orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

なんか文章が書けないので文章を書く

絵描きが絵描きの気分転換に絵を描くみたいなものですよ。ちょっと違う。手を動かして脳をいい感じに動かすために脳直で文章を書いていきます。脳直で書いていくので大体1時間で4000文字くらいを目標に。今、1153なので1253くらいまで時間をかけて、それくらいかければ、という感じ。今、ノートパソコンで描いてるんですけれども、ノートパソコンってやっぱり書きにくい。なんだか手が変なところを押してしまってその度に打鍵が止まる。とても、気持ちがなえる。キーボードを持ってきてそちらで打った方がいいのかもしれない。ほら、今また打ち間違えた。なんか、そう、別の話をしようと思います。自分の話。自分の最近の話といえば、私生活では色々とあるのだけれども、そういうことは書けない。最近のインターネットには書けない。最近どころかこの10年くらいのインターネットには書けない。そういう個人的なこと以外にも近所の公園で桜が咲いたとか、その写真を上げたりするのもそれによって場所が特定されたりするので書いたりするのはよくない。そういう、個人がリアルと紐づかないようにして暮らさなければいけないのが最近のインターネットで、やっぱりここ10年くらいそういうのに対してつまらないって思う。だからブログ文化もすたれるのだ。嘘。ブログ文化がさびれたのはそういう理由ではない。みんなめんどくさいのだ。小さい文章を小さくかくことで満足してしまうし、みんな自己実現など望んでいないのだ。自己実現をできるのは、歌を歌ったりおしゃべりが人より出来たり、絵を描けたり、音楽を作れたりなどの特殊な才能を持った人たちのものだとして諦めているのだ。そんなことはないのに……。ところで、はてなブログによゐこの有野さんが来てくれました。本当に嬉しい。はてなに有名人が来てくれた。これを機にもっといろんな人がはてなブログを始めてくれるといいですね。期待しています。さて、ついこの間、身近な人から「お前の話には『ケ』がない。生活が漂ってこない」(この『ケ』というのはハレとケのケのことです。ハレとケというのは、ちょっと説明が難しいんですけれども(詳しくはググってください)非日常(祭りとか陽の儀式)とそれ以外の日常、陰の部分のことです)と、あと「出てくる人間が全部お前の写し鏡」ということを言われまして、そういわれてもそういうのを直そうとここ20年くらい色々やって、ある程度できるようになったと思いながらも、全然ダメといわれたらどうすればいいのか。とにかくその原因も何となくわかっていて、自分は『生活』が苦手だし、憎んでいるし、『ただ噛みしめるようにしてやり過ごしていくしかないもの』と認識しているところがあって、それが、日常をうまく描けない原因で。あと、登場人物が全部自分の写し鏡というのも根本的に他人に興味がないから、というのに起因してるのもわかっていて、でもそれが人間の本質の部分なので、ちょっとどうしようもないですね、という感じ。いくら説明されてもドーナッツの穴の部分をつかめ、という言われているみたいで。(で、この日常と他人がわからないっていうの庵野監督も同じような性質を持っていると思う。映画の中には日常と他人が存在しない。多分同じように生活と他人に興味がないんだと思う)まあ、そういうことがあって、でも対策をしていかないとな少しずつ。と思ってるところです。その人曰く、最近の漫画やほかコンテンツはその『ケ』の部分がメインになっている作品が多く、その部分をちゃんと書かないとその上にどんな物語を乗っけても上滑りしていく。ということだったので。そうかなあ、自分はそう思わないんだけどなあ。観測範囲の違いじゃないかなあ。ところでこのハレとケの話、突き詰めて考えていくと訳が分からなくなる。なぜなら、ケ、は物語になった途端、ハレ、になるからです。語られることのない日常が語られる何か。になる。華倫変の作品も日常のケの話ですが、それでも物語になってしまったらハレになりますし、大樹連司先生の『勇者と探偵のゲーム』も、ハレを送ることのできない普通の学生の語る誰かの物語ですが、しかし、物語になってしまった以上、彼も物語の主人公になってしまったというお話でした。誰も、物語で語られる以上物語の外に出ることはできない。ケ、を語る物語はそもそもそういうジレンマを抱えているんですけれども、そこまで考えなくても、まあ、簡単な部分で『ケ』を描いていけばいいのだと思います。キャンプ漫画とか、最近の趣味漫画とか、喫茶店巡り食堂めぐりとか。全て、『ケ』の物語ですし、そういうのを愛して物語を綴ればいい。自分はそういうのが愛せないので難しいですけれども。

今、無茶苦茶バズっている
意外と知られてない、すごく効果のある文章上達法|ふろむだ@分裂勘違い君劇場|note
こちらの記事。
記事全体へのコメントではなく断片への思ったこといくつかったので、ここにメモ。記事の要旨に対してのコメントではないです。
前半で語られてることの半分は『文章の圧縮技術』だと思うのですが、確かに圧縮された文章は脳に情報量がドドンと入ってくる感じがとてもよくて、自分も大好きですけれども、最近の文章や動画で語られる言葉のトレンドは、『冗長性のある、同じ事実を言葉を変えて何度も繰り返す文章』になっている気がします。その冗長性のある文章をみんな2倍速で見る。「大事なことなので1度しかいいません」VS「大事なことなので何回でも言います」の戦いですね。そういう風なトレンドの違いを自分は感じています。この変化がどうして起こったのか。分析すると面白いと思うのですが、しかし自分の観測範囲が狭いだけでそんなことはないのかもしれない。どうなんだろう。まあ、事実として勝手に分析しますが、多分、この世界に今、文字が溢れすぎているからだと思う。騒音の中では小さく大事なことを要旨を纏めてピンポイントでいうよりも、大声で叫んで何度も繰り返した方が相手に届くのだ。多分、最近のアニメや映画の「言葉で説明しすぎ」問題も同じ根っこがあるように思う。
あと、文章の上達技術として語られている

