orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

配役に関する当事者性に関して

12月末から調子を崩してて、どうにも色々と調子が出ない。作業効率が色々と下がっているし、そもそも作業に取り掛かるまでに随分と時間がかかってしまう。鬱ではない。辛い気持ちはない。ただただ、うまく集中と作業開始ができないし、何かを取り掛かるのに手が出るのが遅い。やる気が出ない。というやつだろう。色々なことを後回しにしてしまう。その間なにしてるかというと、Twitterをだらだらと見たりしている。今まではあんまりTwitterをだらだらとみることってあんまりなかったのだけれども(なんかしんどい時はそういうのもしんどかったで)年明けてからはなんだかそういうのをだらだらみるのが増えてしまった。いつの間にか時間が過ぎていて体力と集中力が減っていってる。Twitterをよく見るようになったのは、花譜さんのライブ関係で見て回ったりいいねをつけたりするツイートの傾向が変わり、その結果アルゴリズムでお勧めに出てくるツイート群が変化したからかもしれない。能動的に行動するとそれに合わせて受け手が気になるようなツイートを自動で送り続けてくる。今まではそもそもTwitter活動をしていなかったので、レスポンスも的外れだったのが、使うようになるとそれに合わせてくる。これがアルゴリズムか。自分のような人間にもちゃんと合わせてくるのだなというのが、恐ろしくもあり頼もしくもある。

というわけで、ちょっと、勢いをつけるために文章を書いている。準備運動のように。

役者の配役はどこまで当事者性を重視しないとならないのか

ゴールデンカムイの実写について、それに伴って思うことなど。
アイヌという設定のキャラクターについての配役で、和人ではなく、アイヌの人を配役すべき。という議論がある。これは、異性愛者の俳優がセクシュアルマイノリティのLGBTQの役柄を演じるべきかどうかについての議論の延長線上にある話で、(彫の深いギリシャ人の役はギリシャ人が演じるべき問題かもしれないが、それに関してそういう話をしている人は観測した限りいなかった)単純な答えは出ないし、 答えを出すべきではない(考え続けて問い続けることに意味があり、結論を出してしまえばそれがどういう結論であれ、その問題に対する思考停止であり、思考停止は、差別や人権問題の解決に対しての敗北である)ので、こういうことが起きるたびにみな喧々囂々とするのがよいと思うのだけれども、それについて、一応今の自分の考え方を書いておく。
『正しさ』というのならば『当事者性を鑑みてアイヌ役のキャラクターはアイヌが演じるべき』というのは正しく聞こえる。キャラクターの内面やバックグラウンドをよくわかっているのは当事者だから、というのは、正しい。でも、それは、人間の想像力を舐めてると思う。創作の上では、人は誰にだってなれるし何をすることだってできる。取材、取材、勉強、推敲、対話、そういうことを繰り返して、役者はその役柄を理解するし、その役者の演技を通じて、観客はそのキャラクターを理解する。(もちろんそこの過程が雑だと結果も雑なことにしかならなかったりするが)当事者でなくても、その状況や環境にいる人に寄り添い理解することはできる。『当事者性』がない人間にはそれを演じることは不可能、相応しくない、というのは、結局当事者以外は当事者のことを理解することはできない、他人のことを理解したり寄り添ったりするということはできない、ということを言っているのと同じだと思う。そりゃあ100%相互理解をすることは不可能だけれども、それでも、ある程度分かり合えるし分かり合えるように努力していくべきだと思う。それを可能にするのが物語の力だし、創作だ。なので、当事者性、を錦の御旗にするのは、とても危険だと思う。
あと、セクシャルマイノリティの役はセクシャルマイノリティが演じた場合に関していえば、逆に当事者性が損なわれてしまうことがあると思う。セクシャルマイノリティを告白して活動を行っている役者は、『カミングアウトを乗り越えた』サバイバーであり、それをしても生きて行けるだけの『自信』や『覚悟』のある人間だ。でも、世の中にはカミングアウトできないで、ずっと貝のように押し黙ったまま生きている人間もいる。そして、差別者側に立って、セクシャルマイノリティに石を投げつけることによってなんとか日常をやり過ごしている人だっている。そういう人の闇というものに対して、カミングアウトしたセクシャルマイノリティは当事者性を持たない。「大体わかるよ、想像できる」というかもしれない。でも、それは、異性愛者だってそうだ。想像できる。でも、実際のところはわからない。隣り合っていても、その間にはとても分厚い壁がある。それを、同じセクシャルマイノリティの設定だから、当事者!でくくってしまうのは思考停止だ。
役を演じたり、物語を作ったりするのに必要なのは、分からないから考える、聞く、出会う話す。その上で、「ああ、これはどうしても当事者に演じてもらわないといけない」というのならそうすればいいし、そうでないなら、一番ふさわしい人を選べばいい。
雑な「一般的なポリティカルコネクトレスでこうなっているからこうします」は本当に害悪でしかない。多分それはポリティカルコレクトネス、ではない。正しさというものは教科書に書いてあるものではない、政府や社会や企業によって押し付けられるものでもない、常に考えて問い続けていく中にしか、正義というものはないのだと思う。(だから、正義に対する一番の悪は『思考停止』だと思っている。『思考停止の正義』ほど恐ろしいものはない)



