたときにそれは物語になるし、悪かったことや辛かったことも、のちに起こる良いことのための因果の一部になってとして語られるし、その「パッケージされた一つの流れ」の外にあるこまごまとした出来事は”無かったこと、あるべきではないこと”として排除されるし、語ることのできる辛い出来事は、それも楽しい思い出っていう形に変換されてやっぱり物語の中に回収されていく。

そういう風に上書きしていくことによって、“本当にある何でもない日常”っていうのが物語になって行ってしまって、でも自分は、それがその出来事や思い出に対して、誠意が無いって、そう思ってた。でも、それは、誠意とかそういう話ではなくて、日常のいいところだけ切り取ったりするエッセイ漫画は嘘とかそういうものではなくて。

エッセイ漫画と思い出って、すごい似てる。思い出は、どんどん思い出補正がかかって、それに付随するエピソードがどんどんかかわりを持った話になって行って、自分でも気が付かないうちに物語にしてる。存在するか分からない相手の感情とかも忖度して、一つの物語になってく。

そうしてないとどんどん色んな事を忘れて行ってしまう。記憶や思い出をそういう風にして、留めて行かないととどまらないから、そうやって思い出して、出来事を嘘にして、いいことだけ切り取ってアルバムにしてくのがエッセイとかエッセイ漫画なんだなって、なんかそういうのを考えてた。

ずっと、オシオの話とか、いまの、猫と子どもとの生活とか。そういう漫画が描けなかった。自分の中の”これは自分の中の「本当の出来事」を創作という行為で上書きしてしまう行為”だと思っていて。でも、そういうものを書いていこうって思った。色んな事は忘れてしまうし、どうしたって出来事はそんな風にしか覚えていられないものだから。

https://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2017/11/18/202720

【社畜の歌と人間賛歌は区別ができないものなのかもしれない、でも違うと思う】
人が、何とかしがみついていくための物語。それが人間賛歌なのか、社畜の歌なのか。それは、トポロジーでティーカップとドーナッツが区別できないみたいに、区別するのは難しい。でも、できるなら人間賛歌を歌いたいし、お話の中で語られる王子様とお姫様の物語を本当のことだって信じて、その物語を抱えて生きていこうって思う。

【だから、おっさんはいないんだよ】
「女の子が主人公のアニメなのに作っているのはおっさん」←これよく考えたらめちゃくちゃ気持ち悪くない?
全部本当にあったことだし、女の子はいるよ。