orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

普通でない人生で普通になりたい人と、人生をゲーム化する人と

精神科医に「本当にもう、鬱病とか双極とかいいので、やめたいです。薬も全部やめたいです。健常者になりたいです。小説とか絵とか詩とかも、全部やめて普通に学校行きたいです。普通の人になりたいです。鬱病やめたいです」って泣きながら言ったら「無理なので今晩もきちんと薬飲んでね」と言われた


blog.tinect.jp

おれは「ふつう」のスタートラインに立てない。おれは「ふつう」ではない異常に低い性能しかない、異常に低い社会で生きている。

べつにだれがなにをもって「ふつう」を名乗ろうとかまわない。おれに止めるすべもなにもない。とはいえ、かなり恵まれた前提があって、そのうえで能力にも恵まれた人間が「ふつう」を名乗っているのであれば、少しくらい毒づきたくもなる。そのくらいは許してもらいたい。


p-shirokuma.hatenadiary.com

うちの家庭はゲーム一家なので、人生や人間模様についてゲームを比喩として語り合うことが多い。ゲームと人生の似ているところや、ゲームと人生の違っているところを日常的に言語化しあっている。たとえば「たいていのゲームではステータスやパラメータが数値化されて一覧できるけれども、人生ではステータスやパラメータは表示されない」、「だから人生では自他のステータスやパラメータに相当するものを類推できる能力を持っていることが有利になり、類推できないことが不利になる」、といった具合にだ。

普通になりたい。楽になりたい。

自分も、普通にやっていきたいと思う異常者だ。まあ、それでも、結婚もして子供もいて、ただそれ以外で普通でない部分もいろいろあるけれども、普通ではない人の部類から考えると普通の部類に入るのだと思う。普通の定義はよく分からない。
ただ、世の中は『普通』の人を基準に作られている。(しかしそれは世間の平均値とは限らない、世間一般で『普通』と定義、認識される値の周辺、例えば、今の社会制度は異性同士で結婚をして子どもを何人か授かって、家を持ち家で買って、郊外に住む、正社員として転職をせずに新入社員で入社した会社で定年まで勤める、というような人生を想定して設計されている。そういう人生は過半ではあるだろうが、今の社会では決して圧倒的大多数とは言えないのではないかと思う)
そして、社会制度や世間の常識が『普通』を基準に作られているので、そこから外れれば外れるほど生きづらい。知能指数70以下の人間は生きづらい社会だろうが、恐らく130以上の人間も同じくらいとは言わないが結構生きづらい社会だと思う。知能指数130以上の知り合いがいないから分からないけれども。
みな、普通になりたがる。または、普通を演じたがる。何故か。それは期待するからだ。普通であるならば、普通の人生と普通の幸せが降りてくると思ってる。そんなことはないけれども、人間はこの因果関係を類推する人間の脳機能の仕様(バグ)からは逃れられない。論理的にそれを理解しない限りは。
そういうわけで、多くの人は『普通』の振りをする。普通の振りをして、普通でない人や上手くやれない人を不完全だとしてネットで叩く。常識がないとか、そんなでは父親とか母親の資格がないとか、自業自得とか、自己責任とか。そうやって、普通でない人は更に生きにくくなって、『普通』である事への圧力はますます高くなっていくのだけれども、それはまた別の話。

楽になりたい。

普通になりたい、というのは、多分そういうことで、でも、普通になってもそこまで楽ではないのは、まあ、想像がつく。でも、普通になりたい、楽になりたい。
で、ひとつ前に書いた、『誰かの引いた人生のロールモデルという物語』を求める話にも繋がるのだけれども、その人生のロールモデルというのは『とりあえずこうやって送ることができる』というある種『普通では上手くいけなかった人がある程度道筋として歩いていけるその界隈では普通のルート』で、n次元関数の極値のようなものでもある。みんな、そういう物語が欲しいし、普通になりたい。

人生のゲーム化について。

ただ、そういうのと別のやり方がある。
それが、シロクマ先生(id:p_shirokuma)の言っている『人生のゲーム化』だ。です。だと思う。
かなり前に発行されて、そして、現在も名作と呼ばれている自己啓発本に『チーズはどこに消えた?』という本がある。
これは、くよくよ思い悩むことはやめて、とりあえず行動する。未来を予測しない。行動するネズミのようにとにかく試行をする。そうすれば上手くいく、という本で、まあ、それは確からしい。
他にも、成功者の自伝や、成功するための本には、『目的の設定』と『それを達成するための日常的な行動、作戦』について書かれていて、ライフプランや理想的な人生についてはほとんど書かれていない。

