orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

舞台と漫画と映画と小説のシナリオ、全然ちがうなあと思うなど。

結局、「物語を見せる」というのは時間の管理をすることで、体感時間として『重要なシーンの体感シーンは長く、それ以外は短く』というように調整をすることなのだけれども、そのための手法が漫画と舞台と、そして映画で全然違ってくる。舞台と映画は、時間が見てる人と同時に流れるため、ベタな演出ではスローモーションにしたり、ゆっくりとセリフをいったり、間を貯めたり、そういうことをする。小説では文章量がその前後で増える、描写が細かくなる。漫画の場合は大ごまを使うという方法ができる。

それを『シナリオ』という形に直したとき、映画と漫画は『セリフが減る』が舞台の場合は逆に『セリフが増える』ということがある。映画と漫画はクローズアップという技法が使えるが、舞台は使えないため、その分の時間の体感シーンを長くするには、シーン自身を長く、つまりセリフ量が増える(小説の字の分が増える現象と一緒)によって、それを起こすことができるし、そういう風にやってるのが多い(と思う)

そして物語を管理するということは情報量の出し方を調整するという事。見てる人の処理能力と媒体の表現能力にあわせて、出す情報の量を決めるということ

例えば、状況を勧める際に、映画と漫画は一つのシーンに4人くらいまで出せる。それ以上になると画面に収まらない
小説の場合は、基本的に2人だ。4人になったときに誰が話しているのか上手くやらないとわからなくなる(だから役割語をしゃべる)

舞台においては、12人くらいまで同時に出せてしまう
舞台上にいて、メインで喋って会話している人間が4人いて、そこに、別の人間が横入りとかも簡単にできる(まあ、ごちゃごちゃになるのでそこら辺の交通整理は必要だけど)

これがどういうことかって言うと、結末まで行く途中の『状況』において、できる事が変わってくるので、物語のシナリオの構造も変わってくるという事。

同じ物語を作ろうとしても、プロット段階は同じでも、あらすじ状態にしたときにそれぞれ大きく変わってきてしまう。

マンガと小説は『時間停止』ができる。実質の秒数は1秒でも、その間に500文字くらい喋ることができる

舞台と映画はそれが出来ないので、『別のところで喋ったセリフ』が、その瞬間に観客の頭の中で解凍されるようなつくりをしないといけない。

媒体によって、全然、できることできないこと得意なこと苦手なことが違うので、翻案する際には、(同じ面白さを出そうと思ったら)大幅な翻案が必要になる。

本当に難しいよなあ…





追記

あと、物語を読むとき、人は『速度』は意識してなくて、『加速度』の変化で、体感時間の変化を得るので、そこら辺周辺の『物語や演出のスピード感』の調整で『加速度』を演出するのだわ

超かぐや姫、すごい映画だった。

超かぐや姫、すごいのが、「サブプロット」を一切捨てて、『いろはとかぐや』のこと以外の要素をすべてオミットしたこと。

大抵の映画とか物語、ある程度長くなると、色々な人をキャッチしたいので、サブテーマとかサブキャラのエピソードとか、本テーマとシナジーのある色々な要素、サブストーリー、サブキャラをいれていくんですけれども、超かぐや姫はそういうのを完全に削除して(母親との和解もカットで済ませる)『いろはとかぐや』だけの話だけで2時間半を作り込んだところ。
だから、『いろはとかぐや』っていうおもしれー女が好きになれなかった人は全く楽しめないし、葛藤も何もないように見えるし、すべてが薄味でストレスがないように見える。(だから面白くなかったのは老いのせいではない)逆に、『いろはとかぐや』のことが好きになった人には、ちゃんと、挫折も後悔も、立ち直りも、全部ぶっこまれていて、『ちゃんとした映画』(かそれ以上の)と同じ食後感が得られる、っていうつくりになってる。

現代映画の作り方(特に)netflix式にのっとって、3分に1回山場を持ってくるとか、連続して同じ感情を視聴者が持たないように工夫するとか、最初の1秒、15秒、60秒での『要素の組み込み方』など、作っているのに、映画の作り方の中の結構な重要な要素の『サブプロットを組み込む』という仕組みを(そうすると楽しめる人が増える)意図的に完全に削除していて、それはもう、ものすごい胆力で作られた映画だった。




