orangestarの雑記

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怪物の描き方について

 最近とあるアニメをみて、その中に出てくるヒロイン(?)がとてもよかった。
 とてもいい怪物映画でした。ヒロインがとにかくモンスターで、とても素晴らしい怪物でした。とてもよかった。能力も含めて怪物としての純度が高い。


 本当に素晴らしかったので、自分の中にある物語の『怪物の定義』をまとめてみました。そして怪物と戦うものについても。

怪物の定義=才覚に自我を食われたもの

 人によって、『怪物』の定義はいろいろあると思うんですが、自分の中にある怪物の定義は『才覚に自我を食われたもの』なんですよ。(言い方を変えると、才覚に可適応した自我を持つもの。あるいは才覚と自我が調和しているもの)
 『才覚』と一言で言ってますけれども、それは生まれ持った才能であったり、生後努力によって獲得した能力であったり、事故や病気で失ってしまったものであったり、暮らしている環境(への適応)であったり、特別な主義主張であったり、村の因習であったり、誰かを気が狂うほど好きという感情であったり。その人に外付けされるオプションとしての『特長』のことです。

著しく高い『能力』は人の人生、自我を侵食する

 ”平均”からかけ離れた能力は、それ自身が人の人生を左右します。度を越してピアノがうまい人は周りの環境が彼をピアニストにしようとするし、彼自身がピアニストになろうとします。相互作用で彼自身がピアノになる。ラーメンが異常に好きで、ラーメンを異常にうまく作れる人も同様に、彼自身がラーメンの概念となる。努力と根性で、一大レストランチェーンを築いたひとの中には『自身が行ってきたように、他社に努力と根性と成長を強い、本人も無限にそれを再生産する』という人が少なくないと思います。
 専門性を高めるあまり、人間そのものが概念化してしまうことって見渡せば結構あると思います。概念モンスターですね。ここで身近な例を挙げますが、シロクマ(id:p_shirokuma)先生も承認欲求の概念としたモンスターと言えます。(実際シロクマだし)今のところは半分冗談でやっていますが、この先、適応の概念がブレイクして、時代の顔になってしまうということが起こった場合、彼が人間でいられる保証はおそらくありません。

そして、侵食された自我による他人との(別の価値観を持つ人間との)相互理解不可能性が恐怖になる

 自我を『才覚』に食われると何が起こるかというと、無敵の人の誕生になります。
 自我は世界を認識して、価値を判断するものです。そして、自我を『才覚』に食われた人の場合、彼自身の世界の中心には常に彼自身がいることになります。なぜなら、彼が善と認識する才能や環境を、誰よりも強く持っているのは、その『才覚』の持ち主である彼自身なのだから。『才覚』が彼の自我を侵食し、侵食された自我が彼の『才覚』を肯定する。『才覚』を生かすことが自我、人生の目標になり、『才覚』による成功はその人自身の人生と自我をより『才覚』を生かす方向へ先鋭化させる。このように世界観が円環をなし強化され、彼を取りまく世界に外部性が存在しなくなります。(この円環は彼の才覚が他社と比べての優位性があるものだけでなく、才覚が欠点、劣位のものでも成り立ちます)

小説や映画の悪役としてサイコパスの犯罪者が登場するが、サイコパスなだけでは怪物になりえない

 娯楽小説や映画で、安易にサイコパス気質の殺人者を登場することがあります。
 『人を殺すことに躊躇がない、人を殺すことが楽しい』そういう人間が出てきて、ゲームのように人を殺して、主人公はその異常性に振り回されながら事件を解決して(または解決できずに)終わる。映画によって、サイコパスをちゃんと怪物として表現できているものもあれば、幼児性、善悪を判断できていない子供、としか認識できないような作品もあります。(それはそれでモンスターですが)
 殺人者の内面に『こんなことをしてしまう言い訳』ではなく、『(彼の価値観の中でこういうことをする)必然性』が書かれていると、個人的に「わあ!怪物がでた!」とうれしくなりますね。言葉は通じるのに、話は通じないというのは本当に恐怖です。

怪物と戦うものについて【強い世界観は強く人を惹きつける】

 『怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。』使い古されたニーチェの文面ですが、しかし、とても的を得ている言葉です。
 強い世界観は強く人を惹きつけます。先に書いたレストランチェーンの創業者もそうですし、詐欺まがいのことをしているインフルエンサーもそうですが、強い価値観を持つ人間に人は惹きつけられます。セカイを見回した時に、正しいのは自分ではなく相手なのかもしれない、そう、自分の足元の価値観を揺さぶってくるのも、『怪物』の魅力の一つです。

