orangestarの雑記

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物語のパターンは既に出尽くしてる問題に絡めてだけど、近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感、20世紀後半にいい薬がたくさん発明されたおかげで「心療内科にいってお薬を飲めばいいのに」で解決してしまって、物語としての強度を保てなくなってる件について




これの、これの、これ。

ちゃんと返信を書くと長くなるので、Twitterではなくてこちらで。

まず、こちらから話さないといけません。



さて、物語の類型の話。

ja.wikipedia.org


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物語には、ある程度の『型』があります。
そして、『類型』の分け方にも、考え方によっていくつかの分け方があります。

上記に上げた、分け方は、物語がもつ、『モチーフ』『出来事の構造』で分けていますが、そのほかに、物語自身の構造、大きく分ければハッピーエンド、バットエンドの2種、そして、状況が好転していく話と悪化していく話で2種、ほか、複数登場人物、などの、構造による分け方、もあります。

また、ジャンル、という分け方もあります。推理小説、冒険小説、恋愛小説。その作品が何を『面白さの核』とするかによって、また『類型』が変わってくるわけです。
ひとつのお話が、ジャンル分けの種類によって、『同じような話』『全く違う話』と解釈される。
例えば、『源氏物語』と『枕草子』は『平安時代の文学』として同ジャンルですが、『小説』と『随筆』というジャンル分けをすると別ジャンルの話になるわけです。
このようなジャンル分けは、非常に多岐にわたり、その順列組み合わせの数はほぼ無限、天文学的な数字になり、

『全く同じ話は二つとない』

となっていくわけです。時代が下るほどに未出のパターンは確実に減っていきますけど、扱う時代や道具立てや知識は増えていきますので、まあ、無限がいくら減っても無限なので、物語の枯渇は無いでしょう。ざっくり言うと似た話、というのは確かに多いですけれども、でも、物語認識は人それぞれで、ハッピーエンドとバッドエンドの2種類しかない人もいますし、同じ『錬金術』をテーマにした作品を、全て前出の作品のパクリ、とみなす乱暴な読書家の人もいますので、まあ、そこらへんは……。

というわけですが、その時代以後に『発見』された『概念』や『感覚』以外については、全てそのジャンルの『パターン』として出尽くしているのも確かです。その中で、作品の面白さが高いものが『名作』として時代を越えていく。時代を超えたものはさすがにとても面白いので、それを相手に、同じ道具で勝負するのはとても難しいです。なんたってそれは面白いので。

さて、ここまでが、まず、『パターンが出尽くしている』話。

そして、次に、時代の変化によって、『感覚』や『概念』がアップデートされ、その物語が書かれた時代の人と感覚が合わなくなって、作品の機微が分からなくなっていく問題。物語の面白さはそういう『テクスチャ』の部分だけでなく、全体の構造やおとぎ話的ワンダーの部分でも担保されるので、そういう機微が分かんなくなっても面白い作品は面白いからついつい忘れられてしまいますが、多分、いま、昔の作品を読むとき、そういう細かい機微の部分は絶対に取りこぼしていると思います。『個人』という概念が発明発見される前の恋物語というのは、多分、当時の人の読み味と今の時代の人の読み味は絶対違う。

恋愛といえば、男の人と女の人がであって、目が合い、歌を歌い踊り出せばそれだけで恋が始まる、そういう物語が現代のちょっと前までずっと続いていて、それが説得力を持っていた時代があったのですが、現代を舞台に作劇する場合、そういうことをすると『面白』として処理されてしまいますね。でも現代でもそういう恋の始まりは確かにあるのに…。物語としてそれが力を失ってしまったのはなぜか、というのを考えるだけで多分3万字くらいかけると思うのですが、今はその話はしていないので……。

さて『小説』というジャンル、コンテンツ消費の文化が生まれて大体400年くらいです。それ以前は、物語は『語り部』が語る『大きな物語』を味わうしかなかった。作者という個人と紐づけて物語が消費されるようになって、高々400年くらいしかたってません。

さて、やっと、近代文学の話になります。

近代はざっくりと、神様が死んで、『人』が、大きな社会に属する一部品から『個人』となっていく時代です。個人主義。ゲマインシャフト(地縁や血縁などで深く結びついた自然発生的なコミュニティ)からゲゼルシャフト(利益や機能・役割によって結びついた人為的なコミュニティ)に移り変わっていく時代です。ゲゼルシャフトの下では、人は、常に『自分は何者か、何をもって個人として行動し、意思決定をするのか』を問われ続けます。自分の住んでいるコミュニティが自分を既定してくれない。自分で、自分を既定して、属するコミュニティを決めなければならない。自分で自分を定義する、その嘆きとかなんか辛いっていう感情をしたためて、みんなで共感できるコンテンツになったのが近代文学であり『近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感』であるわけです。

悩みの最小単位としての個人、これ以上解体できない中にある、悩みや苦痛(これ以上解体できないので、その悩みや苦痛は解決することなく、ずっと持ち続けないといけない)。そういう葛藤自体がテーマになっていたわけです。で、それの解決として、自分を、個人という単位ではなく、家族や社会の一部として再定義してしまって、個人としての存在が亡くなるということが『悲劇』として書かれていたりするわけです。『こころ』の父親の話の段なんかもそうですし、田山花袋の『布団』のラスト、自由な文をかいていた弟子の女の子が、定型文で手紙を送ってくるところで悲しい気持ちになるところとかがそうです。(ところで、田山花袋を『おじ』と『パパ活』の悲哀として読み直してる人がいて、それはそれで面白いと思いました、それもまた文学です)

