orangestarの雑記

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表現をする上での『覚悟』という言葉の意味について

amamako.hateblo.jp

昨日の記事(新海誠男同人誌についてと女子界隈についてと文春と犬笛と正義の味方について - orangestarの雑記)について、(id:amamako)さんから返信を頂きました。


おっしゃる通りです。言葉もない。
自分のその記事のはてブにも書いてますが、あの記事も、『お気持ち表明』に他ならないわけです。

しかし実際は、まさしく小島氏こそが、自分が傷つけられないことが多い特権性を利用して、「配慮したら負け」というねじれたマッチョイズムを内包し、それによって「強者が弱者を傷つける社会」を擁護し、嫌な社会が再生産している存在なのです。

「本当に嫌だ」と嘆くなら。まずはその自分自身のなかにこそある嫌な部分を、改善しようともがくべきだと、思います。

頑張ります。精いっぱいもがいてみようと思います。



ただ、ひとつだけ、表現をする上での『覚悟』の意味について。
自分は、表現をする上での覚悟というのは、本人の内面でだけ『覚悟したよ~』というものではなく、行動を伴うものだと思っています。「遺憾に思う」「責任を感じる」というような定型文ではなく、実際に行動を伴いその表現をするためにやるだけのことをする、その表現が誰かのプライバシーを侵害していないか、尊厳を踏みにじっていないか、間違った情報を発信していないか。そしてそういう配慮をした結果、それでも問題が発生したら、謝罪、作品の停止、損害の補填、そこまで考慮しての『覚悟』だと思っています。どうやったって、問題は発生する。それでも、やるんだったら、自分の加害性を受け止めたうえでそしてその作品を出すことによって社会が得られる利益と損益というものも考えたうえで、やる。そういうものだと思っています。

そしてその表現というのは、『お気持ち表現』も含まれるし『インターネットの手斧』も含まれる。今の、”全ての人が発信者”となる世の中では、必然的に含まれてしまう。特権者なんてものはどこにもいないんです。万人が、万人に対して表現の加害と被害の責任を持つ。

自分も何かを書いたり作ったりしていく上で『覚悟』が足りていないと思います。それでも、できるだけの覚悟をしてやっていくしかないんだと、そう思って、あがいていこうと思います。

返信、ありがとうございました。