ドラえもん のび太の新恐竜はいうなればたちの悪い『江戸しぐさ映画』だった。
いろいろと許せないところはあるけれども、一番大きな理由、始祖鳥先輩を無視していること。無視していることが問題なのではなく、そういうことをする姿勢が問題。感動させるためには、何をやってもいい、歴史になかったことをあったことに、あったことをなかったことにしてもいい、というスタンス。”感動することをやっているのだから歴史を捏造してもOK”という江戸しぐさしぐさ。これをよりによって、ドラえもんでやるということが、本当に度し難い。
のび太の新恐竜のあらすじ
あらすじを話さないと、どこがどう悪いのか、ということが言えないのであらすじを書きます。ネタバレが嫌な人はここで回れ右してください。
- のび太が恐竜展に併設されている発掘体験コーナーでスネ夫とジャイアンに丸ごとの恐竜を見つける!見つけられなかったら目でピーナッツをかむ!と宣言する
(ちなみに、この発掘体験コーナーは断層とかではなく、恐竜展の敷地の一部を浅く掘っただけのもの) - のび太が発掘体験コーナーで卵の化石を見つける。
- タイム風呂敷で包むと、恐竜の卵でそこから双子の恐竜、キューとミューだった。
- キューはミューに比べて、体が小さく、病気がち。尾羽の大きさも小さい。ミューは、滑空で空を自由に飛ぶのにキューは手をバタバタするだけで飛ぶことができない。
- 家の中では狭いので、飼育用ジオラマセット(箱庭系の道具で、その中で小さくなって生活できる。また天候調整機能とサイズ調整機能がついている)で生活させる。
- いろいろ、現代で暮らすのは無理が来たので、キューとミューがいた時代に二匹を戻して、同じ種類の仲間のところに連れていくことに決める。
- タイムマシンで過去に向かう。タイムマシンから出るときに、昔は酸素濃度が違うから、といって秘密道具の『探検服』を出す。(最初テキオー灯と書いてました。記憶違いでした。ご指摘、ありがとうございました)
- 最初についた場所は、時間の設定を間違えて、ジュラ紀についてしまっていた。そこでのび太は飼育用ジオラマセットを落としてしまう。
- キューとミューのいた6500万年前につく。ともチョコ(桃太郎印のきびだんごみたいな道具、さらに、食べた相手の能力を1時間使うことができる)を使って、恐竜を仲間にする。
- 足跡スタンプという痕跡をたどることができる道具を使って、キューとミューの仲間のコロニーを探す。
- 途中、謎のサル(キムタク)が現れる。
- 途中、何か恐ろしいものから逃げている様子のプテラノドンの群れに遭遇する。ちなみにプテラノドンはこの時代には絶滅している
- 謎のサルの正体は、この時代を監視しているタイムパトロールだった。上司からは早く何とかしろと言われているが、「もう少し様子を見ましょう」といってのび太たちの様子を見守っている。でも、ジャイアンとスネ夫は捕まえる。
- プテラノドンが逃げていたものは巨大なケツァルコアトルス(作中では種族名は出ず、謎のでかい恐竜扱い、パンフにも名前は載ってない)だった。(説明はされていないが、キューとミューの仲間もこのケツァルコアトルスに住処を追われ逃げていたらしい)
- 崖に追い詰められたのび太とキューが崖から落ちる。キューは飛ぼうとするが飛べない。二人とも海に落ちる。
- 夢的なシーンで、フタバスズキリュウ(神木隆之介)がやってきて、のび太を乗せてどこかの島に運んでくれる。ボール遊びをする回想シーンがカットイン。ちなみに、のび太がピースケを返しに行ったのは1億年前。
- のび太が漂着したのは、キューとミューの仲間たちが住む島だった。すぐに他の個体と仲良くなるミュー。しかしキューはその中に入っていけない。仲良くなろうと近づくと、とさかをもって群れのボス的な個体に引っかかれて傷を負ってしまう。
- のび太は、キューが仲間に入れないのを、体が小さいから、弱いから、空を飛ぶことができないからだと思い、キューを特訓することにする。
- スパルタ式の特訓をするのび太。しかしキューは飛べず、手足をバタバタとするばかり。なんども落下を繰り返して体がボロボロになるが、飛べないキューにイライラしたのび太はキューを置いて去ってしまう。