(1)優れた文章のどこがどう優れているかを、文章を書く人間の立場から精緻に言語化する。
(2)上記で言語化した「優れた文章の条件」を満たすように文章を書く。

なるほどその通り。絵の上達にも同じことを絵のうまい人が言っていて、まず『観察』そして『観察』(そして『資料を見て』)『実際に書いてみる』と。絵のうまい人が上達法を説明するとき、大体同じことを言っています。なるほど正しい。でもこれ、絵を描く才能のある人の絵が上手くなる手順なんだよね。本当に。絵が上手くない人は、まず、『観察』が出来ない。目で見ているだけで、理解したつもりになっても何も理解できていない。本当に『目が悪い』ので、本当にうまくなりません。ソースは私。同じように文章でも、文章を書く才能がない人は『読めないので言語化できない』『言語化したつもりでも言語化できていない』だから文章が上手くならない。弱った。上達できないひとは上達できない。これを打開する方法は一つあって。それは師匠を持つこと。師匠に手とり足取りどこが悪くてどこがいいのか教えてもらうこと。○付けをもらうこと。それが、絵も文章も上達する良い方法です。問題は師匠を見つけるのが物凄く難しいということだけれども。専門の学校や講座に行けば教えてもらうこともできるので、そういうのもおすすめですが、行った先の講師が自分に合った講師かどうかがわかりませんから。天才で書いてる人間は書けない人間がなぜ書けないのかわからないですからね。そういう人も言語化して文章を習得しているはずですが、多分日本語で言語化していない。独自の脳内言語で理解している気がします。そういうことが出来ない人にお勧めする二つ目の方法は『模写』『写経』ですね。目で見てわからないことが、実際に書いているうちにわかってくる。絵の模写の場合は、やってるうちに意味が分からなかった線やらそういうものの意味が見えてきますけど、文章の場合も、そこにあるリズムとか言い回しとか、そういうのが自然に見えてきて、『意味』が分かるようになってきます。なってくるんじゃないかな、どうなんだろう、自分の場合はそうだったけれども…。音読でもいいと思うのですが、文章が本当に書けない場合、まずそこから始めてみた方がいいのではないかと思います。フロムダさんの方法はもうある程度文章が書けて、色んなものを言語化できる状態になってから、の上達法だと思いました。言語化できる、観察できるというのはもうその段階で特殊スキルで、身についていないと使うことが出来ないもんです。

猫を殺す仕事。
以前、そういう漫画を描いていたのですが、そしてそういうタイプの漫画を描いていたのですが、そしてそういうタイプの漫画を集めて同人誌2冊ほど出したのですが。まだ、120ページくらいそういう漫画のストックがありまして。また、同人誌にしたいと思ってはいたのですが、時代的に難しい、というか旬を随分と過ぎてしまったような気がします。何処かで需要ありますでしょうか。Twitterで、以前の猫を殺す仕事系の漫画をアップしても思ったよりも反応が少なくて、今の時代、ああいう観念的で辛い感じのものは受け入れにくいのかもしれません。もっと、美しくて、物語のあるものでないと。なのかも。ああ、そういえば、自分にとって猫を殺す仕事は『ケ』の話ですし、そして、あれはうまく『物語の外側』を描けてると思いました。自画自賛ですけれども。

美しい絶望には需要がある。
みな、ケ、を、ハレ、にしたいのだ。さっきの話とはまた違うベクトルの話だけれども、みんな、詰まらない日常を意味のあるものにしたい、またはつまらない日常を破壊したい。そういう物語を求めているのではないかと思った。でも、自分には、その破壊したい日常という日常があまりないからわからないぞ。40を過ぎるといろんなものが『是非もなし』になって受け入れるようになってくる。40過ぎた人間の冒険のお話があんまりないのはそういう理由なのかもしれない。そういえば、異世界転生での最近の流行の方向性も異世界で日常を送る系の話が多いな。なんか、やっぱりそういう時代なのかな。

Twitterのお勧めにまだ慣れない。
ツイッターの「おすすめ」に慣れてきた - phaの日記
慣れないですね。おすすめされた記事を見に行くこともあるけれども(大体最近は絵ばっかりいいねしてるので、その方向性の絵がたくさん流れてくる)なんだろう、先回りされてる感じがして気持ち悪い。クリップスタジオのペンの補正を最大にして絵を描いてるときみたい。ただ、お勧め、をみて意識がタコつぼ化していくかというと多分そんなこともなくて。なぜならそれ以前に自分でフォロワーを選別してタイムラインを構築している時点で、『自分に合った世界』が出来上がっているからだ。お勧めはそれを手助けしているに過ぎない。ただ、友人のツイートを確認できないのはちょっと困る。タイムラインにその人が流れてきて、あ、そういえば今何してるんだろう、とその人のプロフィールまで行ってそこから遡ってみる、とかそういう見方をしている。Twitterの正しい使い方がわからない。最近フォロワーが400人を超えたのですが、もうこうなるとタイムラインの収集が付かない。2時間置くともう追いつかなくなる。多分、タイムラインで追いかけられるのは100人くらいが限界で、それ以上を越えるともう、たまたま見てそのタイミングで上がっているツイートを拾い読みする。という形になる。でも、ちゃんと追いかけて全部のツイートを拾わないと、っていう人もタイムラインの中にはいて、そういう場合はどうすればいいんだろう。イヤ、答えとしてはリストを作ればいいんだけれども。というわけで最近はリストも活用していて、Twitterの使い方がどんどんうまくなって言っている。でも、お勧めにはまだ慣れない。

こんな感じで一時間たちました。
一時間で5050文字くらい。