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令和18年!ウナギは絶滅する!

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みらいのうなぎ



あながちないとも言えない感じがするんだよな…。
みなさんは土用の丑の日にはなにを食べますか?



ここは悪いインターネットですね。

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ほか、80年代から来た人シリーズはこちらです。

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舞台 アリスインデッドリースクール 少年 観劇感想

「アリスインデッドリースクール 少年」を見に行ってきました。一言でいうととても素晴らしかったです。



そもそも、「アリスインデッドリースクール」というのは、アリスインプロジェクトという少女演劇プロジェクトで、10年前から定期的に公演されている演目です。
ゾンビが発生して屋上に閉じ込められた高校生の少女たちの、一日の物語です。



「アリスインデッドリースクール 少年」、は、その登場人物の性別を男女反転させた物語で、同じようにゾンビパンデミックが起こり、屋上に閉じ込められた男子高校生の物語ですが、性別が反転することによって、全く違う物語になっていました。台本はほとんど同じはずなのに、男女が違うだけで、ここまで違う物語になることに、本当に驚きました。



少女版のアリスインデッドリースクールは10年前の初演から何度も上演され、そのたびに足を運んで見に行っているのですが、性別を逆転させた少年版を上演すると聞いたとき、“それは物語として難しいのじゃないか”と自分は思いました。というのも、アリスインデッドリースクールという物語は、少女の集団心理の物語、そしてメメント・モリの物語だと思っていたからです。



少女の集団心理の物語というのは、同じエンジンを積んだ飛行機が飛んでいるうちに、エンジンの周波数が同期していき、最後は空中分解するみたいに、少女同士の感情が同期して、最後には崩壊してしまうような、そこに至る道筋の物語です。少女同士のお互いの共感によって、場の空気というものが出来上がっていく、その過程。思春期の少女の物語。それは舞台でしか出せないもので、ほかの映画や漫画のコンテンツでは表現の難しいものでした。漫画版や近年の上演では、最後、屋上から脱出するのに“嵐が来る”という理由がついていますが、初演ではそれはありませんでした。ただ、場の空気が“ここにはいられない”となって、そして脱出する、という流れになっていて、そして、見ている観客もそれに対して疑問を抱かない、そのようになってしました。観客も含めて、その、場の空気、に支配されているからでした。



少女デッドリーの物語は、そんな、場の空気に支配されそうな中、異物であるノブとユウが、漫才をすることによって、周波数を同調させない、場の空気をカタストロフィさせない、笑う、笑わせる、緊張状態を異化させるということの意味を問うお話でした。ノブとユウは、主人公であり、またトリックスター(狂言回し)の役割を演じていました。(なので、ノブがいなくなったあとは、一気に状態がカタストロフィに向かっていく)



少女版のデッドリーは、そのような、女子特有の緊張状態にあるときの集団心理の話だと理解していて、それは性別が男子に変わった際には失われてしまうものだと思われました。



また、少女のアリスインデッドリースクールは、メメント・モリのお話でした。



メメント・モリというのは、直訳すると「死を思う」となります。そして、そこからの、「今日を楽しく生きよう、私たちは明日死ぬのだから」という物語です。明日の死を思う、心に留め置くことによって、今、今日、ここに生きている生を実感して“今日を生きる”ことです。(実際はメメントモリというよりもカルペ・ディエム(今日を摘む)の方ですが)



目の前に“死”があり、だからこその“生きたい!生きるの好き!”という、そういう“今日を生きる”お話でした。



少女デッドリーがメメント・モリのお話である、というのは、少女の物語である、という部分が大きいと思っていました。それは少女という概念が、(創作上)死に近い存在だからです。花が咲く時間は一瞬で、瞬きをする間に散ってしまう。少女という存在は、文学を引き合いに出してもいいですが、物語のなかで、“たやすく失われてしまうもの”の象徴でした。



自分は、アリスインデッドリースクールという物語を、そのように理解していたので、男子版のデッドリースクールというものは、成立しないのではないか、と思っていました。ですが、実際に公演を見た時に、それは大きな間違いでした。



上演された“アリスインデッドリースクール少年”は少女版とほぼ同じ台本でありながら、全く違う物語になっていました。



少女デッドリーが“集団心理”と“メメント・モリ”の物語なら、デッドリー少年は“誰かに自分の夢を託し、託されること、その重荷”の話と“死が突然訪れて、すべてを奪われる”物語でした。