- のび太が黄昏ていると、しずかちゃんがやってきて、「のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人」と言われて、キューのもとに戻る。
- キューは一人で特訓していた。それをみて、のび太は、キューのとなりで、自分も頑張ってもいつまでもできない、逆上がりの練習を一緒にするのだった。
- 巨大な隕石が降ってくる。タイムマシンで移動した先の時代は、K-Pg境界の隕石が落ちるときだった。すごいタイミング。
- 子供たちを保護しようとするタイムパトロール。恐竜たちを助けようとするのび太。歴史を変えることは許されないというタイムパトロールとドラえもん。でも必死ののび太に絆されてドラえもんはのび太側に。
- 結局タイムパトロールにつかまるのび太たち。
- しかし、ずっとのび太たちを見守ってきたタイムパトロール隊員(キムタク)が「タイムパトロールがその存在が歴史の特異点かどうかを調べるカード」でのび太をチェックするとビカーッと光る。のび太のこれからの行動は歴史の上での重要なポイントなので、一切手を出してはならない、ということがわかる。のび太たちから手を引いて、見守ることにするタイムパトロール。
- キューとミューの仲間の住んでいる島が、1億年前に落とした飼育用ジオラマセットだということが判明する。サイズ調整機能が壊れたせいでこういう島になったらしい。
- 飼育用ジオラマセットの天候調整機能を使えば、ここの島だけは隕石衝突の影響を免れることができるから、できるだけたくさんの恐竜をこの島に集めよう!ということに。1億年放置されているドラえもんの道具が動くなんてすごい!ほとんど安物の中古品で、タケコプターなんてすぐ故障したり、電池切れを起こすのに!
- 場所を入れ替える道具でできるだけたくさんの恐竜をあつめている最中に、先ほどの巨大なケツァルコアトルスがやってくる。次々にキューとミューの仲間を襲う。
- ドラえもんとのび太と、ケツァルコアトルスのバトルになる。
- (この後30分くらいかけて、心揺さぶるシーンが続く。)
- キューを助けようとするのび太、いろいろあって、ケツァルコアトルスにしがみついたまま降りれなくなり、空高く連れ去れててしまう。
- のび太を助けるために何度も高所からの落下を繰り返しながら、最終的に、羽ばたきによる飛翔を獲得して、自由に空を飛び、ケツァルコアトルスから落下したのび太を助ける。
- タイムパトロール(キムタク)による解説。あれは、初めての、滑空ではない羽ばたきによる飛翔で、今この瞬間が、恐竜から鳥への進化への特異点だ。というような意味のことをいう。
- ケツァルコアトルスがスモールライトで小さくされて無力化される。
- 隕石衝突による大津波の前に、恐竜を避難させることに成功する。
- のび太とキューとミューの別れ。
- 現代に戻ったのび太が、一人校庭で逆上がりの練習をする、逆上がりに成功したとき、その上を一羽、鳥が飛んでいく。
赤字になっている部分は特に度し難いところ。
恐竜と、鳥の誕生について。
恐竜の誕生は、ペルム紀が終わり三畳紀が始まったときにおこった大絶滅(所謂pt境界)に端を発する。その時代、(なぜそうなったのかというのには諸説あるが)地球全体が低酸素状態になり、その結果、大絶滅が引き起こされた。そして、その時の低酸素状態を克服するために、爬虫類に属する双弓類から進化したのが恐竜の先祖だ。
低酸素の状態から酸素を十分に取り込むために、肺の機能をポンプのように発達させた。また、移動の際に体の動きによって呼吸が邪魔されないように、二足歩行を発達させた。それが、およそ2億5000万年前の話。2足歩行をして、ポンプ肺を持つ生き物がすべての恐竜の先祖になった。(のちのジュラ紀や白亜紀で4足で歩いている草食恐竜も、この二足歩行の恐竜がクジラのように先祖返りした生き物だ)
低酸素状態が回復した三畳紀の終わりごろから、恐竜が増え始める。その中から、羽をもち、グライダーのように空を飛ぶ恐竜が生まれだす。所謂始祖鳥という生き物だ。(始祖鳥は今の鳥の直接の子孫ではないと言われています。ただ、似たような鳥形恐竜がいて、それが今の鳥の先祖であるのは間違いないと思われます)