で、まあ、その次に、この増田を読んで欲しいのですけれども

anond.hatelabo.jp

これはうまく言語化されている例ですが、発達障害でコンサータやストラテラを飲みだして同じ感覚を得た人は多いと思います。また、酷い鬱を患って、今まで見えていた世界が一変してしまったりした人もいたと思います。世界の横断、今までは属する社会階層や組織から移動して感じる世界の横断が、精神の器質的な変化という形でもたらされている。解体不可能な『個人』はここでは(こうなってしまった世界では)もう存在しえません。(という感じで、まあ、あのTwitterのは言葉足らずだった、でも140字で伝えるのは無理がある)

ただ、こういう感覚を持っている人って、社会の中であんまり多数派ではないような気もするので、相変わらず『鬱屈とした自意識や虚無感』となり続けていますし、当分テーマとしての強度は持ち続けるでしょうし、その先、変化して消失する自我を前提とした『鬱屈とした自意識や虚無感』の物語というのも生まれてくるでしょう。



というのが、(id:p_shirokuma)先生への回答、への、前提の部分です。(ここら辺をちゃんと伝えていないので、多分、ちょっとずれている感じもある)

近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感は、向精神薬でどこまで「治る」でしょうか。向精神薬は、作用します。その作用には統計的な有意差もあるでしょうし、特定の精神疾患の改善に寄与もするでしょう。でも例えば、その向精神薬で個人のアイデンティティの問題にけりがつくものでしょうかね?

本やブログを書くのが好きな私ですが、精神科薬物療法の役割をとても重要だと思っていますし、そのためのエビデンスの蓄積は精神医療にとって不可欠と確信しています。でも、自意識や虚無感やアイデンティティの諸問題と折り合うのは、向精神薬以外の何か、たとえば個人史の領域に属しませんか。

『人生の物語化』というのがあります。

誰でも行っていることだし、それをしないと人間は狂う。人生の物語化(自分の人生に因果を求める、または因果の帰結の末に今の自分がいる、と認識する)は誰もがやっていることです。就職氷河期世代、だとか、そういうのもそうですし、非モテなので、彼女ができない、とかも物語化です。けっして、一昔前に流行った携帯小説のような、ドラマチックな出来事として現実を再解釈して、パッケージ化する行為だけが物語化ではありません。

でも。そして。

悲しいことに、人間の想像力というのは無限ではないので、そういう『その人個人の物語』はどこかで見たような物語(例えば小説で読んだ、映画で見た)を借用してくることになります。ちょっと前に小説の下読みの人が、おっさんから送られてくる小説が全部『普通のサラリーマンが親子ほどの年の離れた女の子とセックスする話ばかりでつらい』という(元ツイート発見できなかった)のが流れてきましたけど、『自分自身の物語(理想を含む)』を描くときに、どうしても、そういう類型になってしまうのです。人間って悲しいね。

でも、そういう、身もふたもない『個人史』を語ることによって、『本当は物語なんてどこにもない世界』と戦うのは、まあ、正しい。というか、すべきです。ただ、ここで、ちょっと矛盾なんですけれども、近代の文学が扱ってきたのは、そういう『みんながみんな持ってる、願ってる物語』から疎外された『個人』を描くことだったりもしたわけです。

シロクマ先生がおっしゃってる、個人史での、『そういう虚無とかからの逃避』というのは、あります。でもそれは『普通のサラリーマンが親子ほどの年の離れた女の子とセックスする話』によってなされます。むしろ、文学というのは、『そのような個人史では解決できない【自意識や虚無感】』を扱って来ました。でも、その【自意識や虚無感】自身が、本当は存在しないものだとしたら……?一体、俺たちは何と戦っているんだ…まるで、幽霊じゃないか……。ここに意味なんてあるのか…。もともと、意味なんてないってわかってたけど、本当に意味がないのか……。というのが、『いい薬』が発明されて以後の、個人主義的文学が置かれている状態だと思います。

ここまでの考え方や解釈や分析は、多分、間違ってる。専門家でない床屋談義なので、そういう風に流してください。文学の事は文学の専門家の人が語るのが一番ですが、インターネットからアカデミアは遠くなってしまったので……。






あと、それとは別にゲマインシャフト2・0というのを自分は感じていて、個人で選び取った所属が、実は自分で選び取ったものではない問題というのが、いま発生していると思うのですが、そこらへんは、また長くなるので。インターネットのせいで生じるエコーチャンバー。みんながみんな何かに洗脳された状態で、自分の意志や自我を持たず、しかし本人はそれを『自分の自我』だと信じている状態。でもそこには個々人の『鬱屈とした自意識や虚無感』は存在しない。大きな所属、誰かの物語に巻き込まれる人たちが今、すっげー多いんじゃないかな、って思っていますし、そしてそういう人は小説を読まない!!!!!!!!!!でもこの話もまた長くなるからまた今度!!!!!!!!!!!!!!!!





あと、全然違う話。異世界転生の話ですけれども、なんで異世界転生が流行ってるかって言うと、いま、社会が、『属性』で分断されすぎて、そしてその『縦の旅行』も行われない今、みんなが持ってる『社会的常識』や『社会的因果』や『社会的倫理』が共有できなくなってしまって、じゃあ、最初から異世界にした方がそういうののすり合わせしないで楽だよね。って言うのがあるんだと思います。



なんか、取り留めないけど、こんなでした。