例の画像
超かぐや姫は、この中身が全部「いろはとかぐや」でそれ以外にない感じ。

超かぐや姫を面白いと思った人に対して「トラペジウム」を勧める人がいるけれども、まあ、構造としては、同じものだしな…。
『トラペジウム』は『東ゆう』というおもしれー女を好きになるかどうかで全部が決まってしまう。徹頭徹尾東ゆうという人間に関しての物語なので。

でも、やっぱりトラペジウムを勧めるのは「そんなのおかしいよ!!」ってなるな……。

AIはいつ(素人の書く小説の)読者になってくれるのか

どうしてみんな、文学に関して、作者がAIに取って代わられることばかり心配して、読者がAIに取って代わられることを懸念しないのか? 現在、猛然と進んでいるのは、むしろ「読む」という行為をAIが代替して、人間が自分で読まずに要約を受け取るような状況。影響力の規模的には、こちらの方が恐らく深刻だろう。本好きは勿論、自分で読み続けるだろうが、『魔の山』とか、一番読んでいるのは、今や人間ではなくAIではないか。

言ってることとはちょっと違うのだけれども(AIに要約ばっかさせてないで自分で本を読めよ)っていう話

ただ、それとは別に
【読者がAIに取って代わられる】
という言葉にひっかかったのでちょっと書く

世の中に小説投稿サイトは今星の数ほどある
そして書いてる人も星の数ほどいる
しかし、その書いている人に比べて、読んでくれる人の数が圧倒的に足りていない
小説投稿サイトに投稿される小説の殆どが殆ど読んでもらえない
10PVつけばよいくらいで、1,2PVくらいで終わってしまうものがその小説投稿サイトに投稿される小説の殆どを占めている


kakuyomu.jp


こちら、自分がカクヨムで書いた小説なのですけれども、ほぼ1カ月まるまるかけて書いた13万字くらいの小説になるのですが、そしてそれなりに自信はあったのですが、感想まで読んでくれたのがたったの3人ほどです(その3人の方には本当にありがたいと思っています)
1カ月、時間を捻出して、ああでもないこうでもないと構成を練って、苦心して生み出した作品が3PVです。そして、これは自分だけではなくて投稿される小説の殆どが結構こんな状態です

物書きに対して読む人が圧倒的に少ない

人間が読んでくれないならAIが読者になって読んでくれたらいいのにと思うけれども、AIは小説を読んでくれない

ところでAIに小説を読ませて感想をもらう、ということができます
でも、面白いか面白くないか、どこが構造的におかしいか、どこが弱点かとかそういう話をしても、そのAI自身にとって面白いかどうかの話はしてくれないんですよね。だってAIには人生経験が無いから
人間と共通した人生経験がないので、物語を読んでも面白いとか面白くないとか思う価値観が無い

最近はAIが小説を書きます
そしてそれをみんなが面白いという

でも、小説を書く人間はもうすでにたくさんいるんです

必要なのは読んでくれる人間なんです
読んでくれるならもうAIでもいい

でもAIはまだ小説が読めないんです




AIが小説を読めるようになるのは、AIがもっと人間社会に浸透して、人間と共に行動して個別のAIがそれぞれに自我をもって固有の体験をして、個別の成長をするようになった時、やっと、人間の書いた小説に対して感想を言ってくれるような気がします、が

その頃はAIがAIのためにかいた小説もたくさん書かれるようになって、そして、AIにとってはそっちの方が(共感できる部分が多いので)面白いのでしょうね、という未来予測が簡単に立って

やっぱり僕の書いた小説は読まれないのです

お終い

『エロい』というには語彙が足りない

『性的な感じを含む魅力がある』の表現

エロい
エッチい
色気がある
艶っぽい
スケベ

などありますけど、最近(というか昔から)性的な魅力がある、ということをいうのはあんまりよくない(相手がそういう売り方、自己アピールをしているとき以外)んですけど、そういう魅力があるということに対して、こう、言いたくなる時ありません?そして、その言葉を表す語彙を自分はうまく持てない(使えていない)感じがする