しかし、そのような鳥形の恐竜は、分類的には鳥とは言えない。まず、くちばしがない。尾に骨が通っている。強力な胸の筋肉を支えるための胸骨がない。骨格的に、背中まで翼をまわす翼の打ち下ろしができない。その形状から、今の鳥のように自由には空を飛べなかったといわれている。
この、始祖鳥の生きていた年代は、およそ1億5000万年前。
そして、その後、1億1000万年前には真鳥類と言われる今の鳥とほぼ変わらない空を飛ぶ鳥が生まれている。(しかし、それらの鳥は白亜紀の終わり(6500万年前)の隕石衝突で絶滅し、生き残った別の地上生活を行う鳥がのちに空を飛ぶようになり、それが今の鳥の先祖だといわれている)
つまり、空をグライダーのように飛ぶ恐竜から、空を自由に飛ぶ鳥への進化は、ジュラ紀の1億5000万年前から1億1000万年前に終わっている。真鳥類のイクチオルニス(9600万~6500万年前)は形的には殆どいまの鳥と変わらない。胸のところに羽ばたきに必要な巨大な筋肉を支えるための巨大な胸骨があり、うち下ろしの羽ばたきが可能な骨格をしている。イクチオルニスはこの骨格から、羽ばたきによって比較的自由に空を飛べたと考えられる。
イクチオルニス
※画像はwikipwdia のパブリックドメインの画像です。
イクチオルニス - Wikipedia
キューとミューの仲間がいた時代というのは、すでに鳥が存在している時代で、恐竜から鳥へのミッシングリンクがある場所ではない。じゃあ、なんで6500万年前にしたのか
「6500万年前の隕石衝突と絡めて、感動的な絵にしたいから」
それ以外に考えられない。この、感動のために何をしてもよい、という姿勢はあちこちにあふれている。決して無知ゆえにそうなったのではなく、ある程度情報を調べたうえで、あえて、その科学的に正しい描写をなかったことにして捨てている。その根拠として、恐竜時代は酸素濃度が違うからといってテキオー灯を使うところ。恐竜が鳥になった理由の大きな要素に酸素濃度があり、その知識がなければ、テキオー灯のシーンはおそらく思いつかないからだ。
進化、と努力する、ということをテーマにしてしまったせいで、物語が脱臼している。
素直に素朴に、この作品からメッセージを受け取ると、『努力は大事』。努力(とのび太を思う強い思い)によってキューは飛べるようになった、というお話、に見える。
しかし、キューが飛べるようになったのは”進化”だから、というようにしたときに、その『努力は大事』というテーマが脱臼する。進化というのは、生まれつきの自分の体の劣っている部分を今生活している環境で努力して補うことによっておこるのじゃなくって、生まれついての特長を生かして、今までとは違う環境へ進出して、適応していくことだ。それに必要なのは、”努力”ではなくて、”逃げる”こと。自分が努力しないでも生きていける場所への逃走こそが進化(適応)する、ということだ。
キューは、しっぽが短く、体も小さい。飛ぶときにバタバタと手を動かす。それは、滑空して獲物を得る、という”環境”では短所だけれども、空間を自由に動くのが求められる環境ならば、それは長所になる。進化とは、頑張ることではなくて、頑張らなくてもできることを探すこと。そして、実際、ミューは自分の長所を生かして、鳥のように空を飛ぶという適応をした。
しかし、のび太、側の側面から見た、「生まれつきの自分の体の劣っている部分を今生活している環境で努力して補う」ような物語に見えるし、実際、その方向で感動できるように、観客の感情を誘導している。(キューが飛ぼうとしているシーンで、のび太との親子的な生活のカットインを入れたり、キューやのび太の、泣いている感情あふれる表情を長々と流したり)それ自身は悪いことではないし、観客が感動して涙して気持ちよく帰ってもらう映画なら正しい。でも、その正しさは、今まで、ドラえもんの映画や、普通ドラえもんが作ってきた正しさではないよね、と思う。ハロー新のび太。
ケツァルコアトルスの扱いが雑。
名前のない巨大恐竜として描かれているケツァルコアトルス。ほかの恐竜を助けたい、っていうときに、その巨大恐竜はその対象ではないの?なにをもって選別するの?のび太のやさしさをフューチャーしてるのに、そのやさしさはその巨大恐竜には注がれないの?
