orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

承認欲求オブザデッド

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認められたい

認められたい

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というお話でした。

amazon kindleで「りちょうとえんさん」発売中です

発売開始しました。

サイトで公開したものに大幅に追加原稿を加えています。

全大体100ページくらい。

amazonでの販売価格は870円です。comicZINにて物理書籍でも発売中です。



kindleアンリミテッド対象なのですが、アンリミテッドで読まれますと作者の人に50円くらいしか入りません。購入していただけると500円くらいで、大体10倍くらい違います。できれば、購入して読んでほしいです。できれば購入して読んでほしいです。または差額をamazonギフト券をメールで貰えたりすると嬉しいです。

「ここは悪いインターネットですね」もkindle発売中です。

こちらには、大本の漫画、ブロガー山月記が載っています。出来ればこちらもよろしくお願いします。
収録漫画は

  • はてな村は衰退しました
  • 生きるのつらい絶対殺すマン
  • ブロガー山月記
  • ブロガー水滸伝
  • ブロガー西遊記
  • 不可思議さんとカッパのイーエム
  • ここは悪いインターネットですね。

の7本になります。

kindleアンリミテッド対象なのですが、アンリミテッドで読まれますと作者の人に50円くらいしか入りません。購入していただけると500円くらいで、大体10倍くらい違います。できれば、購入して読んでほしいです。できれば購入して読んでほしいです。または差額をamazonギフト券をメールで貰えたりすると嬉しいです。大切なことなので2回言いました。

ブロガー山月記、のみのもの

サイトで公開しているものと同一のものにないます。
現在99円という値段がついていますが、0円で公開する(したい)予定です。
サンプルとして無料公開をしたかったのですが、どうにも設定の仕方がよく分からなくて。
設定出来次第、無料公開にする予定です。
内容がサイトで公開しているもの、「ここは悪いインターネットですね」に収録しているものと同一のものになっていますので、サイトでご覧になった方や、「ここ悪」を購入なさった方は購入しないでください。


Amazonギフト券- Eメールタイプ - Amazonボックス

Amazonギフト券- Eメールタイプ - Amazonボックス

今回の漫画についてのちょっとした解説

中島敦の「文字禍」です。

青空文庫「中島敦 文字禍」

3分ほどで読めるので、要約をするより読んでもらった方が早いと思うんですけれども、ざらっとあらすじ。

紀元前650年くらい前のアッシリア。文字の研究をしている老博士ナブ・アヘ・エリバは、文字を知れば知るほど、そのもの本質の認識から遠ざかるということに気づいた。文化とか知識とかを超大事にする当時のアッシリアの王、アシュル・バニ・アパル大王に「やべー文字やべー!」と忠告するけれども、超怒られて、謹慎処分に。自宅で謹慎してるときに大地震が起こって、家に置いてある粘土板が崩れてきて下敷きになって死んでしまう。



…身も蓋もない…。
確か小学校の頃に一回読んでいて、その時は、「文字禍って文字につぶされるってなんだよそのオチ!」って思った覚えがある。文字禍として、落語みたいにオチが効きすぎている。
ただ、今読むと、ちょっと違った印象を持つようになった。まあ、オチに関しては、「落語みたいなオチだな…」って印象は変わらないんだけれども。

認識によって、物事の見え方というものは大きく変わる。

文字禍、というか、認識禍、概念禍、というようなもの。
みんな大好きマズロー先生も
「ハンマーを持つ者には、すべてが釘に見える」とおっしゃっている。
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りちょうとえんさん収録)

承認欲求、社会的欲求とそれにともなう問題というものは、これによって生じている、またはややこしくなっているものが多いと思う。まあ、それだけじゃないんだろうけれおども。あと、マズローピラミッドを“上に行くにしたがって価値の高い欲求自己実現欲求とか神”っていう考え方も、多分、間違いのもとだと思う。どちらの方が格上とか、人が生きていく上において重要ではないし、“よく”生きていくためにはなおさら。欲求を満たすことが目的ではなくて、幸福になることがそもそもの目的だし、生きることの目的が幸福かどうかということも、まず、決定事項ではない。

そこらへんの“認識”をしてしまうことによって、何とかなるものも何とかならなくなってるんじゃないかな、って思ったりしたよ。


オマケ

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認められたい

認められたい

みんなで読もう!

