私はこの分野について素人なのですが
閃光のハサウェイ見てきました。私はこの分野(ガンダム)について、素人なのですが、感想を言わせてもらってよろしいでしょうか(常套句)。いや、本当にガンダムについては物凄い人たちがたくさんいるので自分が語ったり感想を言ったり考察をしたりするのはおこがましいと思うのですが、そういう人たちはそういう人たちで自分自身を素人だと自認していて、「自分が語るのはおこがましい」と思っているので、感想を書かないのです。その結果、インターネット中には『最近話題の閃光のハサウェイって知ってますか?恋人は?年収は?(中略)調べてみました』みたいなエントリばかりになってしまう(こういう常套句もなくなりましたね)ので、自分の考察を拙いながらも書いたりしようとすなる。あと、普通にネタバレがありますので、まだ未見の方はおかえりください。あと、普通にネタバレがありますので、まだ未見の方はおかえりください。あと、普通にネタバレがありますので、まだ未見の方はおかえりください。
閃光のハサウェイをみたら、逆襲のシャア(クェス)の解像度が異常に上がった
上がったんですよ。クェスのやばさが初めて魂で理解できた。今まで何回も逆襲のシャアは見てるんだけれども、(最初に見た時はまだ10歳になっていなかった)ずっと、クェスのことは面倒くさい子供(ガキ)だなって印象だった。自分勝手にふるまうし、状況を理解してないし駄々をこねるし。
でもそれは、主人公サイド、アムロやシャアの大人サイドからみた視点で、ハサウェイから見たら、全然違うものだったんだ、ということを閃光のハサウェイのハサウェイとギギをみて、初めて実感した。物語の目線が大人側の目線で語られるので、それぞれの登場人物からの視点ということで、見ていなかった、あんなに何回も見ていたのに…。僕は…僕が…恥ずかしい……。
初恋。そして先に大人になってしまう女の子。
逆襲のシャアで、ハサウェイ目線から見たクェスは、最初に宇宙船の中で出会ったときは、自分の手の届かなそうな上流階級の女の子(地球連邦政府の参謀次官の娘)。そして美少女。その後、その子が地球のことや宇宙のことで自分と同じ目線に立って同じような感じ方をして同じように話してくれる。もうこれ初恋ですよ。そしてエキセントリックで、「どこにも行ける、なんでもなれる」少女力を持っている。ここでいう少女力というのは、少女の持っている無敵の力で古くはナウシカであったり、ララァスンであったり、近くはプリキュアであったり、世界を救うことも壊すこともできるし、それに手を伸ばすことも可能なそういう神がかりな力のことです。(そしてそれは幻想なのだけれどもその話はまた今度)(あとララァスンは娼婦であったという裏設定があったりなかったり(公式なのかどうなのか判断がつかない)ですが、聖女(巫女)と娼婦は古くは同じものなので、そこを踏まえると本当にララァスンの神がかりの少女感はすごい、すべてを分け隔てなく救い、分け隔てなく奪う。だからアムロとシャアのトラウマになった)
で、その女の子が遠くに行ってしまう。それだけでなく先に大人になってしまう。モビルスーツのパイロットになって、ネオジオンの礼服を着て、ネオジオンのえらいさんたちと並んでシャアの演説の後ろに座る。一方の自分(ハサウェイ)はプチモビルスーツを買ってよろよろと運転するのがせいぜいだ。追いつこうとしても追いつけない。この羨望と悔しさっていうのを人生で体験した人はわかってもらえると思うけれども(例えば小学校自体の友達だった女の子が、中学デビューを果たしてリア充の仲間入りをしていたり、そうでなくても、平日、外であった女の子が学校と違ってメイクをしてすごいかわいいかっこをしていたりしたときに感じるあの感覚。女の子の方が先に大人になってしまうんですよ。)
そんなクェスに(物理の距離的に)追いついたと思ったら死んでしまって、その時に、彼女が自分自身のことを好き、好きとは言わないまでも嫉妬していた(嫉妬と恋愛感情の関係性について書くとそれで4000時くらいになのでまた今度。まあややこしいですよね人間の感情は)ということを知ってしまう。もう、胸に穴が開きますよね。ずっと届かない女の子でいられるよりも胸に大きな穴が開く。
ギギ。籠の鳥。「くるかい?」と言えないハサウェイ。