駄目だ駄目だ(体のこと/窓ぎわのトットちゃん/花譜、怪歌)

12月の末からメンタルが悪くって、で、最近メンタル悪いのは治ったのだけれども、作業をやるための回路が死んでしまっていて、どうやって物語を作ったrい文章を書いたり絵を描いたりしていたのか思い出せなくなった。後、だるい。休みすぎてダルダル休み癖がついてしまった。何かをやるのにも「さあやるぞ!」となるまでに時間がかかってしまう。これはよくない。よくないので、まず、一番簡単な文章勘から治そうと思ってだらだらと思いつくままに文章を書いていこうと思います。日常のよしなしごと。

体のこと

ちょっと不調が続いている。
一昨年の12月に椎間板嚢胞を発症した。椎間板嚢胞というのは椎間板に嚢胞ができる病気です。椎間板ヘルニアと症状が似ていて、とにかく足が痛くてたまらなくなる。治療方法も椎間板ヘルニアと同じで、自然治癒するのを痛み駄目を飲みながら待つしかない。待った。1年待って、去年の12月に一応嚢胞も痛みもなくなって、治った。
と思ってたら、1月になってからちょくちょく痛むようになってきた。なんだろう。辛いです。そこまで痛くなくって我慢できる痛みだけれども、とにかく、不快なのが続く。
あと、腎臓が悪い。
健康診断で腎臓を検査も受けたのだけれども、腎臓の数値が無茶苦茶悪くて、腎不全一歩手前みたいな数字が出た。
そして総合病院に行って検査を受けた。尿に糖もたんぱくも出てなくて、夜に尿に起きることもない、エコーも取ったけれども腎臓に異常はない。ただ、数値だけが無茶苦茶悪くて、3ヵ月後にまた様子を観ましょうということになった。メンタルの方で、腎臓にあんまりよくない薬を飲んでいるのでそれが原因の薬剤性の腎炎ではないでしょうか。ということ。今度メンタルクリニックに行ったときに相談してその薬を減らせないかどうか相談してみる予定。ただ、10年以上飲んでいる薬で、それで何とか人間生活を送れているので、他の薬に変えたときにうまくやっていけるか心配。

映画「窓ぎわのトットちゃん」

観に行った。とてもよかった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

ここに、自分の感じたことの50%位が言語化されていたので、もう感想を書かないでもいいか…と思っていたのだけれども、少しかく。
発達障害の話、戦争の話、そういう風にこの映画は分析することができるし、そのように作られてもいる。でも、そういうのを一回脇に置いて、この映画の普遍的なテーマについて考えてみる。そういうのを除いても、この映画はとても素晴らしいものだ。
これは、「子供時代の終わり」の話で、「子供の時に見えていた世界が見えなくなるまでの話(そして大人の見てる世界を見るようになる話)」だ。

