これも2019年4月に書いた漫画で、更新のタイミングを失ったまま、ずっと失い続けてたんですけれども、今更新しないと永遠に更新できない気がしたので更新します。
2019年は物凄い数のvtuberが誕生して、vtuber戦国時代だったんですが、今はもう、企業とそこに所属するvのものといったように潮目が変わりましたね…。
時代の流れは速い……。
なのに僕たちはまだ、ゼロ年代の亡霊を追いかけている……。
これも2019年4月に書いた漫画で、更新のタイミングを失ったまま、ずっと失い続けてたんですけれども、今更新しないと永遠に更新できない気がしたので更新します。
2019年は物凄い数のvtuberが誕生して、vtuber戦国時代だったんですが、今はもう、企業とそこに所属するvのものといったように潮目が変わりましたね…。
時代の流れは速い……。
なのに僕たちはまだ、ゼロ年代の亡霊を追いかけている……。
いろいろなことがまあ、落ち着いて?少し時間が取れるようになったので、少しずつ調子を戻していこうと思う。とりあえず文章感を戻すために、手を止めずに30分くらいだらだらと文章を書いてみる。しゃべるみたいに。前はこういう風にいくらでも文章をかけたんだけれども今は何を書いていいのかあんまりわかんない。これ書いちゃダメなことだな、とかとこれかいて面白いのかなって思うことが多くて。
うちには今、ネコが4匹いる。
もともと4匹だったのが、2匹なくなって2匹増えた。
もともと、オシオ、ゴマ、イリ、マメの4匹がいて、オシオとマメが4年前と3年前に亡くなった。それからずっと二匹で暮らしていたのだけれども、ひょんなことで、小黒という白黒の猫をもらうことになった。それが今年の1月の話。
でも、ちょっと困ったことがあって、小黒がネコカリシウイルスを持っていることが分かり、大人猫にかかると致命的になることもあるということで、隔離することに。それで、6か月くらい隔離になって、やっと大人猫と会えることには巨猫になっていた。そして動く。動く。若い盛りなので、運動量が多い。大人猫と追いかけっこをしたがるのだけれども、大人猫はもう14歳と13歳なので、おじいちゃんとおばあちゃん。ちょっとそんな元気ない……。
で、たまたま、生まれて1か月くらいの猫の貰い手を探している人がいて、その猫をもらってくることに。命名小白。
で、今、足元でバタバタとその二匹は追っかけっこしている。一日中バタバタと走って楽しそうでよかったですね。よかった。
ネロ祭り。2017年復刻。その時にはもうFGOを始めていて、ただ、その頃は弊カルデア全然育ってなかったので、まったく勝てなかった。それが、今、戦力充実していて、結構らくちんに勝てたりする。ダイの大冒険で、ダイが二度目のバーン戦をしたときみたいな、あれ?こんな弱かったっけ?みたいな感覚。コツコツと石をためて、ガチャを回して、周回して素材をためてスキルのレベルをあげてきた甲斐があった。
ボックスガチャの方は、ちょっと時間がなくて20箱を目指す感じ。6章前半はガチャを回さないで石をためてる。後半にパーシヴァルが来ると信じて。
昨年、子供が大きくなったのと、コロナの影響で買いだめしようということになり、(我が家で)冷凍庫の需要が高まった末、冷凍専用の冷凍庫を買うことになった。最初のうちは余裕があったのだけれども、あっという間にパンパンになった。
収納の法則。収納物は収納の大きさギリギリを丁度超える分まで増える。
そんなこんなで、冷凍庫はパンパンなんだけど、その中で嫁のエビが占めてる割合が多い。消費量も早いけれども供給も早い。エビがローリングストックされている。きっと、死後はエビにひどい目にあわされる地獄に落ちると思う。
タブレットといっても疑似タブレットだけど。HPのenvy360シリーズ。背骨をグルって回すとタブレットみたいになるやつ。
ペンの書き心地とかはほかの液晶タブレットとかと比べてどうなのかはわからない。家電量販店の店頭でおいてあるipadとpencilとあんまり遜色ない感じがするので、たぶん問題ないんだと思う。
こういう変な感じにしたのは、ノートパソコン一台でタブレットとデスクトップパソコンと、全部の環境を整えようとしたから。実際どうしてるのかはまた今度書きます。
yoasobi とかヨルシカとか、ずっと真夜中でいいのに、とかは”わかる”んですけれども、『うっせえわ』はなんか”わからない”んですよ。ピンとこない。前者は、琴線にピコピコくるのに、後者はいまいちわからない。
あと、最近の曲では、この間も書いたんですけれども、はるまきごはんさんが好き。
www.youtube.com