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スポーツ嫌いの子供を失くすためにするべきたったひとつのこと

orangestar.hatenadiary.jp


での、続きのこと。というか、もう少し自分の考えてることをちゃんと。



スポーツ庁の考えている“スポーツ”“スポーツを通じで伝えたいこと”っていうのはどういうことなのか

「1億総スポーツ社会を実現」 基本計画を答申 :日本経済新聞

こちらの、「一億総スポーツ社会」の基本計画からは、推測することしかできないけれども、(というか一億総スポーツという響きから何となく伝わってしまうような気もするけれども)


プール授業 飛び込みの是非 スポーツ庁長官・鈴木大地氏は全面禁止に難色「もやしっ子が育つ」(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース

こちらの記事には、スポーツ庁が(スポーツ庁長官が)どのようにスポーツに対して考えているのかが、ある程度明確に書かれている。
1mという危険なプール深さでの飛び込み(プロの選手でさえ怖くてできないという浅さ)での指導について

飛び込みという行為は楽しみでもある。飛び込みを思い切りできる環境や指導者の資質整備が大事。1mのプールでも飛び込みの練習はできる。指導法が問題で、質の高い教員を採用することが大切。スタート台からは技術を要するので、最初は水面に近いところから段差がない形で飛び込みをする。なんでもかんでも危険だからと全面禁止し、もやしっ子を育てあげていくのはどうかなと思う。

ということを言っている。

この文章から読み取れること。

1、もやしっ子=悪としている

2、危険を考慮し、安全を重視するという事は“もやしっ子をそだてる”

3、飛び込みは楽しい



また、「飛び込みを思い切りできる環境や指導者の資質整備が大事。」と書いておきながら、その次の文章が「1mのプールでも飛び込みの練習はできる。」と書いており(1mのプールではそもそも危険)、ちょっとした絶望感がある。


まあ、こういう風な感覚の人間が、スポーツ庁の長官であり、また、スポーツの振興というものは大体このような感覚で行われているのだなあ、というような暗澹たる気持ちになる。どうにも、スポーツというものを、


1、運動できる人間が偉い

2、スポーツ(体育)というのは運動ができない人間を、運動ができる人間に鍛え上げるためにある

3、スポーツは楽しい


というようにとらえているようだ。



また、そこまでの意図はないのだろうけれども、“(自分や周りの人間の)危険を考慮せず、安全を重視しないで、「飛び込みは楽しいので」飛び込みをするタイプの人間”というのは、いわゆる世間で言われている“悪い体育会系の人間”で、コンプライアンスを重視せず、勝機を観たら躊躇せずに突っ込んでいける人間であり、(まあ、往々にしてそのような人間の方が社会的に成功するのだけれども)(周りの人間を燃やし尽くしながら)なんというか、それがいいか悪いかは別として、ここらへんのマインドというものはゆるやかにつながっているんだなあと思う。

ハンディキャップを付ければ、みんなで楽しく競技できる

こういう風に、もやしっ子をネガティブなものとしてとらえていると、どうやっても運動ができない子、基礎的な能力が低い子というものが、学校のスポーツの場からは排除されてしまう。
だけれど、こういう状況をたった一手で改善する方法がある。
それは、学校でのスポーツの授業での試合の時間や球技大会にハンディキャップを導入すること。
パラリンピックの競技では、選手のハンディの度合いによって、それぞれハンディキャップがつけられていて、それで、障害の度合いに違いがあっても、同じように協議に参加して、楽しむことができるようになってる。
車いすバスケでも、

