orangestarの雑記

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新海誠男同人誌についてと女子界隈についてと文春と犬笛と正義の味方について

新海誠好きの男経験談の同人誌についてと女子界隈について

女性オタクの棲む暗い池について|さいたま
同人誌の企画中止につきまして|三宅香帆

まあ、ここらへんから、なんか。

新海誠同人誌中止について。
「私は被害者であり、加害者だと思われたくない」ということなんだろうなと思う、つまり。
別に同人誌出せばいいと思うし、モノを描く、作る、というのは何をしても常に加害性が付きまとう。殆どの表現物は加害の上に成り立っている。特にそれが批評性をまとうものならばなおさらだ。だから、モノを作るときは、必ず、「自分は加害者である」という自覚と「人殺しの顔」をみられる覚悟が必要で、それが嫌で(人殺しをすることが嫌なのではなく加害者だと思われることがイヤ)(それは、中止文の中にある『自虐~』云々の言葉からも読み取れる)中止、というのは、なんか、(結局自分の加害性に対して責任を示さないので)表現をするものとして、ダサいな、と思う。
そして、もう一つ上に貼ったエントリの、『女性オタクの棲む暗い池について』にあるような、女性社会の『お気持ち表明』による『自分が被害者側にいて相手を非難する技術』と環境も無縁ではないと思う。それは女性界隈だけの話ではなく、今のインターネットを含む現実の社会でも同じだ。他人に不快にされない権利というものに(そんなものはないのに)個人の意思表明、表現というものをキャンセルさせられるという方向に世の中が流れて言ってると思う。
なんか嫌だな、と思う。もっと、こう、それぞれの責任において、人を傷つけたり傷ついたりするのが、まっとうな社会や世界だと思う。まあ、でも、今の、「個人のご意見」にバフがついて、犬笛を吹けば人が集まり、自分は安全な場所にいるファンネルが(自分の暴力的快感を満たすために)オールレンジ攻撃を行うような今のインターネットではそれはとても難しいものだと思う。


新海誠同人誌の企画者の三宅香帆さんが、セクシー田中さんの作者の芦原さんの事件について、このようなことを述べられている
芦原妃名子先生のことについて|三宅香帆
もっともだと思う。ただ、今回の事件の発端(とそしてその結末)は、もっと別のところに理由があると思う。
今回の発端は脚本家の人が、身内(そしてその脚本家のファン)の人たちとの仲間内で、『原作者』の尊厳を傷つけるようなことを言い、そしてそれをインターネットで広めたことが発端であり、そして、あのような結末に至ってしまったのは、インターネットでそういう人のゴシップを面白がって広める人間たちが大事にしたせいだ。
「セクシー田中さん」と芦原先生の悲劇を繰り返さないために、私たちが真剣に考えるべきこと|徳力基彦(tokuriki)
ここで徳力さんが書いているように、芦原さんを疲弊させたのは炎上であると僕も思う。
そしてその炎上とは、「他人の出来事にかこつけて、自分の『攻撃的な感情』を消費して楽しむ人たち」の、集合体だ。そしてそれのさらに厄介なところは、それを行っている人たちは、自分たちのことを『正義の味方』『正しいことをしている』と思っていることだ。本当に良くない。これは小学校や中学校でも教えるべきことだと思うのだけれども、『正しい』ことを行うことには快感が伴うから気を付けなければいけない。そして、それをあおるような文春や滝川ガレソは本当に最悪だと思う。文春も、ガレソも、そして『正義の味方』も結局安全圏にいて手斧を投げるだけで、そして、その結果最悪なことになっても、別の犯人を捜して、そしてその犯人に向かって同じように手斧を投げるのだ。地獄だし、本当に自分はこういう現実に対して、死ぬほど嫌な気持ちになってるんですよいつもいつも。天罰が下ればいいと思う。