デッドリー少年では、少女のように、集団心理が発生しませんでした。代わりにリーダーと、それに従う集団、という形の疑似的な社会形成をしました。これによって、物語は、“集団全体の行き先の物語”ではなく、個々人の物語の集合という形に変化しました。それによって主人公のノブとユウの環境を異化させるという役割はなくなり、彼らは彼らの物語を演じることになりました。(かわりに狂言回しをするのはキリトの役目になりました)



それにより、少女版とほぼ同じ台本なのに、個々人の物語の輪郭がはっきりと際立っていました。それは“誰かに夢を託し、託されること、その重荷”についての物語でした。



以前、脚本担当の麻草さんに、大人数が出てくる物語を作る際に気に留めていることについて伺ったことがあります。大勢のキャラクターを立てて、そしてお話をわかりやすくする秘訣について聞いたのでした。その時に言われたのは、「それぞれの登場人物ごとの物語をテーマを同じテーマをして、そしてそれぞれの物語をそのテーマの変奏にする」ということでした。



ノブは、自分一人では成し得ない、漫才師になるという夢をユウに見ます。ベニシマは野球部をタカモリに託して、そして、タカモリはその重荷に歯を食いしばりながら部を立て直します。ミヤハラはかつて陸上の選手だったけれども走れなくなり、そして“誰かの役に立ちたい”と思うようになります。ナツキは、ケイスケの漫画家という夢に乗っかって、セイジは生徒会長にどこまでもついていきます。イナリは夢を託す、託される相手を失ったまま生きていて、キリトはそこに入っていけません。そして、突然の死の物語。そんな、夢や、願いが、あっという間に失われてしまう。そのはかなさの物語。



少女デッドリーと同じ脚本なのに、全く違うお話でした。もともとの脚本の力と、そして演出の技、役者の方々の演技のすばらしさ。そのすべてが合わさって、全く新しい、アリスインデッドリースクールでした。




個別の役者さんについて。

墨尾 優 役の土井 裕斗さんと百村 信 役の斎藤 直紀さんについて。

漫才師を目指してる高校生の漫才としてものすごいリアリティがあった。これこれ、こういう感じ!っていうのがあった。一見、対等に見える二人が、微妙なバランスで成り立っている。ユウの行動に先回りしながら先の後で受けるノブ。
漫才のネタを打ち合わせているシーンや、目くばせでネタを始めるシーンが、とても自然で、実際に存在している感覚がすごくあり、よかった。



紅島 弓矢役の田中 彪さんについて。

自衛隊の二人をつれて屋上に戻ってきた後、自分より目上のカシムラが来たことによって、それまでの緊張した顔がとれ、やっと<一服>でタバコを吸い始めるシーンが良かった。目上の人間に、ヤンキーの後輩みたいな、“チィーッス”みたいな顔をして、タバコを吸っていいかお伺いを立てるところがとてもよかった。無理してたんだな、っていうのがわかった、人間っぽいベニシマだった。
最後、ユウを置いて出ていくところは、歴代の紅島 弓矢の解釈がそれぞれ異なるシーンで、というのは、今までみんなを助けようとして頑張っていたベニシマが、それなのにユウを置いていくという不自然なシーンだから。そして今回の紅島 弓矢もひとつの解釈を示してくれた。“もう、どうしようもなかったから”だ。弱さも、強さも持つ、とても人間らしい紅島 弓矢だった。



堂本 千十一 役の佐藤 友咲さんと辻井 水貴 役の江田 亮太郎さんについて。

最後“生きて責任取るんです!”のシーン、顔を無理やりあげるところがとてもよかった。ドウモトの距離の詰め方、不自然になりがちなのがすごく自然でよかった。キャラクターと行動が一貫してる。今回、ステージが広いのもあって、それぞれのキャラクターをパーソナルスペースの取り方で表現していて、物語の進行に合わせた距離の変化がとてもよかったです。あと、ミズキの“おまえ、馬鹿だろ”のジェスチャーが良かった。あと、ドウモトが周りの人間が誰も見てないところで、“ドウモトの素の状態”になるのが、無理してテンションをあげてるっていうのがわかって良かった。
デッドリーの物語の中で、ボーイミーツボーイをするのが、実はドウモトとミズキだけで、彼ら二人だけが、”人と出会って””変化して””わかれる”物語を持っていて、特にミズキは、誰とも分かり合わない状態から心を開いて、そしてその途端、喪失するという、屋上を舞台にしたこの物語の中でほぼ唯一”変質”する役で、その変化(最後の自分の言ってしまったことを後悔して動けなくなってしまうところ、冒頭のミズキではそうはならなかっただろうところ)が見事だった。ミズキとドウモト、この二人はビジュアルが本当に完璧でした。特に江田 亮太郎さんのミズキ。人と距離を取りたいけれども近づきたいというツンデレのビジュアルとして完璧だった。


