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ドラえもん「お金のいらない世界」がおもしろい。個人の信用がほぼ無限大になる社会

昔、見た時はただ、ギャグとしておもしろい話だと思ってたけど、いま見直すとすごい経済的な思考実験として面白い。

「お金のいらない世界」とは個人の信用が無限大になる世界

ドラえもんのエピソード、「お金のいらない世界」がとても面白い。
このエピソードの概要は、例の如くのび太がお小遣いがなくて苦しんで、ドラえもんにもしもボックスで「お金のいらない世界」にしてもらう。
そうして移動した先の世界、「お金のいらない世界」は、物を買うと、お金を払う代わりに、お金を押し付けられる世界だった。
通貨が負の作用をするようになっただけの、逆転世界だと、最初に見た当時は思っていたのだけれども、いま、改めてみると、これは全く別の意味をもつお話になる。通貨システムが“個人の信用が無限大”つまり、“個人がほぼ無限大に借金を出来る社会”ということになる。
こちらのお金のいらない世界ののび太のママもやりくりに困っているのだけれども、のび家の押入れには、押入れにはち切れそうなほどの1万円札が入っている。軽く見積もって、20億くらいある。
これは、つまりこの世界では、野比家レベルの個人が、20億の借金が出来る、ということを示している。(自宅で保管できるレベル、個人で所有できる通貨分だけ借金が出来る)
現実のこっちの世界でも、負の通貨として借金、キャッシングがあり、そしてそれはカード会社などで共有されているので、信用の上限がある、また、それ以外の借金でも、土地などの担保があり、個人が支払える(予定)の能力を越えてお金を借りることは出来ない。それは個人と“その負の通貨”が紐付されているからだ。
しかし、この世界では、スリから懐にお金を押し付けられたり、銀行に銀行強盗が金を“押し付け”にきたりと、“負の通貨”と個人が紐付されていない。
だが、そうなると疑問が生じる。

個人の信用が無限大なのに、なぜ、他人にお金を預けようとするのか

個人の資産をいちいち確認するような感じもないが、例えばあるとして。
お金の過多によってどこかでペナルティ、またはプライズがないとならない。どこかでお金が清算される機会が必要だ。そういう仕組みが行われているのか。

それとも、個人の信用がたとえば無限大になったとして、それでも、実は経済というのは問題なく廻っていくのか。

しかし、考え方を変えると、無限に信用(お金)を貯蓄できる今の社会の方がおかしいのでは?

「お金のいらない世界」での、富裕層というのは、“お金なし”と呼ばれていて、お金を持っていない人間のことをいう。けれども、“お金なし”には限界がある。0円を超えることは出来ないのだ。誰かにお金をもらったという個人間の借用書で、蓄財はできるけれども、それは先ほどのお金の話の逆で、個人対個人のひも付きのものになる。
この世界の世界観の基礎を考えると、富を無限に蓄積できる、のと借金を無限にすることが出来る、というのは同じようにおかしいのでは?富とは古い時代、貨幣以前には、家畜とか家財とか奴隷とか食糧だったはずで、摩耗していくもの。それを置換するのが貨幣で、貨幣の発明によって、“富を無限に蓄積”できるようになった。じゃあ、この時、発明の方向が、借金を置換するものとして貨幣が発明されていたとしたら、こういう世界観にならないだろうか。

正の貨幣は、過去から価値を借りだし、負の貨幣は、未来から価値を借り出している。

って言えるんじゃないかなあって思ったけれども、貨幣っていうものに考えると、ちょっと本当に迷宮に入りそうなので。
リアル世界でも、大金持ちになっても、まだまだ富の蓄積を頑張ろうとするし、お金のいらない世界でも、お金アリの人たちが、お金が増えるのを遺棄するのも、そういう、“社会の仕組みがそうなっているから”自然にそういう風に行動するようになるんじゃないかなーって感じもする。
富の不均衡な蓄財が不可能で、それを不可能にする文化的に強度な圧力が生じてる社会、になってるんじゃないかな、お金のいらない世界というのは。と思う。無限に借金が出来て、蓄財に限界のある社会。



ここら辺は思考実験なので、何とも言えないけれども、個人の信用が無限大でも廻っていく社会というのは、(思考実験レベルでだが)実現しそうな気がする。
ちょっと今はそこまで考える時間はないけれども、いつか。



いかがでしたか?たまには、まんがの中に出てくる無茶苦茶な経済システムに想いを馳せてみるのもいいかもしれませんね。(バイラルメディア風まとめ)