orangestarの雑記

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いつから孤独は“友とするもの”から“処理するもの”へ変わったのか。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

を読んでの感想。
あと、これ、とてもよかったのでみんな読んでほしい。もう読んでらしたらアレですけれど、(id:p_shirokuma)先生にも読んでほしい。


ディストピア小説の元祖的に言われている小説ですが、実際に読んでみると、そんなにディストピアと言うほどのものでもなかった。おそらく当時の基準からするとディストピアなのだろうけれども、実際に、その中で語られる製品や社会の仕組みが実装されてしまった社会に生きている自分たちからすると、“まあ、普通のことだよね、よくある”と思ってしまうことが多々ある。


若作りうつ社会のディストピア

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

“すばらしい新世界”の理想社会の人たちは、試験管で受精され、フラスコで培養されて、母親の身体を経由することなく生まれてくる。そのため、“母親”という存在はひどくいかがわしいものとされていて、また、家族というものが完全に解体されて、個人が完全に個人として存在している。人は常に若く、中年、壮年になっても30代ごろの容姿をしている。そして、60歳になった途端、老衰で死ぬように設計されている。
 子どものときのような純粋な“性欲”(広い意味での性欲、新しいものへの欲望、好奇心や純粋な他者への一次的関心)は推奨され、フリーセックスが普通であり、いつまでも同じ人間にかかわっていたり、とどまっていたりするのは、ちょっと異常だな、と周りに思われる。複雑な“恋愛”というものが存在しない。少女マンガやトレンディドラマみたいな恋愛観が世界を覆っている。大量消費が推奨され、お金や設備のかかる遊びがみんなの歓心ごと。苦痛や不安はあるけれども、それは全部、アルコールやタバコやマリファナを超える完全な嗜好品「ソーマ」が癒してくれる。
 この、“すばらしい新世界”が描かれた“1932年”は満州国が生まれ、ナチスが選挙で大勝利した年で、多分、この小説内に込められたメッセージや、世界観が当時意味したものは、今自分がこの小説から受け止めるものからは全く別のものなのだろうけれども、しかし、この小説の世界観が描く未来は、本当に、“それらしい”し、多分、“実現した”。
 バブル以降の現代の日本(そして他の国も)そのような世界観で生きているし、経済的な余裕はなくなったかもしれないけれども、携帯電話、スマホ、インターネットの発達で、人と人との関係性、それ以外の欲望の充足についての考え方感じ方というものは確実に不可逆的に変化してしまった。
 ただ、ソーマが無いのと、家族という物理的な価値観に縛られているけれども、それも、多分、そのうち技術的に解決されるだろう。技術的に解決可能な問題は、いつか必ず技術的に解決される。

星の王子様。孤独と、それを友とすること

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

星の王子様の出版が1943年。
世間一般ではどう読まれているのか、僕は詳しいことは知らないけれども、僕自身は、この星の王子様を「如何にして人は孤独を友とするべきか」という物語だと思っています。
星の王子様に限らず、昔の文芸作品や、童話というものに至っても、“孤独との向き合いかた”そしてそこから、“如何に『自分自身』をすくい上げていくのか”ということが、物語のテーマ以前の自明のこととして表現されていたと思います。(ほかのテーマというべきものは、この“孤独とは何か”という前提の上に積み上げられていた)

インターネット以降、孤独というものは、“処理するもの”に変わってしまった。

ザ・インタビューズが終わってホッとした - シロクマの屑籠
孤独は、そして、その別の側面としての“承認欲求”というものは、おそらく完全に変質してしまった。
かつて、“承認欲求”(かつてはそんな呼ばれ方をしていなかったけれども、当時の呼び名を僕はしらない)は個人の技術や内面の研鑽を呼び、そこから、自己の確立を経て、個人、あるいは社会の一員として、昇華されていった。(マズローがA Theory of Human Motivationを著したのは1943年だ)
でも、そのルートがなくなってもてあまされた承認欲求は、ただ、処理されるものとなった。なら、出来るだけ簡単な方がいい。それは薬であったり、インターネットのサービスであったり、ゲームであったり。別に、承認欲求をうまく昇華させ、孤独を“友”としなくても、社会が勝手に社会を動かしてくれる。個人が社会の“自律的な意思を持った歯車”とならなくても、(個人が孤独を友として、社会からの承認を得て構成員として社会に参加する、というのは古来そういう事だったのだと思う)勝手に何とかしてくれる。今は埋められない苦痛を埋めるためのソーマはないけれども、そのうち技術の進歩が何とかしてくれるだろう。
多分、これ以上何とか頑張らないでも、やり過ごしているだけで、そのうち何とかなっていく。

でも、それでいいの?

多分、正しさは。正しさという基準で考えるならば、正義は、そういう“すばらしい新世界”的な世界観の中にある。大多数の幸福は保障されて、ほどほどの、人間にとってアンダーコントロールにある苦痛と苦悩だけが与えられた世界。すばらしい新世界の世界も、労働や恋愛の苦痛は維持されているが、処理可能なレベルに抑えられるよう社会が設計されているし、それを超えたらソーマを飲めばいい。
楽しいことだけして生きていければそれでいいし、そういう社会や世界を実現するために、人間は20万年前、言語を発明してから“志向性を持った進化”を繰り返して頑張ってきたわけなわけで。
ただ、本当の性の喜びや、生の喜びというものは、そのような苦痛の中にあると思っている人もまだ多い。ナウシカが言っているように、生きるということ、命というものは闇の中で瞬く光だと。(そういう意味でいうと、すばらしい世界を生きる住人というのは、ナウシカが殺した新しい世界の住人の卵そのものだったのかも)


すばらしい新世界の中で、孤独を感じて、その中に生きる人間が4人でてくる。結局それぞれの人間は、お互いがもっている孤独の種類が違うから、それを共有できず、孤独のままでいるしかないのだけれども、ただ、とても親しい友人にはなれる。
個々人が、それぞれ違う生き物で、そして、それを知り、その中に自分をみて、友人になるという行為は、とても、良いものだと、自分は思っているのだけれども、それが、いつまで、共有できるのか。そういうことを、思った。