orangestarの雑記

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舞台シーラカンスアピアランス見てきました(9/29 14:00~)

stage.corich.jp



舞台シーラカンスアピアランス見てきました!音楽とダンスと”ビートに合わせたセリフ”の凄く贅沢な舞台でこれ5000円で見せちゃダメだろな舞台でした…。そんな演出と照明の絶え間ない奔流で脳がグラグラと揺さぶられました、すごかった素晴らしかったです。

非常にクオリティの高い舞台でした。役者の方々の演技、歌、ダンス、どれもレベルが高く、それだけでも十分に舞台に心を引っ張られるのですが、独特の演出、それを十二分に生かす脚本によって、ちょっと他で見ることのできないような唯一無二な舞台でした。

一言でいうと麻薬更生施設でのグループセラピーのお話で(更生施設の描写はリアルというより大分ファンタジーより)その中での入所者がそれぞれのなんで薬物に嵌ったのかの来歴を語ったり施設での友情によって立ち直ったり立ち直れなかったりの話と主人公の隠された過去の話が並行で語られる話です。構造でいうと自分語りが延々と繰り返される形になるので『普通にすると』退屈な構成になりそうなところが逆に歌と踊りとビートワード(ビートに合わせてセリフを言う演出をいうそうです)によって非常に心地よく聞こえました。この心地よさのためにあえてこの脚本構成にしたのだろうと勝手に想像しています。演出脚本含めて全てが非常にコントロールされせている舞台でした。(実は初演を見ていたのですがそれと比べて脚本が随分と単純化されているような気がしました)

歌とダンスが本当に素晴らしかった!目の前で演じられるショーは物凄い圧力でした。それだけで圧倒されて脳をぐらりと揺さぶられて物語の中に持っていかれる。役者のみなさんが本当に歌もダンスもうまくてこの舞台を見れる人数がこんなに少ないなんてもったいない!(多分こういうことを書くのって失礼なのだと思うのですけれども)と思いました。

本当に素晴らしかったです。役者の皆様、照明の方、音効の方、脚本演出の方、そして、この公演にかかわった方へ。本当にありがとうございます。まだ、公演は続きますが、この舞台を一人でも多くの方が観劇されますように。



40代、花譜さんに出会って人生が変わった

fujipon.hatenablog.com

緩く募集、ということなので、自分の場合を書いていこうと思います。自分の場合、去年まで悶々としていたのですが、今年の1月ごろ、花譜さんというアーティストと出会い、色々と自分の中身の整理がつくようになりました。中年の危機といったような状態だったのが、ある程度解消されたような気がします。ただ、実際の中年の危機の本番はこれから来るのかも知れないですけれども。

花譜さんというのはvsingerです。vsingaerというのはvtuberの歌い手で、vtuberというのはバーチャルなポリゴンの外側を被った生身の人間です。そう、vtuberというのは生身の人間なのです!

花譜さんはそんなvsingerで、にほんのどこかにいる18さい。14歳の時に見いだされて、今年で4周年目を迎えます。先の8月には日本武道館でワンマンライブもありました。僕も行きました。人生初のコンサート体験でした。素晴らしかった。


www.youtube.com

こちら、そのライブの様子です、歌声が素敵です。カンザキイオリさんの歌詞と曲も素敵です。わかる人にはわかると思うのですが、この曲を聴くと自分のなかのまだ10代だったころの敏感な部分が呼び起されて、何もしてないのに涙が出るなどの症状が引き起こされます。最近、花譜さんに嵌った知人が同じような症状にかかっていて、指さして笑っています。

人生で初めてのライブとして花譜さんのライブに行った件

そして、今年の8月、その花譜さんのライブに行きました。先にも書いた通り、日本武道館でした。初めてのライブでしたが、花譜さんの主なファン層は10代~20代。そういう中に行くなんて…、と逡巡していたのですが、そういう自分を嫁が背中を押してくれました。いい嫁です。ありがとう。そしてライブに行ったのですが、本当に素晴らしかった。人生初の体験でした。