結局、敵としてしか描かれないケツァルコアトルスの扱いが雑だし、それにたいしてののび太の処理も雑。
今までのドラえもんでは、そういうラスボスっていうのはいなくって、敵となるには敵となるだけの理由があって、そういう描写をちゃんとしたうえでの空気砲だったりショックガンだったりしたわけだったんですけど、ほかの恐竜とサイズだけが違うというだけで、この扱いはひどい。だって、このケツァルコアトルスは、まったくevilではない。ただ生き物として捕食しながら生きていただけで、こういうふうに『悪いいきもの』として描かれる謂れはない。パンフレットにも名前が載ってないし、守るべき恐竜の仲間ではない、という線引きがされてしまっているように感じる。
のび太に対しても、誠実ではなくて。のび太はこの時代の恐竜全部を救いたいって最初に言うんだけれども、それはものすごい独善なんですよ。それじゃあ、その恐竜が滅びなかったら、この後の哺乳類も生まれないけれどもいいの?人類も生まれないけれどいいの?歴史を変えるってそういうことだよ?って昔のドラえもんだったら誰かが言っていただろうし、それを無視して独善を貫くなら、すべての恐竜を区別なく救うべきなんですよ。のび太と竜の騎士が許されたのは、あれは因果が閉じる話だったからですよ。
ドラえもんを見に来た子供たちが、科学に対して誤解をしたまま帰る。
鳥の起源について、始祖鳥という存在を完全に無視してる。また、何も知らずにこの映画をみると、『キューが頑張って恐竜から鳥に進化した』というように見える。獲得形質は遺伝しないし、進化というのは1代で起こるものではなく、100万年という時間をかけて変わっていくものだ。そこら辺の進化に対する知識、年代についての知識を間違って覚えて帰る可能性がある。もっと、ファンタジーな映画ならいいけれども、ドラえもんって、そういう映画じゃないじゃん?科学的には正しい部分を提供するっていう、そういう未来から来たロボットのSFじゃん?だから、自分は、ドラえもんで、江戸しぐさみたいなことをするのが、本当に度し難いんですよ。
ドラえもんはキッズ向けのムービーからデートムービーになってしまった。
自分がまだ中学生だったころの話。大山ドラのころの話なんですけれども、中学生にもなってドラえもんを見に行くって恥ずかしいことだったんですよ。アレは、完全に子供向けの映画で、中学生にもなってそれを見にいくなんて、っていう。
ところが、今って、ドラえもんって、デートムービーじゃないですか。高校生がカップルで見に行ってもおかしくない映画になってしまった。それはいい、もう、それは、映画として生き残るためには正しい進化です。でも、その中で、できの悪い邦画の持っている『感動できるなら何をしてもいい』という不道徳が、こののび太の新恐竜にはあるんですよ。
のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人じゃないよ。いたずら好きの子供だよ。
あと近年の感動のび太病とでもいうべき、何かにつけて、のび太に対して、「のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人」って定義づけをするんですけど。これ、もう、ほんと、短編ドラえもんを読んだことがなくって、映画ドラえもんや、エアプでドラえもんを履修している人間がいってるんじゃないかって思ってます。ドラえもん単行本をみたら、のび太は他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人なんかじゃ全然ないですからね。ドラえもんの短編の三分の一くらいが、ジャイアンとスネ夫に仕返しをしてゲラゲラ笑うような人間ですからね。お年玉をくれない正月の訪問客から道具を使ってお年玉をせしめたりする。発掘おじさんにこうもり傘の化石を見せて「新種の始祖鳥だ!」っていってるのをみて笑ったりする。(その後反省して謝りましたけど)
第一結婚式の前日に、結婚相手の男を評する言葉なんて、リップサービス以外の何物でもないじゃないですか!
