100人の作家がいると100通りの創作論(大まかなところは一緒だけれども、細かいところでの原理原則)みたいなものがあると思うのですが、最近、やっと、自分の創作論というもの構造化、有機化しました。
自分の創作の根っこ…というか人生の根っこ、ベースの部分に、人生は虚無だというのがあって、それにもう30年くらいかな?ずっととらわれているんですけれども、これってすごく強いんですよ。理論的には『人生は虚無だ』というのを否定することは出来ない。人生に意味がある、価値がある、という言説とレスバをしても、人は必ず死ぬ、全ては失われる、という圧倒的で最終的な事実の前には何を言っても無駄なんです。
人生は虚無、という概念とそして資本主義が悪魔合体した上に、生えてきたものに、反出生主義、功利主義、安楽死、強制的安楽死、などがあると思うのですが、そちらも同じようにレスバをすると勝つことはできません。『価値』の話になったときに、人は生きていくと『価値』を最終的には失っていくものだし、資本主義的な話になったときに『価値』のない人間もいるし、人生において苦しい事と楽しい事の総和をとれば苦しい事の方が多いというのは分かってもらえると思います。世の中楽しい事だけの人生を送る人もいるとは思いますが、世の中の大半の人は苦痛を伴って生きてます。仕事楽しいですか?
そういうわけで、自分は、物語を書く際に、常に欺瞞が付きまとうものだなあ、と思いながら、ずっと、虚無った話を描いていたのですが、最近、やっと、『虚無』の対立概念というか、それに対して有効な反論ができる概念を見つけました。というか腑に落ちるものが見つかった。おそらく多くの人は既に体得していたり、当たり前だと思っていたことかもしれないですけれども、自分はここまでの時間がかかりました。虚無が大きすぎたんだね。
それは、『冒険』という概念です。
これは、対立する概念ではない。それぞれが独立している概念でもない。存在している次元が違う概念で、『虚無』は積分的、『冒険』は微分的なレイヤーです
これは言葉で説明することが難しくて。何故なら、言葉は虚無の側の領域だから、言葉で書くとどうしても虚無の側が勝ってしまう。言葉は、説明は、静的な状態を表すもので、そうなると、どうしてもそこには、積分的な現象の総和についての話しかできない。人生生きていての総和として、そして瞬間として、結末としての状態、の話しかならない。
冒険というものは、質量がない、その瞬間のベクトルと大きさしか無くて、測定が出来ない。説明やレスバで使われる言葉の中に落とし込むことができない。
説明や説得では、反出生主義や功利主義を否定することは出来ない。
でも、物語ならできる
自分のベースを作っているのは、虚無です。
それに対して、『冒険』を持ってくることによって、物語の2項対立が生まれる。自分にとっての、物語、というものが何か、自分が何を語るべきか、自分の中の芯とは何なのか、をずっと考えていて、そして、つい最近得た答え、悟りのようなものが、この冒険と虚無の対立、という事でした。
ずっと今まで、虚無についての話を書いてきましたが、多分、これからしばらく、自分が書いたりするお話は、(ポエトリィなものをのぞいて)虚無と冒険の対立の話になると思います。
それが、現在、自分の創作論としてあります。