そうはいっても自分はやっぱり魔法にかかりにくい人間なので、おそらく本当にライブを楽しめる人ほど楽しめては無いのですが、作り手や観測者(花譜さんのファンのことをこう言うのです)が頑張って魔法を作ろうとしてるのを感じていたら自分も魔法を使えるようになりました。
構成もすごく良かったです。
始めてライブに行って思ったのは、スクリーンで見るのと違って、そこに生身の肉体があり、そして其れから伝わる圧力というものが凄く重要なのだと思いました。やはり生身の人間がそこにいるというのは強い。
スクリーンに映された絵、だというのは頭ではわかっているのに、でも、確かにいるんですよ。そこに。

演出も、【花譜という物語】を体験してもらおうという方向で作り込まれていて【物語】を本当に重視してました。14歳でデビューして、その年齢年齢で歌われた曲。様々な曲の中で繰り返されるフレーズ。でも、時間や環境が変わることによって、その言葉の意味も変わっていって、積み重ねられた時間の厚さが、そのまま存在感の厚さになって。本当に素晴らしかったです。
すごく楽しかったし、そして、自分も本当に頑張ろうって思えた。

コンサートの後、人をコンテンツにすることについても脳の別レイヤーで考えてました。バーチャルシンガーなので別の肉体があって、キャラクターは本体に依存するけれども中の人と『花譜』は別存在なわけですよ。それについて、ちょっと、凄く、反省するところがあって。そういう人をコンテンツにする暴力性について。そういえば801ちゃんと構造は同じだなと……
もちろん、規模とか、才能とか、そういうのは比べ物にならないのですけれども。人の一部を切り取ってキャラクターとしてパッケージしてしまうことの乱暴さについて考えたりしてました。
そして、中の人がそのパッケージに耐えられるのかという問題もそこにはあって、そういう意味で花譜さん(の中の人)も怪物なのだろうなとも思いました。どこにでもいる女の子がその内側に怪物を飼っているというのも花譜さんの物語なんです。

コンサートの終盤で「生まれ変わらなくても会いにいくよ、十年後、20年後の君へ」というようなセリフがあり(うろ覚え)それを聞いたとき、恐怖したんです。その時はわからなかったんですけど思い返すとあれは恐怖という感情でした。人は時間を経れば、本人が望んでいても望んでいなくても、良いようにも悪いようにも致命的な変質をしてしまうことがあり、そしてそれは不可逆で、その前後で全くの別人になってしまうことがあって。でも、そういう変質を含めて『花譜』と、その観測者を定義する、という宣言のような気がしました。

自分も、まだまだ変わるし、変われるし、未完成で未観測な存在なんだって、そう思えたんですよ。本当に。(まあ、自分もずっとorangestar(未完成)を名乗っているのですれども)

で、中年の危機の話。

中年の危機。花譜さんに出会う前の自分は確かに中年の危機の状態にあったと思います。今でも、色々と焦燥感や無力感はありますが、でも、あの当時持っていたような虚無感はだいぶ薄れたと思います。

一般論としていうならば、誰かを好きになるということ、そしてそれを追いかけるということ。例えばアイドルに嵌るとか役者に嵌るとか、架空の存在でも誰かを好きになりそして、それに対してアクティブになる、ということである程度中年の危機から離脱できるのでは(というかそれどころではなくなるのでは)と思ったりしました。年甲斐もなくアイドル(vtuber)に嵌るなんて……と思ってそういう気持ちに蓋をしないで、好きな『人間』を見つけて、それに飛び込んでいくことが、中年の危機を脱する一助になるのでは?と思いました。


私個人のことなので、参考になるかはわかりませんが…。個人知の集積がインターネットだと思うので…。参考にしてみてください…。

観測

観測

  • KAMITSUBAKI RECORD
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以前書いた自分の中年の危機の話です。
orangestar.hatenadiary.jp

なんでスーパーの店員さんやバスの運転手にありがとうっていうの?