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初音ミク歌唱バージョンもあるけれども、はるまきごはんさんが歌ってるバージョンのほうが好き。曲も作ってアニメも作って、歌って。すごい才能と努力だと思う。
歌が百合で友情でリリカルで好き。エモい。自分はエモいという感情がよくわからないんだけど、きっとエモいんだと思う。
この歌に出てくる二人のシリーズが本当に好き。
リリカルはわかる。
萌え、が流行ったとき、「萌えというのは”要素の複合”、”記号論”」というような言説が、東浩紀先生とか大塚英志あたりから(だったと思う)あったような気がしたんだけれども(例えばデジことか)、後世から当時の様子を振り返ると、どうもそうではなかったのではないか、というのはわかる。ただ、それが何だったのかはわからない。萌えというのは、もっと感覚的で、愛とか恋とかかわいいに似た形而上のものであり、また本能的なものだったと、そう思う。そして、それが自分には感覚として理解できなかった。
そして、エモいも、よくわからない。
萌え、よりもリリカルに近いというのは感覚にわかるけれども、(リリカルが分かるので、手探りでなんとなくの輪郭はわかる)(ただ、象を撫でてる感じなのは否めない)思うに、リリカルは動的でエモいというのは静的なもので、同じ感覚の受け止め方の感覚器が違うだけなんじゃないかと思う。思うだけで全くわからない。わからないものはわからないんだ……。
だいたい、これで3000文字30分。
またこういう感じで文章を書いていくつもりです。
はてな村はなくなったと思ってましたけど、これだけたくさんの人がはてな村と自分語りを書いていて、まだはてな村は現存してるんだな、と認識しました。自意識と自分語りが支配する村、それがはてな村。
サービスとしてのはてなブログは、確かにnoteとかほかの課金サービスに書き手をとられて右肩下がりの状態だと思う。
はてなIR資料より
https://ssl4.eir-parts.net/doc/3930/ir_material_for_fiscal_ym2/97963/00.pdf
グラフを見てもらうとわかる通り、はてなのブログサービスの売り上げは低下していっている。ブログという文化が衰退しているのもあるだろうけれども、はてなブログから勢いが失われているというのは、感覚だけでなく、こうして数字としても表れている。
phenomenon-2.hatenadiary.org
こちらの分析は的を得ていると思う。
と、同時に、はてなブログの衰退とはてな村の衰退は分けて考えないといけないと思う。noteに多くの書き手は移動したが、noteにはnote村といえるような内向きの共同体は見当たらないからだ。
(id:Phenomenon)さんは、『村』をコミケに例えられていたけれども、少し違うと思う。コミケはインフラであり、例えられるのは『はてなブログ』というサービスに対してだと思う。この場合、『村』に対するのは『ジャンル』と呼ばれるクラスタで、そしてそこには大抵、内向きの力学が働いている。学級会もある。
リアルに存在する村や共同体と違って、インターネットや形而上に存在する『村』『コミュニティ』を維持させるものはなにか?僕は、『集団幻覚』『共同幻想』を持っているかどうかだと思う。コミケの『ジャンル』で考えると、そこにいる人たちは特定のカップリングに原作には存在しない過去や関係性を幻視したりしている。twitterでも、『界隈』と呼ばれている集団は同じ世界観を共有している。2chの特定のスレ、○○民と呼ばれる人たちも、そのいた特有の文化と価値観の共有がある。
はてな村をはてな村とさせていたのは、その独特の価値観、『集団幻覚』『共同幻想』だったのだと思う。
www.du-soleil.com
www.tyoshiki.com
font-da.hatenablog.jp
inujin.hatenablog.com
amamako.hateblo.jp
www.du-soleil.com
今回のことに端を発して、多くの人がはてな村の思い出話をして、そしてそれに多くのブックマークがついてる。もうこの時点で、はてな村生きてますよね、としか言いようがないんですけれども、それはさておいて。
いろんな人が、はてな村がどういう場所だったかという思い出話をしている。それぞれの人の思うはてな村と、そしてはてな村的なモノの定義がそれぞれ異なっていて、非常に面白い。素敵。
で、自分が思う、はてな村の人たちが見ていた『集団幻覚』というのは、『文章を書くことによって、アイデンティティの確立ができて、そして、そのアイデンティティはその書き出した文章に宿る』というものだったのだと思う。自分は、今も、その幻覚を見ているし、人が書いた文章はその人自身だと思っているのだけれども、どうも世の中そうではないみたいだし、うまくはてな村を『上がった』人間は、文章をただの自分を表現するための道具だと思ってるように見える。noteで文章を書いて稼ぐ、という行為は、それがうまくいけばいくほど、自分語りから遠くなっていくだろう。
