orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

地震と、死と。

すこし気持ちが参っているのかもしれない。自分がぬるい水の中に沈んでいるような感覚がある。
1月1日に起きた能登半島地震、その翌日にニュースで流れてきた燃えさかる輪島の商店街の様子をみて、もう20年以上昔の阪神大震災のことを思い出した。あの時も、火事が収まらずにずっと燃え続けていた。あの時は自分は当事者だった。神戸ではないが阪神間に住んでいて、それなりの被害にはあった。復旧には、被害にあった場所以外に、その被害にあった人の人それぞれの事情で日常に戻るまでの時間に差があり、そして、いまだにまだ阪神大震災の震災のさなかにいるひともきっといるのだろう。今までの日常は戻ってこないけれども、できるだけ多くの人が新しい日常に返ることができるようにと祈る。祈る。
日常をなくした人は日本の石川県の人たちだけではなくて、いまだに戦争の続くウクライナや、イスラエルによるジェノサイドの続いているガザ、世界中のあらゆる場所で日常は失われていく。それを自分はどこまで自分のこととして受け止めればいいのだろうと思う。結局は他人だ。他人のことだけれども、それを自分のことのように心を痛めたり、想像力を働かせることは人間の力だと思う。でも、それにも限界があるし、それをどこまですべきなのかということ思う。
映画、窓ぎわのトットちゃんを見てきた。今の、自分が感じている命が損なわれていく状態に対してリンクするところが多くあったからだろうか、かなり、心に響くものがあった。なんでもないシーンで何回も泣いた。あらゆるものは損なわれていき、いつかは消えてなくなってしまう。じゃあ、最初からない方がいいのかというとそれは違うと思う。
半出生主義的っていうのがある。これも色々誤解される主義だけれどどもまあ端的に言うと、生きるのは辛いので生まれてくるのを辞めましょうっていうことで、たぶん、これは、良くない。なんか正しいけれども、そういう正論をいってそれが何か意味があるのか?って思う。
うん、正論だし正しい。
生きるのは辛いし悲しいし、人生は、良いことと悪いことを積分したら悪いことの方がはるかに多いだろう。だから、じゃあなんで生きてるのか、生きて行かないとならないのか、命に意味があるのかっていうことをちゃんと理論的に言葉で考えると生きてることに意味はないし、死んだ方が楽だし、命に意味はないってことになる。
でも、生きている側にいる限り、生き物は生きているので、意味がなくてもここにいるんだと思う。