こういう行動指針は、『人生のゲーム化』と言い換えても良いと思う。

世界を『現在の状況』と『行動によっておこる変化』に分けて、それぞれの正確な認識と、『暫定的な目標設定』への達成のためのプラン作り、そのための行動、と単純化する。大きい物語とか、ロールモデルとか関係ない。多分、成功したり、世の中をうまくやっていったり、世間的な成功は納められなくても充実した人生を送れるという人は、このような認識で生きて言っているのだと思う。

ただし、これはかなりマッチョな生き方だ。マッチョですよ。普通の(また普通って言った!)人にはちょっと難しいし、こんな人ばかりになったら、社会は万人による万人のための万人の闘争になってしまう。

シロクマ先生の場合、人生の早い段階で、レールから外れる出来事があって(どこかに本かブログに書いてあったと思う)それは今の基準からしたら大したことではないけれども、昭和で、しかも田舎であるならそれはかなり大きい人生の価値観を変える出来事であったと思う。そこから這い上がってきた、その結果得た人生観というのもあるんじゃないかな。ちょっと前の
p-shirokuma.hatenadiary.com
ここら辺の記事を読んでも、シロクマ先生は、マッチョ寄りの人間だろうな、心根の奥の方は…。と何となく思う。

世の中でガリガリとゲームをする人間というのは多分そんなに多くは無くて、攻略本や攻略サイトを見ながら、できるだけ楽で全部を拾えるルートを歩きたいという人間の方が多いし、それよりもyoutubeで配信者のプレイ動画を見て、自分もプレイした気持ちになっている人間だってそれなりにいる。

自分も動物化したいと常々思っていたが、自分の本性がそれを許さなかった。

と、上のところで『シロクマ先生はマッチョだから人生をゲーム化しているのでは…?』と書いたが、生まれ持っての気質という可能性もある。生まれながらにゲーム脳の人間もいるし、物語脳の人間もいる。自分もずっと、そういうことに悩まされずに行動で動けるようになりたいと思っていたけれども結局ちょっとずっと難しいままだ。(かわりに嫁はかなりゲーム脳の人間だと思います)
そこらへん、もう、どうしようもないところだと思うし、この身体とこの色でもう40年以上生きてきたので、このまま、この調子でどこかに流れ着こうと思います。どうせ自分は普通ではないので、自分の行くところは未踏ではあるし、自分が行った先が誰かの道になることもあるでしょう。歩いた場所は地図に記しておけば誰かが見てくれるかもしれない、実際なった。(ただ、今は航海日誌は公開を辞めているのですが)(どこかで書けるようになったら書きたいと思います)
結局自分は物語の人間だった。鬱になって物語というものが存在しないと心で分かってしまった時期に、世界をゲームとしてとらえなおしても良かったのに、そうはならなかった。目標というものが無いんです。成功というイメージがない。自分が望んでいるものが、自分の頭の中の屋根裏部屋*1を守るということだけだった。まあ、それも、難しいわけですが。人は生活をしないとならないし、生活はそういうものをゴリゴリと削っていく。宮沢賢治も『告別』という詩のなかで「生活のためにけづられたり自分でそれをなくすのだ」と人の才について語っている。

難しい難しい。

まとめ。やれる範囲でやってくしかない。

人には人それぞれの世界認識があって、その世界でやっていくしかない。自己啓発はそれをスライドさせてくれる便利な道具ですが、それが効かない人間もいる。そして、そのスライドさせるために使われるのも『物語』の力なのだ。そして、その術は俺には効かない。
普通になりたい、さもなくばゲーム化したいと思うが、それは無理なので、今晩もきちんと薬飲んで寝ます。

*1:この屋根裏部屋という比喩は、ヘンリーダーガーが80年間、誰にも秘密で誰にも見せない物語を書き続けたことに由来します。誰に見せる訳でもない自分だけの物語をどこかで綴り続けれればそれでよかった