あと、もう一つの『集団幻覚』は、インターネットの可能性について。かつて集合知と呼ばれたもの。無名の多くの人が集まって知恵を出し合えば(いろんな意見をいろんな角度から言い合えば)素晴らしい知恵が生まれるのではないか、という幻想。
これに対しては、自分も、ああ、幻想だったな、という気持ちでいる。確かに議論がうまくいっていた時期もある。よしき (id:tyoshiki) さんが書いているように、
しかし実際には、はてな村が村として機能するためのインフラは、個人のボランティアによって支えられていた。
一時期はボランティアで村長役を務める人がいたりアーカイブを作る人がいた。
ニュースサイトが幅広く面白い話題をまとめてくれたおかげで、
議題の幅が「はてなブックマークをやってる人間の興味」に絞られず視野が極端に狭くなるのを防げていたのも大きかった。かとゆー家、sirout2、まなめ、hageXなどなど。書き手以上に彼らの存在が最も重要だったと思われる。
そういう人たちはみんな消え去った。
https://www.tyoshiki.com/entry/2021/07/04/105443
かつては、議論を整理する場があり、アーカイブを残す場があり、それによって、ぐるぐる回りながらもどこかで前に進んでいった。(さらに古い時代、2ch黎明時代の板ではもう少しそれがちゃんとしていたと聞く。議論には必ずソースが求められ、誰が言ったかではなく、何を言ったかが重視される言論空間があったと、村の古老から聞いたことがあります)そういうインフラがなくなってしまって、冒頭の漫画ではないけれども、同じような話題がたびたびぐるぐると同じように回る場所になってしまったように思う。
はてな村の話題を出して、これだけの人が反応するっていうことは、まだ、それだけ多くの人が、『インターネットの集合知』と『書くことによるアイデンティティの確立』を信じてる、または信じていたいって思っているのだと思う。(本当に諦めてしまっているのなら、語ったりせずにスルーして終わりだろう)
はてな村はなくなってしまった。場所としてのはてな村は、(はてなダイアリーがなくなって、はてなブログとブックマークの仕様がかわって、議論をまとめてくれる人がいなくなって、メインの書き手がnoteに移ってしまって)無くなってしまった。でも、共同幻想を持つ人間がいて、そこで文字を書くのなら、そこは、もう、はてな村だ。
たぶん、インターネットはもとのように戻らない。個人の果たす役割はどんどん減って、企業とかが人の意思を牽引するようになるだろうし、文章でバズる人、キャラクターもいるけれども、それはわかりやすいことをわかりやすく話す人、わかりにくいことをわかった気にさせるような人で、それに対する反論や修正はブロックされる世の中になっていく…というかまあ、なってるんですけれども。
個人のアイデンティティを文字にしてインターネットの海に放流することの危険性のほうが、利益を遥かに上回るようになってしまって、また、そんなことをしないでも、気軽に自己の肯定と存在証明が
できる世の中になってしまった。(それはtwitterなり、tiktokなり)(それは上の世代から見ると偽物の自己実現に見えるけれども、じゃあ、上の世代の自己実現ってそれ本物なんですかってなる)(自分たちの自己実現もさらに上の世代から見ると遊んでるようにしか見えないはずだ)
はてな村は、役目も終え、仕組みも機能しなくなり、『場所』としては解体されたというのは間違いないと思う。
でも、今回のことみたいに、はてな村(そしてそれよりももっと古いインターネット)にあった『集団幻覚』を見てる人間がいたら、そこがはてな村だし、それぞれがnoteに行こうが物理書籍を出そうが、どこに行ったってまるで呪いみたいにどこかにはてな村の残滓は残り続ける。
そして、その人が行った先で、誰かに影響を与えるようになれば、その与えらえた人にもはてな村の呪いはきっと移る。
『文章による自己実現』『集合知の夢』、なくなったと思ったそれを、でも、いまだにどこかで信じてる人たちがいる。
その人たちがいる限り、そこがはてな村だ。
ここにはてな村を建てよう。
今週のお題「一気読みした漫画」
ずっと更新を楽しみにしていたweb漫画、『パペラキュウ』が2020年9月全110話で完結しました。
本当は完結したときに、「読んで!」っていうのを書きたかったんですけど丁度メンタルが悪かったもので……。
とにかく、言いたいことは一つ。パペラキュウ読んでください!