最近ツイッターで漫画貼ってばっかりだったので。はてな向きな漫画だと思ったので。


竜とそばかすの姫の感想日記

いぬじんさんが『竜とそばかすの姫』を見たというので、感想を読みたい!と言ったらまさかの感想を書いて貰えたので、それじゃあ自分も書かないわけには行かないなと思い、竜とそばかすの姫の感想を自分も書こうと思ったのだけれども、いぬじんさんの感想のあとだとどうしても平凡な感想になってしまいそう。いぬじんさんの感想は典型的な竜とそばかすの姫の感想ではなく本当にいぬじんさんしか書けない感想だった。こういう風にありたい。自分も。

inujin.hatenablog.com

竜とそばかすの姫。自分が見たときの感想は、よくtwitterやそのほかのブログで書かれているのと同じようなものでした。よい部分は『絵作りがすごく綺麗』、『キャラクターが魅力的』『思春期のどうしようもない心情(憧れや劣等感、世界への絶望)が描かれててすごい』とか、悪い部分は『インターネットなのに自分のなりたいものになれないのか…』とか『インターネットなのにやり直せないのか…』とか作中で描かれる地獄インターネットの様子だったり、あと、児童虐待に対しての児童相談所の職員の対応の描写についてだったり、子供を一人で行かせる大人だったり、感動的な絵を作るために色々なものをないがしろにしている感じや色々な要素を無理やりにつないでいる感じがすることについての、うーん、これは……。というような、そういうものになってしまう。凡百だ。もう少し自分の視点を持たねば。それは、いぬじんさんの感想のように、細部に目を向けるということなのかもしれない。自分自身と共鳴する小さな細かい部分、そこに対する感想が(例え的外れに見えても)語るべき正しい感想なのだと思う。

作中で描かれるたくさんの正義

作中では、たくさんの『正義』が描かれる。それぞれの人間が、『正しい』と思うことや『仕方のない』ことを『正しい』と自分に言い訳しながら『行使』する。それは男の子の正体を探って助けたいって思うベルたちも同じだし、子供を助けるために川に飛び込んでいった母親も同じだ。ネットでコミュニティの敵になる人間を叩きてる人間も自分のことを正しいと思っているし、ラフファイトをするプレーヤーを多人数で袋三和土にするプレーヤーも自分のことを正しいと思ってる。男手一つで子供二人を育てて、生活のために一生懸命働いて、それを邪魔する息子を躾けるのことを正しいと思ってる。たくさんの正しいがある。それはどれも正しくて、仕方なくて。でも、どこに目線を置くかを決めると、客観的に見ている人間には『本当に正しい正義』が俯瞰的に見えてしまうようになる。これは少し怖いことだと思う。これは映画だからいいけれども、ニュースであったり、ネットでの言説であったり、新聞記事であったり、人のうわさであったり、客観的に見てるつもりでも、誰かの『見せたい主観』の目線で見せられている。この作品に出てくるお父さんだって、(まあお父さんの行いは現代の社会では完全にアウトだけれども)見方によっては『かわいそう』な人だって見ることもできる。本当に救われるべき人間はお父さんだって見方もできる。(そしてお父さんも他の人間と同じように救われるべきなのだ、あのネットでアバターをはがした人だって救われるべきなのだ)
大切なのは正義を振りかざすことじゃなくって、優しくなることだと思うのだけれども、それはとても難しいな、と思う。

そんなことも見ながら考えた。

発掘。2017年ごろの未公開が結構出てきたのでアップ。

若かったなあ……。ただ、今よりも確実に面白い。若さってあるよな……。若さってやっぱり創作にとってとても大事だ。

もしかしたら、別のブログの方に更新してたかもだけど、そっち、消えてしまったからな……。