orangestarの雑記

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蟻のように生き。蝶のように死ぬ。

【思うままに筆をとるなど】
最近思うところがあって、20年ほど前の自分の書いたテキストを読んでいる。なんというか、セルフ拷問のような感じだ。つらみがある。若かったなあ…。の一言で済ませるし、済ませてしまっていいのだろうと思う。偏見や他人への思いやりに欠ける文章もあり、今の時代ではとても書くこと考えることが許されないと思う。それと合わせて、当時の他の人が運営していたテキストサイトを見てみても大体同じような感じだった。ここ20年で、人に対する思いやりというもの、人権とかそういうのに対する考え方、そして、”他者”、”自分の文化圏の外にいる人たち”、に対する理解が進んだのだと思う。それは自分が歳をとって知ったからそう見えてそのように行動出来て、やっぱり今の若い子は偏見にまみれて生きてるんじゃないの?っていう可能性も考えたけれども、うちの息子を見ていても、今の子はなんというか、”世の中の自分の知らない何か”に対しての配慮があるように感じる。優しいし、頭がいい。ネットを見ていても、若い人(と思われるツイート)を見ていても、やっぱり頭がいいと思う。(昔の自分のようなツイートをするとすぐ炎上してしまうというのもあるかもしれない、すぐに反論と解説がついて、正しい知識がアップロードされる速度が速い)(それでどんどん賢くなるのだと思う)
『インターネットは人を馬鹿にしていく、思考力を奪っていく』、という言説があり、ある程度はその通りだと思うのだけれども、じゃあ、インターネットがなかったころの自分は賢かったのかというとそうでもないし、当時の若者(そして年配)は賢かったのかというと、やっぱりそうでもない。ちょっと前、どっかでみたツイートで、知識の量が増えてもそれが体系的に理解できてないと、表面的な知識を反射するだけの東急リバブルの子供たちみたいになるだけで、”知恵”は身についていないし、今のインターネットの知識の洪水は人をそのように馬鹿にしていく、(だから本を読め、新書を読め)というのがあった気がする。
それはそれで正しそうな気がするし、ただ、体感的に、今の人たちは頭がいい。昔に比べてやっぱり頭がいいと思う。外で会う人たちも、予断や経験で物事を判断する人というのは(自分の体感的に)昔よりも少ないような気がするし。環境の変化が激しくて、経験に学ぶことが難しいので、みんな考えるし考えないと失敗するからなのだと思う。
なんか、昔の日記と今のインターネットを見て、そんなことを思ったっていう話。

【でも私は賢くないので自分の話をする】
ロボットやアリとして「現代人らしく生きる」ということ - シロクマの屑籠
今のインターネットにおいて、他人と自分を比べるのはご法度だ。上のような理由で。お行儀の悪い行為とそしりを受ける。他人の生き方や考え方に対して何かを述べるのはインターネットでは野球と政治とガンダムとスターウォーズの話くらいしてはならないのだ。それはさておき。
蟻のように、生きる。の先。に対しては自分の持ってる答えは、銃夢のビュイックさんです。ビュイックさんっていうのは説明すると長くなるんだけれども、もともとは女性ばっかり狙って殺して、その解体の様子を写真に収めるのが趣味のシリアルキラーで、屑鉄街で充実した人生を送っていたのだけれども、足がついてしまって、街から逃げ出した先で、ザレム(中央政府的なものだと思ってください)打倒を目指す革命軍につかまり、その時、「ジャーナリストです」って嘘をついたために、その革命軍(バージャック、馬借のもじり)の広報担当として仕事をすることに。それからの3年、ビュイックさんの人生は、ポジティブに輝いているものでした。たくさんの人間の希望、夢、そういうものを浴びて、本人もそれをニュース、記憶、記録する仕事をして、それを書き留めて。
でも、そんな生活に終わりがやってくる。ザレムをうち落とすための大列車砲ヘング、それが完成し、ザレムに向かい一矢を放った瞬間。ザレムの防衛兵器、スカラー波を利用した「サリシャガンの虎」によって、ヘングは大爆発を起こし、そして、炎があたりを覆う中、ザレムの死の天使が舞い降りる。→大虐殺。
そのあとのビュイックさんの思考と行為が、『蟻のように生きる』人生に対しての、自分の答えとして深く刻まれてる。銃夢は名作なので、一回読んでみてください。本当に。
上のビュイックさんの行動は、うしおととらの『泥なんてなんだい』と同じだと思ってて、勝手に。あ、『泥なんてなんだい』っていうのは、「たゆら」と「などか」っていう蝦蟇と蛇の妖怪がいて、その二人は昔刑場に住んでいたんですけれども、そこで、笑って死んでいく人間をみて、不思議に思い、その答えを知るために、人間をデパートに閉じ込めて「満足する死とは何だ?」という問いに対する満足する答えが出るまで、殺していくというエピソードの中で、真由子が言った言葉、それが「泥なんてなんだい」なんですけれども。うしおととらも名作なので、見てない人間がいたらとっととっとと呼んでくださいよ。本当にお願いしますよ。
ちょっと焦点はずれてる気もしますけれども、シロクマ先生の言ってるように、どんなに自己実現しようが、社会的に成功しようが、色々なものを手に入れようが、それも、全部システムの内側で、自分の自由、『真の自己実現』には及ばず、自分たちはアリであることを自覚して、そしてアリであることを自覚して行動するということは自分がアリということを認識しないということであり、おお、ループに入りましたね。現代社会はそういう世知辛い何かでシステムしてるっていう身もふたもない現代。でも、身も蓋もないのは現代でではなくて、中世でも、江戸時代でも、ヨーロッパでも、ナーロッパでも、平安時代でも、いついかなる時代でも多分人間は、役割の中で与えられた中で自分を定義して、そこに押し込まれて、結局何も得ないまま死んでいく。
だから、『泥なんてなんだい』だし『ハロォ、ザレムの『死の天使』さん!勝利者インタビューに答えてよ~!』なんだと思う。
(それが何かっていうのは、説明しようと思うとできるけど、多分正しく伝わらないし、本当に銃夢とうしおととらを読んで欲しい、人生で大切なことは銃夢とうしおととらとドラえもんで教わった)

一瞬なんだ。一瞬の。でっかいどうにもならないものに対して、意地を通す。そういう瞬間があれば、それは、主観的には、蟻ではなく人間の生き方になるんだと思う。