一度にコート上でプレイできる選手に関しては障害の程度に応じてクラス分けされ、障害が最も軽度ならば4.5、重度ならば1.0のポイントが与えられている。コート上の5人の選手のポイントは合計で14.0を超えてはならない。この制度は、重度の障害を持つ選手が競技への参加を妨げられないようにすることを狙いとしている。クラスの目安として
1.0 - 腹筋・背筋の機能が無く、座位バランスが著しく悪い。
2.0 - 腹筋・背筋の機能が残っているため、わずかに前傾姿勢などがとれる。
3.0 - 下肢に筋力の残存があり、すばやく上体移動ができる。
4.0 - 主に切断など。体幹の側屈運動ができる。
それぞれのクラスで上位の運動能力のある選手には0.5ポイント加算される(最大4.5)。3.0以上の選手はハイポインター、2.5以下の選手はローポインターとも呼ばれる。 人工関節などの軽度障害者にも参加資格が与えられている。また日本国外などでは、健常者もクラス5.0として参加が許されている地域もあり、多くの人に門戸を開いている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8A%E3%81%84%E3%81%99%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB

というように、ゲームバランスを取っている。


また、小さいとき、子ども同士でゲームをしているときに、体力が無かったり、足が遅かったする子が一緒に遊べるよう特別ルールを入れたりしたことがあったとおもう。その子がポイントしたときだけ点数が3倍とかいうルールを作ったりとか。
全員が全員で楽しめるように色々な工夫をしてた。
それは、勝負で優劣をつけることが目的でなく、“みんなで楽しむこと”が目的だからだ。


ハンディの付け方を生徒自身で考えることによって得られる真のコミュニケーション能力

学校でのハンディの付け方は色々と考慮の必要がある。
でも自分は、ハンディをどのようにつけるかということは、生徒たちに考えさせるというのが一番いいと思う。全員で楽しむために、どのように配慮して、誰が何をできるのかを考えるという事は、“体育会系的協調性”“体育会系コミュ力”ではなく、真の協調性、コミュニケーション能力をはぐくむことができると思うからだ。
だれが、何をできて、何をできなくて、そのためにはどういうルールを作ればいいのか、それに対して試行錯誤するという事ができるようになるという事は、財産だと思う。




スポーツの目的を“もやしっこを減らす”ではなく、“みんなで楽しむこと”にすれば、本当にそれだけでスポーツ嫌いの子どもを減らすことができると思うのだけれども。



遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

つーかんじで今うちの4歳児。

来年度から年中さんなので幼稚園内の選択でお習い事ができるようになったんですけれども、英語や絵画、音楽もあるのによりによって体操を選ぼうとしていて。
4歳児の中の自己イメージの運動をしている自分と実際の自分がすごいかけ離れていて(実際は全然できていないけれども、自分はぐるぐる前回り回れていると思っているとか)まあ、でも楽しくやっているのでそれを伸ばしてあげたいという気持ちと、体操教室で、運動ができないという事に気付いてへし折れてしまわないかという過保護な気持ちがある。
あと彼自身の身体能力としては、持久力がものすごくあるので(6時間くらい平気で歩き続ける)(ヒトかよ)(ジャバリパーク脳)、ここでスポーツへの苦手意識を持ってしまったらもったいない。マットや鉄棒だけがスポーツじゃない。
自分と嫁の遺伝子をしょっているので運動は苦手村だと思うんだけれども、ただ、スポーツとか、みんなでワイワイするのは楽しい子どもに育ってほしいなと。
なんとかならないものかなあ。




追記

これは決して子供の可能性を親が決めるとかの意図はなく、得意なことを伸ばすことと、苦手なものを克服するの、どちらが子供にとって向いているのかを親がどこまで提示できるかという悩みです