青池 和磨 役の小鳥遊 潤一さんと村崎 静次 役の野二岡 紀人さんについて。

背が高いのは、それだけで存在感があった。ただ、背の高いひと特有のことなんだけれども、時々猫背になってしまうのがもったいないって思った。朴訥で真面目過ぎるがゆえ、細かいところに気が回らなそうなカズマと、細かいところに気が付くセイジはいいコンビだと思った。生徒会長、(少女版との比較になってしまうけれども)“吸えばいい”のところ、ベニシマとの(心理的)距離が、とても近いように感じた。“そうだよな、男子だもんな。”という気持ちになった。自分が男子だからかもしれないけれども、そういう細かい男同士の距離感が、今回、とてもリアルだなと思った。セイジ、生徒会長がいなくなった後の、屋上に戻ってきてからの演技が、とてもよかった。必死なんだけど、それを抑えて、落ち着いて人に話そうとする演技。決意した人間、の演技だった。セイジの会長に対する感情というのは、尊敬や信頼というものもあるのだけれども、それよりもマリみてのスール制度のような”近しい兄のような存在に対する百合的な感情”だというのが演技から伝わってくる。でも、会長のセイジに対する感情は“本当に頼りになる信頼できる後輩”なんだよな……。だからこそ焼却炉のシーン、二人の感情のすれ違いが本当に悲劇になる。会長は、頼りになる後輩に”来年の生徒会長への推薦”(つまり、自分に代わって生徒会長としてみんなを引っ張って行ってほしい)という思いを託すけれども、セイジの会長に対する思いは、ただ、会長に生きていてほしいっていう、一緒にいたいっていうことだけだったのに。「どうかおそばに(会長のいない世界で生きていても仕方ない)」→「みんなを頼む、君はこんなところで立ち止まっていてはいけない」の流れは本当に残酷だった。だからこそ、その後の、決意した人間のふるまい、が本当に素晴らしかった。(この二人は本当に休日にキャッチボールをするくらい仲が良いとカテコで言ってたそうです)



氷鏡 庵 役の笠原 彰人さんについて。

人間ヒカミだった。うん、人間ヒカミだった。今まで少女版のヒカミは狂人か、サイコパスかの2択が多かったので、初めてみるヒカミだった。動きがとにかくきれいだった。カシムラと影芝居でいろいろ話してるところ、カシムラとのお互いの距離感とその詰め方、セリフがなく、動きだけの演技だったのだけれども、よかった。
最後、爆弾について、話すところ。今までのヒカミは、“科学部の決意”のような演技だったのだけれども、今回は、“友達が死んでしまって悲しい”という演技だった。仲良かった科学部とはもう会えないんだもんな、それは悲しいよな。
本当に人間らしいヒカミで、初めてみるヒカミだった。超然としていない。デッドリー少年は、本当に登場人物全員“人間らしい”。
あと、舞台の上の人って横顔を目にする時間が長いんですが、彼は本当に横顔が奇麗でした。



高森 朝雄 役の高杉 昇馬さんについて。

ベニシマがいなくなってから、歯を食いしばって部を立て直したんだろな、というのが演技から伝わってきた。デッドリー少女では、ベニシマとタカモリは共犯者だったのが、少年では、互いに加害者の関係にあるのだと思った。タカモリはベニシマにタバコの責任を押し付けて、ベニシマは部をやめることになったが、同時に、ベニシマはタカモリに部の立て直しすべてを押し付けた。お互いがお互いに負い目を持っていて、そういう関係性だということが伝わってきた。最後の「歯ぁ食いしばれ!」が本当に魂の叫びなんだと思った。ベニシマとタカモリは、お互いがお互いを託し、託される存在なのだな、というのが、伝わってきた。


