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是非読んでほしい『現代詩人探偵』(紅玉いづき)

紅玉いづき先生の3月11日に出た新刊、『現代詩人探偵』
まずはじめに言っておきますけど、これすごい面白いです。
紅玉さんが天才すぎて悔しい。読み始めの最初はちょっと辛いけれども、読み進めて行くうちにどんどん面白くなる。そういう小説です。一番面白くなるのが、一回読み終わってからの二周目なので、是非そこまで読んでほしい。
ただ、とっかかりの部分はとても読みにくい。それは、一人称の小説で、そしてその一人称が読みやすさよりも主人公の感情トレースを優先しているためどうしても鈍い霧の中のような文章になる。

テキストサイト殺人事件

読み始めた最初の感想。「あ、これ、テキストサイト殺人事件だ!」
作品のあらすじは、公式サイトにこう書いてあります。

とある地方都市で、「将来的に、詩を書いて生きていきたい人」が参加条件のSNSコミュニティ、『現代詩人卵の会』のオフ会が開かれた。互いの詩の合評を行い、現代詩について存分に語り合った九人の参加者は、別れ際に約束を交わした。「詩を書いて生きる志をもって、それぞれが創作に励み、十年後に詩人として再会しよう」と。
しかし約束の日、集まったのは五人。ほぼ半数が自殺などの不審死を遂げていた。なぜ彼らは死ななければならなかったのか。細々と創作を続けながらも、詩を書いて生きていくことに疑問を抱き始めていた僕は、彼らの死にまつわる事情を探り始めるが……。

生きることと詩作の両立に悩む孤独な探偵が、創作に取り憑かれた人々の生きた軌跡を辿り、見た光景とは? 気鋭の著者が描く初のミステリ長編。

http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488017903

これね、“現代詩人”っていうのをテキストサイトっていうのに置き換えると、まんま(というわけではないんですが)あのころと、そして今の自分自身に当てはまっていくんですよ。インターネットという今まで誰も言ったことのない場所、フロンティアがあって、そこで出会って何かして、そして何かになれるような気がしていた。誰も足を踏み入れていない雪の日の次の朝の学校の校庭のようなそんな空間で、ここに自分たちの足跡を残そうとしていた。インターネットが始まって数年がたって、最初はITの技術を持っている人が、そして次に絵を描いたり音楽を作ったりすることの出来る人がでてきて、そこに、何もできないけれども文章をただ書くことが出来る人たちが現れて、そして集まって、その小さなうねりの中で、何か大きなことが始まるんじゃないかって錯覚していた。
結局それから、もう、10年、10年以上が経って、そして、その、テキストサイトやインターネットに託していたものが幻想だって分かった。真新しい雪はとっくに融けて、当時の足跡もどこかに消えてなくなってしまった。ほとんどの人は、もうみんなどこかに行ってしまって、それぞれの日常を生きている。結局何かになりたいって思いながら、何ものにもなれないで。そして、10年もたてばやっぱり死んでしまった人もいて。
現代詩人探偵の冒頭の1章を読んで、そういう事を思い出して、そして、思いを馳せてしまった。あのころの人たちはいったい今何をしているんだろうって。(id:p_shirokuma)氏は相変わらずもふもふしています。あと、(id:kanose)村長は、10年前はもっとインターネットのガジェットのすごい人ってイメージでした。それ以外の人たちとかそういうのですね。はい。
ただ、やっぱり、あのころのシロクマ先生も村長も、もっとインターネットと世界の可能性に対してキラキラしていたような気がします。気がするだけかな?あれ?ちょっと自信なくなってきた…?