そして、ギギ。
ギギは、エクセントリックなところや、まるでどこにでも行けるようにふるまうけれども、でも、 実際は伯爵の囲い者で、どこにも行けない。籠はとても大きくて、一見どこまでだって行けるように、自由に飛べるように見えるけれども、それは結局籠の中の自由で、籠の中ならどこにでも行けるけれども、結局どこにも行けない女の子がギギだ。神がかりの力を持ってない。ギギはクェスとは違う。でもハサウェイは、ギギの中にクェスを見てしまう。ギギの中のクェスだけをみて、ギギ自身を見ていない。
ギギにとってハサウェイは、逆襲のシャアの時のクェスにとってのシャアだ。自分をここではないどこかへ連れて行ってしまう何か。でも、ハサウェイの自己自認はハサウェイのままなので、ギギに対して「くるかい?」と言えない。
閃光のハサウェイは「寂しい大人が慰めあってる」物語。(にすらならない)
閃光のハサウェイ。すごく面白かったけれども、『物語』としてみると、とてもつまらない(しかし僕はそこが好き)。物語が始まりそうな予兆はあるのに、誰も物語を始めない。エウレカ(空中でロボットでヒロインを受け止めること)はするけど、エウレカされるのはおっさんだし、与えられるモビルスーツも何かの因縁があるわけでもなく、アナハイムからこっそりと横流しされたものに乗っただけだ。ワクワクしない。そしてそれは、あえてそう作られている。(ここら辺、UCガンダムは全く逆で、ミネバ様は二回もエウレカするし、父のつくったガンダムだし、敵モビルスーツだってジャンブロもネオジオングも呪われたマシンだし、何よりミネバ様は神がかりの少女だ)
閃光のハサウェイは、逆襲のシャアの時のハサウェイ周りの変奏になっている。ギギはクェス、ケネス大佐はギュネイ。だけれども違うのはハサウェイは初恋の呪いにかかっていてどこにも行けないし、ギギもどこにも行けない。少年少女時代の万能感は失われ、ただ、もう終わってしまった人生を役割を演じながら終わるしかなくなってしまっている。二人とももう大人で、そしてそういう寂しい大人が慰めあうこともできずにすれ違う話だ。ケネス大佐?元気ですよね。(その二人に対する対象的な存在として自信にあふれた彼はいるので、いいバランスだと思う)
たぶん、ハサウェイは死ぬしかない。
ハサウェイはギギに「くるかい?」と言えなかった。新しい物語を始めることができない彼は、過去の自分自身を抱えて死ぬしかない。ここら辺は、シャアとアムロとララァに似ている。シャアにはアムロが、アムロにはシャアがいて、お互いとの決着をつけるために戦って生きることができた(だから決着がついたら彼らは死ぬしかなかった)(なので、UCのあのラストは自分は納得がいかないんですよ)けれども、ハサウェイにはそれを張り合う相手もいない。役目と呪いだけが残って、それを使い果たしたら、あとは、消えるようにいなくなるしかなくなる亡霊のような生き方をしている。原作のほうは未読なんだけれども、この後、何か物語が始まって、ハサウェイが生きていくことができるのか、それとも何も変わらずにただ終わっていくのか。次とその次が楽しみです。
ところでペーネロペーと三ガンダムいいよね。映画で印象に残ったところ。
まさかあの形状のモビルスーツが(アニメで)動くと思わなかった。モビルスーツが動いてるだけでとてもうれしい。
あと、爆撃のさなか、ふと見上げると爆撃が花火のように見えるのが良かった。死ぬか生きるか、周りでどんどん人が死んでいって、頭の中が真っ白になってしまったときに、ふと、「きれい…」って思ってしまう瞬間。アレ、すごかった。あんなことがあっても物語は始まらないんだよな……。
モビルスーツ戦で執拗に人が死ぬ、モビルスーツの巨大感が執拗に描かれてるのが良かった。モビルスーツの全容がなかなか見えず、足元だけだったり、落ちてくる部品だったり、そういうのがガンガンに街を壊すところが本当に良かったですね。テロも戦争も、そういうものだっていう描写。あとは、不法居住者たちの町の様子とか。マフティーとしての自分に疑問を持つためのシーン。そしてそれに対して、理想のためにしかたない)と言い訳をするんですが、本当にこの映画の中で、ハサウェイ言い訳してばっかりですね。理想とかやるべきこと、を行動の規範にして、「自分のやりたいこと」をやろうとしない。