あと、しずかちゃんが(出木杉じゃなくて)のび太を選んだのって、なんとなくわかる気がする。いつも隣にあんな完璧超人がいたら、(そして自分自身、ある程度ちゃんとできると自認してる人間なら)ノイローゼになりますよ。そいて、出木杉と比べたら、ほかの人間なんて、全部似たり寄ったりの能力ないですか。出木杉がすごすぎて。そんななか、のび太って、いろんなものに、大人になっても新鮮なリアクションをしてるんだろうって思うし、思いついたことを思いついたままにやって、失敗して、泣いたりするだろうし。そういう人間がとなりにいたら、やっぱり生活が潤いますよ。経験者は語る。
だから僕は『のび太さんは他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る人』じゃないと思ってますよ。『いたずら好きの子供』だよ。たぶん大人になっても。で、しずかちゃんはそこがよかったんじゃないかな、って勝手に思ってる。
ところで、映画館でのび太の新恐竜が始まる前の映画の宣伝で、stand by meドラえもん2 の宣伝がやっていたんですけれども、のび太が結婚式当日に逃亡する話なんですけれども、ああ、これたぶんまた、「他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことの出来る」のび太の話なんだろうなあ、感動するんだろうなあ、って思って、not for meドラえもん、と思いながら、そっと目を閉じた。あとに始まったのが新恐竜です。
ちゃんとした監修の人が入っているのに、なぜこうなったのか。
スタッフをみると、ちゃんとした博物館の名前があって、この人たちが監修をしているのに、なんでこんなことになったのかと思うのですよ。始祖鳥先輩を無視していることに対して絶対突っ込みが入るはずなので。だから、決して、無知によってこのようになったのではなく、確信犯であろうと思います。無知によって起こってしまった事故というのは『実はフタバスズキリュウは胎生で卵で生まれない』とかのことですよ……。(ただ、当時はそこまでよくわかっていなかったし、資料集めも今ほど簡単じゃなかったから……)フタバスズキリュウは卵で生まれないんですよ…どうすんの……これ……。
というような、理由により。
ですので、私は、こののび太の新恐竜がどうしても度し難いのです。
度し難い以外の、個人的な感性で嫌いな部分。
今まで書いてきたのは、できるだけ客観的に見て、誰がどうみてもこれはおかしいしやっちゃダメだろ、っていうところについて。
ここからは、個人的な好き嫌いで、嫌いな部分について書きます。
卵から生まれた生き物を自然に返しに行くのって倫理観的にどうなの?