猪狩 薫 役の柚希 龍星さんと緑浜 塔蘭 役の一瀬 晴来さんについて

カオルの、ベニシマと掴みかかって喧嘩になりそうなところ、本当によかった。トラとカオルの対比によって、野球部という存在にものすごく深みが出てた。ベニシマ事件を知ってる2年とそれを知らない1年。トラの何時でも明るい感じと、常に何かにピリついているカオル。掴みかかって喧嘩した後の、真実が明かされた後の、どうしていいのかわからない感じが本当によかった。トラの明るい感じ、トラがいるから、屋上での雰囲気が明るいものになっていて、だからこそ、屋上からいなくなった後の、“あ…!”というのが本当につらい。物語における、カオルとトラの存在感、この二人がいないとこのお話は成り立たない(誰が欠けても成り立たないけれども)のだな、と思いました。


界原 依鳴 役の二平 壮悟さんについて

二平さんのイナリの最初のイメージは、“(存在が)薄い”“生きてるのか死んでるのかわからない”でした。(あとなぜか、平成初期の仮面ライダーっぽい、でした)
全体を通底するテーマで、“誰かに夢を託すこと、託されること”というのがあり、ほかの登場人物たちが、その途中や、結末を生きている中で、イナリだけがそのすべてを失ってしまっている。その虚無が、立ち居振る舞いの演技で表現されていて、一言でいうと“ヤバイ”と思いました。すごい。生きてるのか死んでるのかわからない。演出として表現はされませんでしたが、たぶん一番“ゾンビ(奴ら)”に近い存在なんじゃないかと思いました。演出のつけ方次第でまた別の意味をもつキャラクターになる可能性を見ました。彼が、また、映画を撮る意味を見出す、理由、それは、ただ、生きているからっていうだけの理由だと思うんです。(演技から自分が読み取ったのは)



橙沼 霧人 役の龍人さんについて

デッドリー少年における狂言回しの役は、キリトでした。
常にカメラを構えていて、世界をみてる。カメラを通じて見ていて、唯一世界を俯瞰している。そういう役回りでした。変化していく状況の中で、部外者のようにふるまう、トリックスター。ノブとユウが自分たちの物語を演じ、ヒカミが超然とした存在から人間になった中、キリトは観測者となってカメラを回し続けた。改めて台本だけを読むと、そのようなキャラクターとして書かれている(と読むことができる)のだけれども、今まで気が付かなかった。次の展開、次の展開へ物語を運ぶきっかけをつくる、大事な役割だったと思います。
あと、龍人さん、顔と声がいい。映像でも見たいなと思いました。
他の部活動が、部活動内で、一つの物語を作っているのに対して、イナリとキリトは、それぞれが別の物語を持っている、お互いにお互いを干渉しない(出来ない)というのが良かったです。
映像を撮る、世界を切り取るという観測者の孤独というか、自分が映像をとる理由は結局自分自身で見つけないと見つけられない、誰かに託すことも、託されることも結局できない。お互いにシンパシーを感じて、相手のことを思っていても影響を与えることができない、カメラを持つ人間のそういう業を見ました。




宮原 踊 役の田代 竜之介さんと巣宮 春希 役の武部 尋斗さんについて。

少年デッドリーになって新しく(宍戸 舞にかわって)追加された宮原 踊という役は、宍戸 舞のポジションだけれども、作中で果たす役割は全く違うものになっていました。端的に言うと、この、デッドリー少年のテーマを体現したようなキャラクターでした。ミヤハラは以前陸上部で選手をしていたけれども、足を故障をして走れなくなり、そして今はマネージャーとしてほかの選手のサポートに回っている。“自分の夢があって、それが失われて、そしてそれを受け入れて、そして誰か他の人間の夢や頑張りをサポートしようというところまで至った人間”なんですね。で、田代さんのミヤハラは、常にニコニコしてバブみのあるキャラクターなんですけれども、不意に時々、そういう闇が見えるような(見えたような気がする)瞬間があって、それをみていて、“ああ、でもそれはどうしようもないよなあ”と(舞台上の人物なのに)知り合いに思うみたいに思ってしまいました。ミヤハラが「誰かの役に立ちたい」って言ったときに、それは本当のことなんだけれども嘘なんだろうって思った。
で、そのあとの、ハルキの「ミヤハラ先輩みたいに誰かの役に立ちたい!介護士になりたーい!」発言が、効いてきて。ミヤハラ先輩の闇が、ハルキには全く見えていないし、だから、ミヤハラ先輩も救われているところがあるんだろうなっていう、そういう二人の関係性がとても良いな、と思いました。ハルキの無垢というか、“いろいろ考えてないから明るい”っていうキャラクターとミヤハラの“いろいろ考えてるから明るい”っていうキャラクターが良い対比になっていました。ハルキ…、お前は今のままでいいんだよ……。とか思ったりした。この緊張状態でバナナぱくぱく食べるし。ハルキは、トラと並んで、屋上でのムードメーカーとしての役割を果たしていて、だからこそ、ミヤハラがいなくなった時の慟哭の衝撃が大きかった。



