超かぐや姫、すごいのが、「サブプロット」を一切捨てて、『いろはとかぐや』のこと以外の要素をすべてオミットしたこと。
大抵の映画とか物語、ある程度長くなると、色々な人をキャッチしたいので、サブテーマとかサブキャラのエピソードとか、本テーマとシナジーのある色々な要素、サブストーリー、サブキャラをいれていくんですけれども、超かぐや姫はそういうのを完全に削除して(母親との和解もカットで済ませる)『いろはとかぐや』だけの話だけで2時間半を作り込んだところ。
だから、『いろはとかぐや』っていうおもしれー女が好きになれなかった人は全く楽しめないし、葛藤も何もないように見えるし、すべてが薄味でストレスがないように見える。(だから面白くなかったのは老いのせいではない)逆に、『いろはとかぐや』のことが好きになった人には、ちゃんと、挫折も後悔も、立ち直りも、全部ぶっこまれていて、『ちゃんとした映画』(かそれ以上の)と同じ食後感が得られる、っていうつくりになってる。
現代映画の作り方(特に)netflix式にのっとって、3分に1回山場を持ってくるとか、連続して同じ感情を視聴者が持たないように工夫するとか、最初の1秒、15秒、60秒での『要素の組み込み方』など、作っているのに、映画の作り方の中の結構な重要な要素の『サブプロットを組み込む』という仕組みを(そうすると楽しめる人が増える)意図的に完全に削除していて、それはもう、ものすごい胆力で作られた映画だった。

例の画像
超かぐや姫は、この中身が全部「いろはとかぐや」でそれ以外にない感じ。
超かぐや姫を面白いと思った人に対して「トラペジウム」を勧める人がいるけれども、まあ、構造としては、同じものだしな…。
『トラペジウム』は『東ゆう』というおもしれー女を好きになるかどうかで全部が決まってしまう。徹頭徹尾東ゆうという人間に関しての物語なので。
でも、やっぱりトラペジウムを勧めるのは「そんなのおかしいよ!!」ってなるな……。