卵から育てたら、その後のその動物の人生に責任を持たないといけないし、気軽に命を扱うというのはどうなのか。いや、旧ドラ、漫画ドラだと、けっこうのび太は簡単にそこら辺の生命倫理を飛び越えるのですけれども(台風のふー子の話は、しずかちゃんが卵から育てた鳥がしずかちゃんになついているのをみて、「僕も卵から何かを育てたい」といったのが始まり)今のわさびドラののび太、ドラえもんは、そこらへんを今の時代の価値観に合わせてきてるので、今ドラで、それをするのはどうなの?って思う。もう少し思慮が必要、今の時代に合わせるのなら。
結局手におえなくて自然に返す、という考えも、今の時代、問題があります。人間の手でそだてられた生き物は、自然ではなかなか生きていけなくて、結局死んでしまうことが多い
。結局、自分の手を汚さずに動物を殺すということだし、自分で自覚せずにそれを行う卑怯な行為です。人間が育てたなら、最後まで人間が育てるのが、今の、生き物育て界の倫理だし、自然に戻すのなら、そのつもりで一番最初、卵から生まれた時から、自分で餌をとって生活できるように訓練していかねばならない。そういう覚悟がない。そして、そういう覚悟を書くべきなんじゃないかな、今の時代野生動物を育てる話をするなら、と思ってしまう。
あと、コンタミの話。
キューとミューを仲間のところ(同種族)のところに返す、という話だけれども、同種族でも違う場所から来た種を入れればそれは外来種です。恐竜時代、はるか昔の話だから問題がない、だろうけれども、(わからん、それはタームパトロールの管轄。でもたぶんダメっていう)買ってる生き物を、自然に放つ、ということに対して、今はとても配慮がなされています。小学校でも、カブトムシの捕獲に対して、「一回捕まえたカブトムシは、自然に放すことはしないで、最後まで(死ぬまで)責任をもつこと」っていわれる。今、それくらい動物と外来種に対しては神経質になっていて、そういう時勢に対して、あまりにも無邪気。
周りが芝生の恐竜展博物館の庭みたいなところを掘って、恐竜の卵の化石が出てくる。
出てくるかそんなの。石油や埋蔵金じゃねーんだぞ。
あれは福井県立恐竜博物館の屋外恐竜博物館ツアーやかつやま恐竜の森で行っている化石発掘体験のような、施設内に化石が出そうな石を運び込んできて、化石の発掘を体験してもらうというコーナーではないかという指摘をいただきました。たしかにそのように見えます。訂正します。
冒頭で恐竜のことを教えてくれた学芸員。
あの人何で出てきたの?必要だったの?出木杉くんでいいじゃん。
最初出てきたとき物語のキーパーソンかな、と思ったら、そのままいなくなってしまった。タイムパトロールの人の先祖とかでもないみたいだし。本当に素直に、「何だったんだろう、あの人……」と思ってしまった。恐竜を飼ってるって秘密を、ばらすわけでもないし……。
今までの映画だったら、こういう時に頼りになるのは出木杉くんで、聞いたら何でも答えてくれる。結局冒険には連れて行ってもらえないけれども。
出木杉くんに関しては、前回の月面探査記の解像度が高すぎて、ちょっとだしづらかったのかもしれないな…。あの出木杉くん、黒い靴下はいてたしな……。
ピースケ。お前どうなっているんだ……。
最初、こののび太は、のび太の恐竜ののび太とは平行宇宙ののび太だと思ったんですよ。だから、恐竜を育てるとかも初めてで。だから、あんなに無邪気に恐竜を育てられる。ピースケのあと、公園で恐竜をかって、どうにもならなくなって、白亜紀に返しに行くことになったこともないのび太。
って思ったら、エンドロールではっきりと「ピースケ(CV神木隆之介)」ですよ。え?こののび太、ピースケを知ってるのび太なの?じゃあ、ピースケ育てて、あんなに後悔したのに、また恐竜を卵から育てているの?学習しないの?サイコパスなの?あと、ピースケを送った年代と違うんだけれども、それまでピースケ生きていたの?(漫画版では1億年となっている)(けれども、ティラノサウルスとか出てきていて、ティラノサウルスの生息時代は6600万~6800万年前)(ティラノサウルスとプテラノドンが出てくるけれども、これらが同じ時代に共存したことはない)(フタバスズキリュウは卵から生まれない)(……む…、昔の作品だから…)(死)
