いぬじんさんが『竜とそばかすの姫』を見たというので、感想を読みたい!と言ったらまさかの感想を書いて貰えたので、それじゃあ自分も書かないわけには行かないなと思い、竜とそばかすの姫の感想を自分も書こうと思ったのだけれども、いぬじんさんの感想のあとだとどうしても平凡な感想になってしまいそう。いぬじんさんの感想は典型的な竜とそばかすの姫の感想ではなく本当にいぬじんさんしか書けない感想だった。こういう風にありたい。自分も。
竜とそばかすの姫。自分が見たときの感想は、よくtwitterやそのほかのブログで書かれているのと同じようなものでした。よい部分は『絵作りがすごく綺麗』、『キャラクターが魅力的』『思春期のどうしようもない心情(憧れや劣等感、世界への絶望)が描かれててすごい』とか、悪い部分は『インターネットなのに自分のなりたいものになれないのか…』とか『インターネットなのにやり直せないのか…』とか作中で描かれる地獄インターネットの様子だったり、あと、児童虐待に対しての児童相談所の職員の対応の描写についてだったり、子供を一人で行かせる大人だったり、感動的な絵を作るために色々なものをないがしろにしている感じや色々な要素を無理やりにつないでいる感じがすることについての、うーん、これは……。というような、そういうものになってしまう。凡百だ。もう少し自分の視点を持たねば。それは、いぬじんさんの感想のように、細部に目を向けるということなのかもしれない。自分自身と共鳴する小さな細かい部分、そこに対する感想が(例え的外れに見えても)語るべき正しい感想なのだと思う。
作中で描かれるたくさんの正義
作中では、たくさんの『正義』が描かれる。それぞれの人間が、『正しい』と思うことや『仕方のない』ことを『正しい』と自分に言い訳しながら『行使』する。それは男の子の正体を探って助けたいって思うベルたちも同じだし、子供を助けるために川に飛び込んでいった母親も同じだ。ネットでコミュニティの敵になる人間を叩きてる人間も自分のことを正しいと思っているし、ラフファイトをするプレーヤーを多人数で袋三和土にするプレーヤーも自分のことを正しいと思ってる。男手一つで子供二人を育てて、生活のために一生懸命働いて、それを邪魔する息子を躾けるのことを正しいと思ってる。たくさんの正しいがある。それはどれも正しくて、仕方なくて。でも、どこに目線を置くかを決めると、客観的に見ている人間には『本当に正しい正義』が俯瞰的に見えてしまうようになる。これは少し怖いことだと思う。これは映画だからいいけれども、ニュースであったり、ネットでの言説であったり、新聞記事であったり、人のうわさであったり、客観的に見てるつもりでも、誰かの『見せたい主観』の目線で見せられている。この作品に出てくるお父さんだって、(まあお父さんの行いは現代の社会では完全にアウトだけれども)見方によっては『かわいそう』な人だって見ることもできる。本当に救われるべき人間はお父さんだって見方もできる。(そしてお父さんも他の人間と同じように救われるべきなのだ、あのネットでアバターをはがした人だって救われるべきなのだ)
大切なのは正義を振りかざすことじゃなくって、優しくなることだと思うのだけれども、それはとても難しいな、と思う。
そんなことも見ながら考えた。