『アクアリウム』(須藤真澄/作)という漫画がある。

これは自分の人生のなかのとても大切な本で、もし興味があるのなら何とかして手に入れて読んで欲しいくらいの本です。
この漫画の中の主人公の牛島杢子は他の全ての子供がそうであるように、水の中の世界(あの世、幽世、常世、魂の世界と呼ばれているようなそういうもう一つの世界、人が来て帰っていく世界)を見ることができる。でも、殆どすべての子供はその世界を大人になっていくしたがって見えなくなっていく。(それをこの漫画では『目が固まる』と表現している)。そして、その世界が見えていたことも忘れてしまう。(主人公の牛島杢子は変な風に目が固まってその水の中の世界が大きくなっても見えるままなのだけれども(それでもゆっくりと見えなくなっていく))
『窓ぎわのトットちゃん』を見たとき、自分はこの『アクアリウム』と「目が固まる」ということを思い出した。子供だけが見ることが、感じることができる世界。肉体のリズムとその中にあふれてる命。
「九つまでは神のうち」、という言葉がある。子供が死に安かった時代、9つまでは人間ではないので、死んでも、また、元の世界に帰っていくだけで(だからそんなに悲しいことではないよ)という言葉なのだけれども、そういう言葉も思い出した。子供は死にやすくて、だから、死(幽世)ととても近い存在なのだ。
泰明ちゃんのお葬式の時、トットちゃんが「大きくなったらまた会えるよね、その時(足)直ってるといいね」ていうシーンがある。この時までは、死、というものが、子供たちにとって絶対境界線ではなく、行き来できる場所であるということを示している。そして、その直後、トットちゃんは、その境界が越えたら戻ることができないものだということを悟り、そして、今まで見えなかった大人の世界(境界のこちら側)の世界をはっきりと見ることになる。(目が固まる)
そういう、子ども時代の終わり、「目が固まる」までの物語だと、僕はこの映画を見たときに思った。
最後、チンドン屋さんの幻影を電車から見たときに、トットちゃんは、窓の外側に行かずに、扉を閉める。子供時代の終わり、自分より小さい保護者としての自覚をもって生きてくという、そういうことを表している。
泰明ちゃんのシーンの後、お父さんがいなくなって飼っていた犬もいなくなったのだが、そのシーンはあっけなく過ぎてしまう。もう、トットちゃんにとって、世界は固く可塑性のないものとして認識されてしまっているからだ。
いちいち絵が素晴らしく、歴史に残る映画だと思った。
戦争の話も特に否定的に書いてないんですよね、あの映画。ただ、取り巻く世界の変化として描いている
指の間から水がこぼれていくような、櫛の歯が抜けていくような、世界を作っているものがボロボロと溢れていく(そして世界とはそういうものだ)として描かれている。

花譜さんのライブに行ってきた。1月14日、代々木決戦

本当に良かった。
でも、これ、本当にいいの?ライブってこんなので?と思った。
自分はライブに行ったことがほとんどなくて、人生で花譜さんのライブにしか行ったことがないので、他のライブとの比較はできないのだけれども、ライブってただただ、楽しくなるものではないのかな?聞いてるライブとはそういうものなのだけども……。
花譜さんのライブは、花譜さんと観測者(花譜さんのファンのことをこういう言い方をします)の真剣勝負というか、お互いがお互いの覚悟を試されるというか、情緒を無茶苦茶にしていくというか、花譜さんという少女の人生自身をすごい圧力で見せつけてきて、そして、それに対して、観測者の人生自身を問いかけてくる、そういう風なライブでした。これ、普通なの?
花譜さんのライブは、いつも、花譜さんの成長への覚悟のようなものをいつも見せつけられる。それに対していつも思うのは