怪物にならないように戦うものについて【異形の力を持ったヒーロー】

 怪物になるレベルの能力や才能があっても、怪物にならずに、他人と共有できる世界観で生きている人間というのは、ヒーローです。自分はそういう人間の出てくる物語が好きだし、そういう主人公が好きです。超人ハルクもそうですし、スパイダーマンもそうですね。ふとしたことで超常の力を持ってしまった主人公が、その力に飲み込まれずに自我(一般的な世界と共通の世界観)を保ったまま戦う姿は胸を撃たれます。内的な能力なら、洋ドラのエレメンタリーのシャーロックホームズもまたそうです。推理事件解決マシーンにならずに、人間として友人を大切にして生きるというのは怪物に生まれたものにとってとても大変な茨の道だと思うのに、彼はその生き方を選びました。(それとは対照的に『相棒』では杉下右京の”能力”に完全に同一化してしまった事件解決マシーンの悲哀が書かれています。杉下右京の暴走する正義とはまさにそういう……)
 また、能力が劣位な場合も同じように物語が成立します。美女と野獣のようにその姿に飲み込まれない、という物語もまた良いものです。よいですね。僕は好きです。
 その怪物の力を持った主人公たちに、その『能力』は、その能力に溺れるようにささやいてきます。それと戦うという『強い意思の力』が人に感動を呼ぶわけです。少なくとも僕は感動します。

『怪物』は悲しい

 怪物は悲しいです。とても悲しい。
 それは、『怪物にならないように戦うもの』と対極の、『才覚』に負けて、人間としての自我を失ったものだからです。
 『強い意思の力』を失い、自分の中の怪物に身を任せてしまった生き物だからです。だから怪物は悲しい。鬼滅の刃の鬼になってしまった人たちがとても悲しいのはコレです。

応用編。怪物はどこにでもいる。あちら側とこちら側について

 さて、今までの文で、『怪物の論理』をあちら側、『社会側の論理』をこちら側、と当然のように話していましたが、果たしてそれは正しいのか。正しいのは怪物側で、間違っているのは自分たちの方ではないのか。そういう問いかけをしてくる物語は多いですが、問いかけだけではなく、もう2歩進んで、完全に世界を相対化させて足元の地面を砕いてくる作品も好きです。
 藤子F不二雄の『ミノタウロスの皿』とか、そういう索引ですね。あと、田舎の因習物で、その村で正しい風習(これも才覚)を持った人間たちが普通に風習を行うけれども、それが主人公にとっては狂気にしか見えない。主人公側からすると村人たちは『才覚(村の常識)に自我を食われたもの』、つまり怪物たちに見えるんですが、(そしてここで理解が止まってる田舎ホラーも好きですが)そこから1歩進むと、主人公が村人からみたら怪物に見える、ということになります。(同じく藤子F不二雄ですが『流血鬼』とかそうですね)(藤子F不二雄ばっかりだな)(それ以外の映画とかを例に出してもいいのですがネタバレになるし…)(※藤子不二雄は基礎教養だと思ってる)

物語において、怪物をどのように描くか【怪物、理解不可能な生き物、私たちの日常を侵すもの】

敵の場合

  • 理解不能な怪物として描く
    • 論理とかなしに突然現れて襲い掛かってくる純粋な暴力(先に出た幼児性のサイコパスや、もっと純粋な貞子のようなモンスター系モンスター)
    • まったく理解できない理論で行動する怪物(バビロンの曲世愛)
    • 理解できそうな理論、世界観を持った(自分たちを惹きつける魅力を持った)怪物(バットマンのジョーカーのような)
  • 理解可能(だけれどももう分かり合えない)悲しい生き物として描く
    • なぜ怪物になったのかを明かすタイミングを、死ぬ直前に持ってくるか、普通の人間だったのが徐々に怪物になっていく様を描くのか

味方(または敵対的でない登場人物)の場合

  • カリスマとして描く
    • 杉下右京、シャーロックなど。ほか探偵もの多数
  • 保護される対象として描く
    • 才能はあるが、その世界観、孤独ゆえに傷つきやすい
      • →そんな彼がひとりで生きていけるようになるまでの成長の話(仮面 ライダー アマゾンズなど)
  • 孤独な戦士として描く
    • 異形、異能であるがゆえに誰にも理解されないが、自分の信念のために戦う(仮面 ライダー アマゾンズなど)

味方→敵の場合、敵→味方の場合

 『才覚』に飲まれる、『才覚』よりも重要なものがあることを知る。
 ※闇墜ち、光墜ちがあるけれども、ただ単に誘われるよりも、そのキャラクターの存在自身のあり方にかかわる部分でフォールダウンが行われるのが個人的に好みです。


以上、自分が、物語の中の怪物、というものはこんなものだ、と思ってるという話でした。