【かわいい】と【エッチ】の間にあるような、お互い処女と童貞どうして付き合い始めて、初めてセックスをしてから、1ヵ月目くらいの、お互いの自他境界が曖昧(自分も相手のことが好きだし相手も自分のことが好きだということに疑いが無い状態)で、常にくっつきたがってる状態、を表すような、そういう雰囲気の「エッチさ」を表す表現が無いし、そういう供給ないですよね。エロ漫画もそういうエロ漫画最近無いです。エロを求めている訳では無いんです。そういう感情を求めているんです。昭和初期の快楽天とかの雑誌にはあった気がします。


自分が以前書いていた、『【前略】大好き小池さん』に出てくる小池さんとヒロシ君などはそういう関係性だったような気がします。

思い返すと昔から自分はそういう関係性が好きだったのかもしれない。

好きなアーティストの楽曲からそういう『空気』を感じることが時々あるのですが、そういうことを明言するのって憚られる感じがしますよね。難しいです。本当の気持ちで感想を言おうとするとそういう表現を避けて通れなくなる。

『戦わないといけない時代』にウケる作品とはどういうものか

最近(コロナ、ウクライナ戦争、ガザ侵攻、そして先日のイラン侵攻)の社会情勢、そして、誰もが『戦う』ことから逃れられなくなっていると思う。
戦う、というのは、戦争をするということではなくて、『自分の立ち位置を決めて、そして、その場所で『なにか』を迎え撃つ、という姿勢が求められる』ということだ。
この間の高市早苗率いる自民党が大勝した選挙だって、そういう『戦い』のある選挙だった。

常に『問われる』

そういう時代に置いて、それ以前の『平和な時代』に作られてきた作品と、近年の作品は決定的に違いがあると思う。

高度経済成長から失われた20年目くらいまでの『平和な時代』に作られた作品は『問いかける作品』が多かった。お前はそれでいいのか、世界にはこういう問題がある、それに無関心で良いのか、考えろ、感じろ、目を開け、そういう問いかけをしてくる作品が多かったし、そういう作品が評価されてきたと思う。

じゃあ、今はどうかって言うと。

とにかく見たあと『楽しかった!!!!!!』って思えて、その後に何も残らなくって、楽しかった余韻だけが残る、そして明日からの『戦い』に備えた充電ができる。そんな作品が求められているし、作られるようになってくると思う。超かぐや姫とか結構そんな感じだと思うし。

バランスだ。

現実で、透明でない戦争をしているから、コンテンツは日常を忘れるものが求められる。逆に、平和だった時代は透明な戦争をしていたから、明確な敵(問題)を提示する作品が多かったのだろう。

これから増えてくる作品群は、多分、評価されない。評価、批評家、議論の的に上がるようなわかりやすいテーマ性が無いからだ。少なくとも、以前、平和な時代に使用されていた『作品分析ツール』は使えない。
ただ、そういう作品には意味があるし、決してそういう作品群は(評価の対象にならないからと言って)質の低い作品というわけではない。

釣りバカ日誌という映画がある。

それは『平和な時代』に置いて、『日常の労働や悲喜こもごも』という具体的なことと戦っていたサラリーマンを対象にした映画だ。明確に敵がいて、戦っていた人に向けて作られた映画だ。釣りバカ日誌には作品テーマが無い。(いや、あるんだけど、作品分析ツールで使われるようなテーマが無い)釣りバカ日誌は楽しい。そしてただ楽しいだけで、後には何も残らない。そういう映画だ。自分は大好きです。

で、これからはそういう映画(物語、コンテンツ)が必要とされているし、求められるようになると思う。

今は悪い時代だし、これからもっと悪くなっていく予感のようなものがある。
それを指摘して何とかしようぜ、っていうテーマの作品というのは必要だし見られるべきだと思うが、然し、もう、そういうコンテンツによる表現(現実から距離を置いた問題定義)よりも、直接、『戦う』ことの方が求められる、そういう時期に既に差し掛かっていると思う。できることは少ないが、できることを少しづつやってくしかない。

自分もできることをできるだけやっていこうと思う。

また、くだらない、カビの生えたような価値観を、こねくったような作品が作れるような時代が来ることを目指して。