「花譜ーっ!俺を置いていくなーっ!ひとりで大人になるなーっ!」

いえ、自分の半分よりも年下の女の子なんですが、成長への覚悟とか決意とか、そういうのものを見せつけられるとすごいショックを受けますね。こんなに何もできずに自分はなんで大人になってしまったんだろう、と、強く思わされます。そして花譜さんが頑張っているから、自分も、自分自身の人生に対して真剣に生きよう、頑張ろうって思わされます。花譜さんはすごい。みんなも花譜さんの曲を聴いてください。


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とりあえず今日はこれくらいで。大体40分くらいで3000文字。

ニュータウンには死がない。

だから生もない。
命の輝きがない。

人が長年住みついた町には、『見えない何か』がある。
それは、村の儀式やお祭りであったり、川の後であったり、交通事故の後であったり、そういういろいろな出来事が津軽塗やカフスボタンのような多層構造になっていて、普段は表に出ていないそれが断面として現れたとき、色々な模様を作る。

自分はニュータウンの生まれ育ちで、それにさらに引っ越し組なので、地元というものがない。地霊というものを持たない。地元の友人と呼べるようなものもいない。

命の希薄さのようなものを自分から感じるときがある。多い。

そういう死生観は、生まれとか育ちに結構関係しているのだと思うし、自分のこの、乾いた感じの死がうすら平べったく周りにまとわりついてくるような感じは、そんなニュータウン出身者独特のものなのではないか、と思うことがある。

地震と、死と。

すこし気持ちが参っているのかもしれない。自分がぬるい水の中に沈んでいるような感覚がある。
1月1日に起きた能登半島地震、その翌日にニュースで流れてきた燃えさかる輪島の商店街の様子をみて、もう20年以上昔の阪神大震災のことを思い出した。あの時も、火事が収まらずにずっと燃え続けていた。あの時は自分は当事者だった。神戸ではないが阪神間に住んでいて、それなりの被害にはあった。復旧には、被害にあった場所以外に、その被害にあった人の人それぞれの事情で日常に戻るまでの時間に差があり、そして、いまだにまだ阪神大震災の震災のさなかにいるひともきっといるのだろう。今までの日常は戻ってこないけれども、できるだけ多くの人が新しい日常に返ることができるようにと祈る。祈る。
日常をなくした人は日本の石川県の人たちだけではなくて、いまだに戦争の続くウクライナや、イスラエルによるジェノサイドの続いているガザ、世界中のあらゆる場所で日常は失われていく。それを自分はどこまで自分のこととして受け止めればいいのだろうと思う。結局は他人だ。他人のことだけれども、それを自分のことのように心を痛めたり、想像力を働かせることは人間の力だと思う。でも、それにも限界があるし、それをどこまですべきなのかということ思う。
映画、窓ぎわのトットちゃんを見てきた。今の、自分が感じている命が損なわれていく状態に対してリンクするところが多くあったからだろうか、かなり、心に響くものがあった。なんでもないシーンで何回も泣いた。あらゆるものは損なわれていき、いつかは消えてなくなってしまう。じゃあ、最初からない方がいいのかというとそれは違うと思う。
半出生主義的っていうのがある。これも色々誤解される主義だけれどどもまあ端的に言うと、生きるのは辛いので生まれてくるのを辞めましょうっていうことで、たぶん、これは、良くない。なんか正しいけれども、そういう正論をいってそれが何か意味があるのか?って思う。
うん、正論だし正しい。
生きるのは辛いし悲しいし、人生は、良いことと悪いことを積分したら悪いことの方がはるかに多いだろう。だから、じゃあなんで生きてるのか、生きて行かないとならないのか、命に意味があるのかっていうことをちゃんと理論的に言葉で考えると生きてることに意味はないし、死んだ方が楽だし、命に意味はないってことになる。
でも、生きている側にいる限り、生き物は生きているので、意味がなくてもここにいるんだと思う。