おそらく、これも、感動させるための装置として無理やり挿入されたんでしょうけれども、それによって、本当にいろいろと酷いことになってる。
タイムパトロール隊員が苦手。
子供が困ってるときに、「彼らが何をするのか、見ものだ」みたいな感じでなんでお前他人ごとなの?大人としてどうなの?子供が困ってたり、どうにかしたいと悪戦苦闘してたら、そして、その場にいるなら、それをなんとか助けようとするのが大人でしょ?だから、白亜紀末期の基地なんかに左遷されるんだよ。とか思ったりした。舞台装置として彼は存在しているのだけれども、あまりに舞台装置過ぎる。
タイムパラドックスとか、そこら辺の話がおかしいって気にする人がいるかもしれないけれども、そこは問題ないんだよ。昔のドラえもんでも、藤子不二雄のSF短編でも、こういうパラドックスはいろいろギャグシリアス含めてやってるし。
問題はTP隊員の態度ですよ。お前の態度が気に入らない。
あと、これをちゃんと書き出すともう1万文字くらいいくのでざっとしか書かないんですけれども、彼の行動と精神が、TPぼんに出てくるタイムパトロールの精神とあまりにかけ離れている。TPが助ける相手というのは、その人物を助けても、歴史に影響がない人間、チェックカードが反応しない人間で、つまり、TPの行動って、一切なんの生産性もないんですよ。助けたからといって歴史が変わってその後の歴史がよくなるわけでもない、その人物のおかげで世の中がよくなるわけでもない。なんの生産的な理由もなく、ただ、そこに困っている人がいるから助ける、っていう、究極の人道主義、福祉の精神の体現がTPの在り方であるわけですよ。(たぶんF先生はそこまで考えていなくって、物語のガジェットとして、適当に設定しただけだろうけれども)さすが主題歌をアンパンマンと同じ人が歌っているだけのことはある。
だから、それに照らし合わせると、ここで恐竜好きのTPであるならば、『せめて歴史に影響のない恐竜なら助けたい』って思って、そう行動するはずなんですよ。神の視点になんか立たないと思うんですよ。
TPの仕事っていうのは、時間犯罪者の逮捕ではなくって、そういう困ってる人をしらみつぶしに助けるってものなんですよ。これはTPぼんじゃなくって、ドラえもんに出てくるタイムパトロールだから…なんて言い訳は聞かないぞ、チェックカードまで出しておいて。
のび太くんとのび太を取り巻く環境(圧力)がドラえもん的ではない。『劣った人間や他と違う人間は人一倍努力してようやく社会の一員として認められる』というような、ストーリーの背景にある思想について。
なんだろう、自分の受け取り方の問題なのかもしれないけれども、この映画ドラえもんのび太の新恐竜ののび太は、ずっと、社会や自分自身の内面から、『頑張って普通になれ』という圧力を受けている感じがする。努力して頑張って成長しろ、そうするべきことが正しい、というような世界観をこの映画から感じる。それはとても道徳的に正しい。道徳の教科書に載るくらい正しい。
でも、ドラえもんって、そういう話ではない。ここはもう、本当に、絶対に譲れないポイントです。
ドラえもんっているお話は、できない、どうしようもないことを肯定する話で、できないことや無理なことを便利な道具で解決する話で、どこまでも他力本願な話だし、そうあるべきだと思ってる。80年代には、ドラえもんはのび太が道具でなんでも解決してしまうから不道徳だと糾弾されたこともある。でも、ドラえもんって、本来不道徳の話です。ギャグマンガだし。あんな夢こんな夢を不思議な道具でかなえてくれる話です。そこに自助努力はない。ポケットを開くと簡単に道具が出てくる。
また、藤子F不二雄作品において、『努力の効用によって成功、成長する』といった類の話というのは(ほとんど)存在しないんです。自分の観測範囲なので、もしあったら教えてください。(時門と、ウマタケのエピソードで努力して結果を出している、という指摘をいただきました…。たしかに……。)ドラえもんでも、のび太が、『よし!努力するぞ!』と決意しても決意するところで終わって、机の前に座ってるところでだいたい終わります。努力の効用によって、のび太が成績が良くなったとか、スポーツがうまくなった、とか、そういう、努力によって結果を得る、というシーンってほとんどないんですよ。(練習したり頑張ったりしてるシーンはある)藤子作品全般に漂う『努力の効用の否定』については、いろいろと自説があるんですが(終戦を体験した作家であるとか、F先生自身が努力が嫌いとか)それを書き出すとまたそれで1万文字くらいかかるので……。