すこし話がそれすぎた。
芦原さんの事件の発端の、脚本家周辺の行動。それは“身内”の外へのリスペクトのなさ、なさというよりも『自分より下にいると思える人間はいくらでも馬鹿にしてもいい』という態度による。そしてそれは三宅香帆さんの同人誌の「新海誠好きの彼氏と付き合った体験談を持ち合って笑う」という行動にも通じるものだ。とても良くない。そしてこれはみんな自覚なくやってしまう。自分もそうだ。多分やってる。やっている側には、『悪いことをしている自覚はない』からだ。学校や会社で行われるイジメだってそうだ。イジメてる側にはイジメてる自覚はない。だから、アンケートを取ると「イジメなんてなかった」ってみんないう。これも、本当にクソだと思っていて、これに対しても本当に死ぬほどつらい気持ちにいつもなってる。これにも天罰が下ればいい。みんな死ねばいいと思う。

みんな自覚するべきだ。ちゃんと、人を殺す覚悟をするべきだ。

ガレソや文春によって、ジャニーズや性犯罪が暴かれて世間に知られる、市民の怒りをあおって人罰(社会的制裁)を与えらえるというのはある。今、それ以外で、そういう権力を持った犯罪者に罰を与える方法はないから、ガレソや文春には意味がある、という人がいるかもしれない。確かにそういう面はある。でも、そういうものは、ちゃんとしたジャーナリズムや、市民の不断の努力によってなされるべきものなのだ。

本当に嫌だ。それによってしか制裁がなされない社会と、そして時間が経ってほとぼりが冷めるとみんな忘れてしまう社会と(ジャニーズのことも、宝塚のことも、統一教会のことも、すでに風化し始めてる、なんの責任もまだとっていないのに)

本当に嫌だ。何もかも嫌だ。


追記

(id:amamako)さんの返信記事を受け、追記のエントリを書きました。

amamako.hateblo.jp

orangestar.hatenadiary.jp

返信記事の内容をこちらにも載せておきます。


表現をする上での『覚悟』という言葉の意味について

amamako.hateblo.jp

昨日の記事(新海誠男同人誌についてと女子界隈についてと文春と犬笛と正義の味方について - orangestarの雑記)について、(id:amamako)さんから返信を頂きました。


おっしゃる通りです。言葉もない。
自分のその記事のはてブにも書いてますが、あの記事も、『お気持ち表明』に他ならないわけです。

しかし実際は、まさしく小島氏こそが、自分が傷つけられないことが多い特権性を利用して、「配慮したら負け」というねじれたマッチョイズムを内包し、それによって「強者が弱者を傷つける社会」を擁護し、嫌な社会が再生産している存在なのです。

「本当に嫌だ」と嘆くなら。まずはその自分自身のなかにこそある嫌な部分を、改善しようともがくべきだと、思います。

頑張ります。精いっぱいもがいてみようと思います。



ただ、ひとつだけ、表現をする上での『覚悟』の意味について。
自分は、表現をする上での覚悟というのは、本人の内面でだけ『覚悟したよ~』というものではなく、行動を伴うものだと思っています。「遺憾に思う」「責任を感じる」というような定型文ではなく、実際に行動を伴いその表現をするためにやるだけのことをする、そしてそういう配慮をした結果、それでも問題が発生したら、謝罪、作品の停止、損害の補填、そこまで考慮しての『覚悟』だと思っています。どうやったって、問題は発生する。それでも、やるんだったら、自分の加害性を受け止めたうえでそしてその作品を出すことによって社会が得られる利益と損益というものも考えたうえで、やる。そういうものだと思っています。

そしてその表現というのは、『お気持ち表現』も含まれるし『インターネットの手斧』も含まれる。今の、”全ての人が発信者”となる世の中では、必然的に含まれてしまう。特権者なんてものはどこにもいないんです。万人が、万人に対して表現の加害と被害の責任を持つ。

自分も何かを書いたり作ったりしていく上で『覚悟』が足りていないと思います。それでも、できるだけの覚悟をしてやっていくしかないんだと、そう思って、あがいていこうと思います。

返信、ありがとうございました。