自分、ホラーが判らないんですよ。ホラー映画の怖さが判らない。でも、理論は知ってる。呪怨とかみてその画面構成や、小中理論とか、構成のなかで、どうするとか、不安と安心の組み立てとか、伏線とミスリードの使い方とか、どこをどうやったら怖いものが出来るのか、理論では判ってる、と思ってた。
でも、実際は、それで作っても怖いものにはならなくて、感覚として、幽霊や、お化けや妖怪やゾンビを怖い、って思う事が出来ないと怖いことがわかんないんだなあってのが、実際に作って、人に見てもらって、判った。自分の作る怖い話は、怖い話と言うよりは、落語幽霊オチや、ただの後味の悪い話だと。でも、感覚として、その感覚を持ってないからわかんない。
で、自分は、もっと根本的なところで、『日常』がわかんない。ただ生きる、ことの喜びとか、おいしいものが食べたいとか、綺麗な格好をしたいとか、そういう、日常的な生活の部分の快不快がわかんない。そういう、人生の日常パートの重みはゼロだと思ってたし、そうではないと、いまは理論では判ってるけど、やっぱり、感覚としては理解できない。QOLが判らない。だから、お祭りもわかんない。ハレとケがわかんない。お祭りの何が楽しいのか、自分の体感として、感覚として、理解が、出来ない。周りの人間が、楽しいって言ってるから楽しいんだろうと思って参加したり、なんか行ったりして見た事もあったけど、やっぱりわかんない。他の人が楽しがってて、まあ、それは楽しいんだろうけれども、自分は楽しくない。他の人が楽しくなる理屈はわかっても、感覚として理解出来ない。そして「感覚として理解出来ないことは結局理解出来ないのと同じだなあ、わかんないなあ」って思う。
自分が、「感覚として理解できる部分」は、「何かを分解して再構成して、構造が理解できた時の達成感」と、「それを再構築、応用して何かを作る作業とその作業が成功した時の達成感」しか、ない。ってことが、30年以上生きていてなんとなくわかってきた。そそして、わけわかんないものに対する恐怖。(だから、自分は、妖怪とか化けモノとかよりも、人間が怖いです。その言葉通りの意味で。*1)自分が、他人と共有できる感情ってものすごい少ない。でも、他人と生きていこうとすると、それを理解して、何とか、近似値でも、再構築して動くようにしないとなんともならん。それが無駄とか、しても無駄だからしないほうがいいとか、その自分にとって不条理な世界を、自分に理解出来る言葉で定義し直してなんとかしようとしたら、そこでしてる仕事が詰まんないものになるから理解しないほうがいい*2って言うんだったら、ひとりで生きていかせてくれって思う。むしろ死んでた方がよかったなあ。ダブルバインドは本当に勘弁してほしい。
そんな事を、鬱でつぶれる前の日記とか読み返しながら思った。