1話から40話まではこちらのサイトで、また41話からはamazon kindleでの発売ですが、unlimitedに加入すれば無料で読めます。
これが、本当にすごい物語なので、ぜひたくさんの人に読んでほしくてね、読んでほしいんですよ。
パペラキュウは松永豊和さんが2011年8月から自らのホームページで毎月30ページほどの更新を続けて(総ページ数3000ページ)2020年9月についに完成した大河漫画です。
頭からハサミのついた手足の生える奇病、『パペラキュウ』をめぐる、罪と贖罪をテーマにした物語です。(だと自分は思ってる)
wikipediaの記事には『マモルとパペラキュウの少年サチオの奇妙な友情を軸にした長編SFミステリー』と紹介されていて、SFとか、ミステリが好きな人にも超おすすめです。
最初は、日常に紛れた異物についての話、いじめ、差別についてのお話として始まります(ウルトラマンの『怪獣使いと少年』のような)
しかし、話はどんどんと違う方向に向かっていきます。さながらジェットコースターのように、次々と物語は展開します。
国家的陰謀、警察の闇、第二次世界大戦時の秘密研究。そして、それと並行するように、サチオ少年の贖罪と、それを行うたびにどんどん罪が重なっていく運命の皮肉を描いています。
SF、ミステリとしても、とても面白いんですけれども、自分は、これを『罪と、贖罪と、そして許し』の物語なんですよ。
とにかく、読んでみてくださいとしか言えない。
よく、レビュー記事でネタバレにならないようにおすすめポイントを紹介してる人がいるけれども、あれ、すごいなあって思う。おすすめポイントを話すとそれはネタバレになる。とにかく、読んでください。そして、読み終わったら下の感想を読んで、そして感想をつぶやいてください、twitterとかで。
終盤、サチオが神化して、モネネのやけどの跡を直し、いろんな人を生き返らせていくけれども、マモルだけは結局助けられなかった。
この物語は、主要登場人物の主人公側のほとんどが、過去に犯してしまった罪や、自分の先祖の犯した罪に対して罪悪感を感じていて、その贖罪のために、サチオを助けたり、国家権力の悪事を暴こうとするけれども、神化したサチオによって、贖罪を行う前に”許されて”しまう。モネネの傷は治されて、国家権力の悪事の暴露については「もういいよ」と言われてしまう。(ちなみにこの国家権力の悪事、国に恨みでもあるのかってレベルで執拗に書かれています)(でも実際に国のしたことを知ってると大体同じレベルのことがあったってわかるんだよな……)
ただ、マモルだけが、サチオの奇跡に間に合わず(というか奇跡の力切れで)生き返ることができなかった。サチオも、マモルを助けられずに死んでしまった。
サチオとマモルとほかの人間の違いは、二人が(本人たちが罪だと思っていることの)罪を償っているということだ。
サチオは、パペラキュウのせいで人生がくるった人間の数だけ人を助けて(生き返らせて)マモルは自分のせいで死んでしまったサチオの父のために、何人も殺してしまう。罰を受けて死ぬというならマモルは罰を受けるだけのことをしている。でも、ほかの人間が許されたみたいに許されてもいいはずだ。
思うに、これは信仰の話で、神は助ける人間と助けない人間を区別しないという話だと思う。区別せず、籤のようにたまたま選ばれた人間だけが助かって、そうでなかった人間は助からない。それでも神を信仰するかという話だと思う。
毎日何か、なんでもいいので文章を書いていこうと思っていた。
矢先にこんな感じになってしまって本当に書きにくい。
何かに導かれるようにしてはてな同窓会が始まってしまった。