スポーツで人生はかわらない

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news.yahoo.co.jp

www.nikkei.com

ここらへんの記事など。


スポーツを振興させようとしている人というのは、スポーツ(身体を動かす)ことによって、体調がよくなる、体力がつく、運動と瞑想の運動効果でメンタルがよくなる、ということよりも、体育会系のしばきあげ効果によって、体育会系コミュ力(上のいうことを素直によく聞く、逆らわない)を高めたいだけであって、健康とか個人の楽しみとかどうでもいいということがよくわかる。


そりゃあそういう教え方でわかるスポーツの楽しみなんて「弱いやつに勝って楽しい」だけだし、スポーツがが楽しくない人はどんどん増えていくと思うよ。


勝負の勝ち負けとか、ルール以外のなんだかよくわからない決まりを守ることを重視するのをやめて、ただ、楽しい部分を楽しませる、っていう風にするだけで、スポーツ好きな人間は十分に増えると思うんだけれども。でも、たぶん、そういうことはやりたくないんだろうなと思う。
勝負にこだわらない、全員が一つにならない、っていうことを重視するなら、オリンピックとはあんまり相性が良くないものな(少なくとも、今、誘致したり盛り上げようとしている方向のオリンピックとは)



魚沼くん別漫画
orangestar.hatenadiary.jp


こちらで、魚沼くん(仮 が出てくる漫画を描いています
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生き物の記憶 | orangestar | note


承認欲求について

認められたい

認められたい



あとで、いろいろとまとめてかくけれども、書かないかもしれないので、ちょっと思ったことを。
あまり本の内容とは関係ないけれども、高度に社会性が発達した社会では、安全欲求を満たすためには、まず、社会的欲求を満たす(というよりも社会的な“安全”が確保されないと安全欲求が満たされない)ということもあるのではないかな、と思った。




(id:p_shirokuma)さんのところから画像をお借りしました。



つまり、はた目には、承認欲求や所属欲求に飢えていて、認めてくれー俺を仲間に入れてくれーっていう風に見えていても、実際のところ本人にとっては、基本的な生存の欲求を満たすための前提条件としての社会への帰属を求めているだけなのではないかと。



社会性の発達した社会、コミュニケーションの結果として給与なり何ら生存に必要なアイテム(買い物でも何でも)が手に入る世界では、生存に必要なものを手に入れるための貨幣として、本人の知名度であったり人間同士のコネやらが必要になる。



物を食べて寝る場所を確保するためには、まず仕事を得ること、仕事で稼ぐこと、顧客をつなぐこと、それらをうまくするために情報を得ること。そして貧困に対する予防。このような生理的欲求を確保し、安全欲求を満たすためには、まず、ある程度の承認と所属が必要。



大昔の田舎みたいな、「その村で生まれた人間は、その村で生まれたという理由で、その村の成員としてあらかじめ“所属”が得られた時代」と違って、都市化された時代は、まず、「自分が、所属できる場所を得るために、ある程度自分の有用性を示さなければ」ならない。で、その有用性というのはどうやって示せるかというと、十分に社会性が発達した社会での有用性というのは「その人間がどこに所属していてどのような承認を得ている」かという、なんというか堂々巡りというか、しっぽを加えたヘビのようというか。



ひとつその輪の外側に出たら、その瞬間、承認と所属(十分に社会化された社会ではそれはすなわち生存と安全)の圏から排除されて、元の状態に戻ることは難しいし、もともと輪の外側にいる人は、かなり必死で頑張っても、その圏の中に入ることはできない。



現代の承認欲求というのは、人間と自己実現の話、形而上の面だけでとらえるのではなくて、生存にかかわるシビアな面もあるのではないかなあ、と思った。

生き物の記憶

noteに公開しました。
3ページ目以降は、noteのページでお願いします。
(※いつか同人誌に収録する可能性があります)

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生き物の記憶|orangestar|note

同じテイストの漫画

タグ:猫を殺す仕事の漫画にて同じようなテイストの漫画を描いています。よろしければご覧ください