志倉 夏樹 役の原田 将司さんと黄市 恵助 役の安部 光希さんについて

夢があって、今頑張ってる最中。どこかで、折れたり失敗したりして、誰か代わりに夢をかなえてくれる人に託したり、現実的な落としどころを見つけたり、そういうことが起こる前の、夢に夢見ている状態の二人。それが、このアリスインデッドリースクール 少年の中で二人に与えらえれた役割で、陸上部とは対照的。だから、自分たちの今作ってる物語を楽しそうに話すし、世界がこんなになっても、描きかけの漫画を取り行こうとする。突然、何もかもがなくなって失われることがあるってことを考えたこともない、そんな二人で、だから彼らが屋上からいなくなったとき、大きな喪失を感じてしまう。怯えるときに怯えられる、笑えるときに笑える。自分たちの感情を出すことにためらいがなくて、そして生きる力にも溢れている、そういうのが伝わってきた。
あと、ケイスケで個人的に好きだったシーンが、ゲロタンのお話を話してて、品川を燃やしたりした後に、ベニシマに突っ込みで叩かれて頭を抱えられてあとの、照れくさそうな顔がとてもよかった。怖い年上の人間に認められたっていうときのはにかみ。



柏村 香也 役の松川 貴則さんと竹内 珠 役の辻畑 利紀さんについて

デッドリー少女でも感じていたことなんだけれども、自衛隊のふたりが出てきたときの“大人が来た!”っていう安心感。それが今回、いつもよりも強く感じた。それは、実際に即応予備自衛官である松川さんの自衛隊仕込みの立ち居振る舞いが影響しているのかもしれない。本当に自衛隊の隊員がやってきたような“強いですよ”という雰囲気があった。立ち居振る舞いに余裕がある。それによって、今まで一番、場で強い雰囲気を出していたベニシマが“普通の高校生”になってしまった。とても良い。
辻畑さんのタケウチは本当にエリートという感じがして、今まで挫折したことがないんだろうな、だからこそ余裕がないんだろうなって雰囲気があってよかった。夢をかなえる、というテーマに関することだけれども、タケウチが防衛大臣っていう夢を語ってる中、カシムラは“出世に興味がない、現場の方がいい”っていう。これも夢の結末としての在り方だと思った。自衛隊ジョークは多分アドリブなんだろうけれども、全体の流れから浮いていなくて、ああ、たぶんこういう状態だとこういうこと言うよな、とか、思えた。カシムラの、自衛隊の他の部隊のモノマネは多分現場でやってドッカンドッカンなんだろうな、とか。
カシムラとタケウチが出ていくときに、敬礼して校歌を歌うのだけれども、そこにいたる流れがとても自然で。男子は女子と違って、関係性の生き物だと自分は思っているので、同じ学校の出身ということででる連帯感と、それによって生じる仲間意識、自然に出てくる校歌の流れがちょっと神ががってた。







とにかく、今回の役者さん全員に言えることなんだけども、普通の男子高校生としてのリアリティがあった。それは、個々人の演技にもだし、個人個人のパーソナルスペースの取り方や距離感、などにも。
アリスインデッドリースクール少年というこの企画自身は、女性に向けて企画されたのだろうと思うのだけれども、女性よりもむしろ、青春が終わった男の人に見てほしい、と思う。女の人よりも男の方が、このお話は“刺さる”物語だと思うので。





ゲロタン

今までに見たことのない、かつてないゲロタンだった。トカゲの王様って言ってるのになんとなく尻尾が両生類っぽい。ほとんど演技ができていないで、ずっと他人に任せっきりだったので今後に期待。なんと口が可動します。すごい!


冒頭13分間までが公開されています。配信とかしてくんないかな。
youtu.be




演出の浅野さん、そして脚本の麻草さん、
本当に良い舞台をありがとうございました。




漫画版描いてます。

アリス イン デッドリースクール (電撃コミックスEX)

アリス イン デッドリースクール (電撃コミックスEX)

年金対策には資産運用を!絶対得する資産運用のオススメ!

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控えめにいって地獄しかない。

ここは悪いインターネットですね。2

ここは悪いインターネットですね。2

ここは悪いインターネットですね。

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