そして何者にもなれなかった人たち

この、現代詩人探偵のSNSコミュニティ、『現代詩人卵の会』も、そういうテキストサイトのような、キラキラした未来を見て、そして結局何ものにもなれなかった人たちです。そして、10年後に半数が死んでいる。何かになろうとして、そして、何ものにもなれなかった人たちは、結局、何ものにもなれないナニカとして生きていくのか、全く別の生活者として生きていくのか、それか、死ぬしかないのか。
生きること自身に意味が見いだせず、また、何者にもなれない人間はいったいどこに行けばいいんだろう。うまく生活者になれる人は良いけれども、生活自身に価値を見いだせない人間はいったいどうしたらしいのだろう。死ぬしかないのか。それ以外の人間からみたら、本当になんでそんな意味のないことで死ぬのという死にも本人にとっては意味がある。何ものにもなれなかった果てとして“何ものにもなれないナニカ”というのは、本当に恐ろしいものだと、僕は知っている。
この物語の主人公“探偵くん”(これは彼が昔に書いた詩にちなんでつけられたあだ名なんですけど)は、まさに、その“何ものにもなれないナニカ”スレスレの生活をしている。彼の職業はコンビニの深夜シフトだ。そして実家暮らし。
コンビニバイトの朝は早い。というか前日の夜からだ。淡々と品出しをして、深夜客の相手をして、割り箸をつけるか聞き、聞いたことを責められ、淡々と品出しをする。湿度が高い身体の中から冷えていくような夜を何日も何カ月もひとりで越えていくと、自分がいったいなんのか分からなくなっていく。そういう毎日を繰り返している。時々詩を書き詩の雑誌に投稿するが、一切評価されない。そしてまた夜が来てコンビニのバイトが始まる。落胆も、希望も、絶望も、恐怖も、真夜中の灰色の霧の中に融けていく。そしてだんだんすべてがあいまいになって、気が付かないうちに、“何ものにもなれないナニカ”。
そういう主人公で好感度が低いし、そういう主人公の一人称と主観の行動でお話が進んでいきます。そこらへんちょっときつい。きついね。

これ、ちゃんとしたミステリですけど、ミステリじゃありません

そして主人公の“探偵くん”は『現代詩人卵の会』の同窓会で死んだ4人の死を追いかけることになるんです。ミステリの文庫から出ていて、また、

生きることと詩作の両立に悩む孤独な探偵が、創作に取り憑かれた人々の生きた軌跡を辿り、見た光景とは? 気鋭の著者が描く初のミステリ長編。”

というあおり文句のあるように、この謎を解くことがミステリ、ミステリ要素なんですけれども、でも、これ、ミステリなんですけれどもミステリじゃないんです。

神秘の零落、神秘の再現。詩と死、呪術と叙述。

探偵小説の探偵の作業とは、謎、という神秘を解体する作業。密室殺人であったり不可能犯罪であったり、怪異や異常者によると思われる殺人という謎、滅多にありえないおよそ唯一無二の事象を分析分解して、ありふれた殺人事件に解体する作業です。です、が。
現代詩人探偵の“探偵くん”は全く逆の仕事をしている。
ありふれた“自殺”という事象を、それぞれの人の意味のある、または無意味という意味をもつ物語、つまり神秘として語りなおす仕事をしている。ありふれた人のありふれた人生を、しかしその人唯一の物語として語り直し、神秘を再現する作業。
だから、この“ミステリ”は、物語という呪文によって世界を再構築するということでは、ミステリだけれども、でも、ミステリとして読むと、ちょっと、アレ?って思われるかもしれない。得られるのは、謎が解体される快感ではないからです。
紅玉さんの文章自身も、他の作品もそうだけれども、そんな力を持ってる気がします。“ミミズクと夜の王”の時の主人公もそうですけれども、世界を語りなおすことによって、一回性の神秘を再現するような、そういう不思議な感じの物語を描く人だと思っていて。
自分にとって、文章で物事や物語を説明するというのは、そこにある隠された意味や世界を分解して、再現性のある物に変換、つまり零落するということなのだけれども、紅玉さんの文章は、なんというか、そういうのとは違う感じがする。うまく言えないけれども。紅玉さんにとって文章というのは世界を切り分けたり再現するためのツールではなく、その一文字一文字が全く新しい世界なんだろうなあ、って、読みながらいつも思ってます。こう思うのは自分だけかもしれませんけれども。

2周目の再読がヤバい。まったく違う物語になる

という感じで、ヤバいんですけれども、一回読み終わった後にもう一度読み直すと、全く別の物語になっています。これは本当にすごい。今までの紅玉さんには無かったですこういう事って。本当にすごかった。これについては多くは話せないので是非一度、本当に読んでみてください。




あと、BLと百合もあるよ!

あと、ですね、“地獄の百合”と“地獄のBL”がすごいあるのでね、そこらへんがね、好きな人はね、是非読んだ方がいいですよ。只々地獄ですよ。



余談:情報生命体としてのブロガー、テキストサイト管理人

ちょっと余談になるけれども、作品の中に出てくる一人の盗作についての考え方について、ちょっと感じ入ったところがある。
詩はいったいどこへ行くのだろうということはその人は話していて。盗作ということに対して、非常に寛容な意見をもっていた。

詩というものは数学の公式のようなもの。
洗練され、収斂し、最終的には同じものになるもの。

そういう事を言っていた。
物語、言葉というものは、いつか、それを生み出した人間の肉体を離れて、まるでただ生きているもののように動くのかもしれない。
ちょっとそういうことを考えた。