芸術理論や言語に基づいて作品が作られるのではなく、もともとそこに存在する、または生まれてしまったヤクいものに対して言語化していく作業が“芸術”なんじゃないかなあ、って思う。
“異質”で“理解不能”なものに名前と言葉と意味を与えて“理解可能”に収蔵していく行為。
たとえば、浮世絵なんかは当時の日本では消耗品、今の漫画とか(既に漫画はある程度の評価を得ているけれども)エロ本とか、そういうのと同じような庶民の低俗な娯楽だった。それが海外の“芸術”の文脈で再評価されて、芸術として認められるようになった。
アンディウォーホールは量産品であるキャンベルのスープの缶に“意味”を見出して、“芸術”に昇華させた。
芸術は科学
そして、理解して分解したものを、芸術の文脈に基づいて再構築することもまた、“芸術”だ。
なにか、すごいことが起こっている、自然であり、誰かが天啓を受けて作ってしまったものであったり、隔絶された文化圏で生まれた表現であったり。
そのようなものを、“なぜそのようになっているのか”“どういう意味があるのか”“どのようにして人に感動を与えるのか”を理解して、それを再現可能なものにする。化学実験の再現性のように、そのようにして解体された表現は技法として確立していく。
ジャポニズムとして理解分解された浮世絵の要素は、ゴッホのいくつかの作品に影響が見られる
村上隆の一連の作品は、日本のオタク文化を、“芸術”の文脈で再構築することによって、高い評価を得ている。
未だ、“芸術”の文脈に回収されていない芸術について
アウトサイドアート、という言葉がある。よく、アウトサイダー(社会から障害などの理由で隔絶された存在)によって作られたから“アウトサイダーアート”とよく誤解されているけれども、本当は、既存の“芸術(アート)”の文脈で理解分解しきれない、その枠に収まらない、既存の“芸術”の文脈を元に製作されていないアートのことだ。
シュヴァルの理想宮は、ある郵便配達人が、自分が集めた“素敵なもの”をくっつけて集めて作った建物である。一歩間違えればごみ屋敷なのだけれども、逆に言うと、日本であちこちで見られるごみ屋敷も、何かがあればこのようなものが生まれる素地があるのかもしれない。(おそらくそうなっている屋敷とかあるはず)
ヘンリーダーガーは、自宅のアパートで、大きな物語を作り続けた。
あと、アウトサイダーアートという名前で評価されていないけれども、素敵な絵を描く人たちはたくさんいます。本当にすごい。
物理で殴られている衝撃がある。直接メンタルに来る。
そういう、今のところアートの文脈で語られないけれども、そのうち、これらの絵も、理解分解、そして再構築されていくのだと思います。芸術というのは、たぶん、現実に起こってしまったすごい表現、または自然現象や社会的な問題によって引き起こされるショックを、ログにとり、そして再現可能にする、科学的なアプローチなんだろうなあ、と個人的に思っています。
あくまで、これは個人的な世界観の話なので、多分に誤りを含んでいると思うので、与太話として聞いてください。
そんじゃーね!