昔も何回か村祭りはあったけれども、村祭りというよりも、同窓会。いや、同窓会というよりは、法事で親戚一同が集まって、昔はああだった、あそこのところの子供はもうこんなに大きくなった、大学へ行ったらしい、結婚して娘ができたらしい、今どこどこで働いているらしい、っていう話をしているような感じ。
みんな年を取って、それぞれの人生があって、たぶん昔はある程度同じように同じ時間を過ごしていたのだろうけれども、それぞれの生活の中で、色々な経験を積んでいく中で、当時の過ごした経験の意味も変わってきて、当時のはてな村での生活の意味もそれぞれの人で別のものになっているのだろうと思う。
村の話がまだ、続いているので、ちょっと思ったことを書く。
かつて、インターネットがパソコン通信だった時代、そしてインターネット黎明時代。インターネットというのがアジールであった時代があったと思う。世間の”普通”や”常識”や”ルール”から離れた自由な場所として。
インターネットが広がり、一般社会になっていく中でそこはどうにも小さくなっていったと思う。テキストサイト、ニコニコ動画、はてな村。
アジールというのはちょっと言いすぎなので、モラトリアムと言い換えてもいい。ちゃんとした社会と、それ以前の場所。実社会へ出るまでの準備運動をする場所。練習場所。
モラトリアムとかアジール、そういうふう名前で例えて呼ばれる、グレーゾーンで既存の法や常識やルールが及ばず、なんかそういう存在。そういう存在は確かにあった。
はてな村が消えた、屋根まで飛んで壊れて消えた。まあ、一つのコミュニティーがなくなってしまうのはよくあることなので、それ自身は問題ではない。けれども、はてな以外の、そういうモラトリアム空間や時間というのもあまりないような気がする。時代を経るごとに減っていった。それはインターネットにも、リアル社会にも。
例えば、性にまつわる話。18歳になるまで、性にまつわることは見ることも実行することもタブーとされて、18歳になった途端に自己決定でやりなさいと言われる。建前は昔からそうだったのだけれども、昔はグレーゾーンみたいなのが結構あった。今は、なんていうか、グレーゾーンが真っ黒になってしまって、”許されざる”になってしまってる感じがある。他にも子供から大人、学生から社会人になる間の曖昧なモラトリアム期間というのは、どんどん少なくなってしまっているように感じる。80年代は土管のあった空き地だったものが90年代には公園になり、その公園も今は遊具が撤去されボール遊びが禁止されているように。
そういうのをなんか自分は、生きづらいな、って思うし、息がしにくい、閉塞してるな、と思う。
『議論が深まったろう』で結局何も変わらないことが多いインターネットの議論の中で、数少ないよかったことのひとつに『戦うより逃げろ』というのがある。
そして、今は、インターネットでも、リアル世界でも、いくらでも探せば、ほかのコミュニティを見つけることができる。趣味でも、なんでも。(みつからない場合もたくさんあるけれども)
ただ、今、その逃げた先も、既存の法と常識の世界で、なんていうか、社会に適応を求められるしんどさっていうのがずっとついて回ってる感じがする。とりあえずコミュニケーションをとらないとどうにもならないところが、ある。
それで今の若い人たちがかわいそうとかそういうこともなくて、まあ、それなりに適応していくのだろうと思う。自分たちよりも上の世代が、学生寮で鍋をつつきながら革命の話をしたみたいに、自由な”社会と隔絶した空間と時間”を持っていたみたいに、時代や社会が先に進み、健康で文化的になるにつれてなくなっていくものなんだろうと思う。いいとか悪いとかではなくてそういうものなんだろうと思う。ちょっと寂しいけれども。