そんなわけで『劣った人間や他と違う人間は人一倍努力してようやく社会の一員として認められる』ということに対しては、とても藤子的てはないな……、という感想を持ちます。エスパー魔美で、魔美の父親が疎開先で、祖父が青い目をしているせいで、外国のスパイとしていじめられます。その時に父がとった手段は、『逃げる』でした。
TPぼんのエピソードで、原始時代に行って、狩猟採集をしている部族で狩りが下手な若者、狩りが下手で組織の成員として認められない若者を助ける話があるんですが、その時の方法は、『打製石器の作り方を教える』でした。
基礎的な能力が足りなくて組織で認めらない人間は、逃げるか、別の能力を発揮するか。飛べない鳥に飛べ!という必要はないんです。
そして、今回のドラえもんについて。たぶん、(進化と適応の学術的な話をしらない)普通の人がみて、この作品から得られる感想は、劣った存在でも、人一倍努力して、みんなと同じように、空を飛ぶことができる。努力の賛美。だと思います。それ自身はいい(あんまよくないと思うけれども)。ただ、その努力の賛美というものは、『できない人間に対する努力の強制』に容易に結びつくし、できない子供自身に対しても、彼を内面からさいなむことになります。でも、ドラえもんってそんな話じゃないじゃん?困ったときに他力で助けてくれる話じゃん?
ついでに。最近の教育の考え方としては、そういうスパルタ的な教育はあんまり効果がないんじゃないかって否定され始めてます。今は所謂、ほめて伸ばす、というような、まず自己肯定感をアゲておいて、そこから能力を伸ばしていくというような方向が効果があるという、根拠ある調査結果もあります。スパルタとその成長の物語は、物語として見ていて面白いし感動するし、泣けるんですけれども、子供向きで、これをみて、自意識が作られるであろう子供、周りと比べてできない子供にたいして、この映画はあまりにも配慮がないのではないかと思うんですよ。ドラえもんの本当のターゲットである、『のび太』みたいな子供に対して、この映画はあまりにも厳しい。
あと余談ですけれども、なんで努力して頑張って成功する話で感動するのかっていうと、因果を認識する人間のバグなんですよ。物事に因果関係を勝手に見出してしまうバグが人間にあります。そして、支払った分が大きく、リターンが大きい、と出来事ほど、人間は”感動”してしまうようなバグがあります。このバグを利用して、感動できる話とその演出がなされるわけです。人間が感動して涙を流すのは、大体バグによるものです。SFという、科学、分析、世界を切り分ける概念が深い部分を流れているジャンルと、泣ける物語というのは、基本的に相性が悪い。それでも無理に泣かせる、感動させる、エモーショナルな話にしようとすると、どこかで話とテーマが脱臼する。
ここらへんは、本当に個人的な好き嫌いなので、あの、それの部分が好きだっていう人がいたらごめんなさい。
ただしアニメーションはものすごく素晴らしかった。
ミューの飛んでいく姿や、飛んでいるときの疾走感。のび太やジャイアンのキャラクターもすごく生き生きと描かれていて、CGで表現された恐竜たちもすごく丁寧な動きをしていた。コミカルのシーンのディフォルメも素晴らしかった。なによりも、最後のケツァルコアトルスとの対決のシーン、すべての絵がすごく生き生きと描かれていて、ああ、いいアニメを見ているなあ、と思ってしまった。ともチョコのアイデアとギミックもよくて、アレがあると絵がとても華やぐ。うまいなあって思った。
本当に、本当にアニメーションはよかったので、そこだけは見てほしいと思うんですよ。ミューとキューが本当にかわいい。
月面探査記は本当によかったので、ぜひみて下さい。
以前に記事を書きました。
orangestar.hatenadiary.jp