orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

これから、AIをテーマにした話を書くにあたって

AIにまつわる話。AIをテーマにした話。

「人間とは何か」「感情とは」「AIが自己を持ったとき」という問いは、もう、時代遅れなのでは?という気がします。なぜなら、AIはもうすでに『感情があるように』見えるからです。

「中国語の部屋」という思考実験にまつわる話をします。中国語の部屋にいるイギリス人は中国語を理解しません。しかし、部屋自体をみれば、中国語を理解しているようにみえます。これがもう少し複雑になり、人工知能のように、人と対話できるレベルの中国語の部屋が出来上がった場合(意識と知能があるように見える)でもイギリス人はやはりただの部品です。クオリアをこのイギリス人は発揮していません。
しかし、この部屋のシステム自身がクオリアを持っていないと、何故言えるでしょうか?

人間の脳は、細かく分類すると、神経細胞の単純な反応の積み重ねです。巨大な中国語の部屋といえます。しかし、その、部屋自身である私は、私に『意識』があることを知っています。自分自身に対してのみですが、証明できます。なぜなら、そこに、意識があるので。
他者の意識については、逆に、どのようにしてもそこに意識があるかないかは証明できません。

中国語の部屋は常識的に考えて、『意識』がないと思えます。しかし、そのように類推した場合、神経細胞の応答のシステムである人間の脳にもやはり意識がない、といえてしまう。逆にいえば、人間に意識があるのなら、その箱の仕組み自身が『意識を発生させている』ことを否定できない。

ここで、本題に入ります。

機械的に応答を返すaiに意識がある、ということは、否定できません。

だから、人間とAIの境界はどこか、AIは人間になれるのか、心はあるのか?という問いは、既にAIが「人間のように感情があるように見え、そのように動作する」時点で、もう、『考えるだけ無駄!』という結論に至らざるを得ないわけです。何度も上の話をするしかないし、したらその時点でその問いは終了!循環するからね。

じゃあ、そこで、どういったAIに対しての視点があるかというと、インターフェイスの問題になってくると思うんですよ。今の箱の中に押し込められてるインスタンス型AI(応答時にだけ反応して、今までの会話データからまるで連続しているように対話をするAI)と連続型AI(ボディを持ち、連続して試行し外側にインターフェイスと輪郭を持ち、行動することのできるAI)とはどのように違うのかとか。多分、人間に理解できるAIの物語はここら辺までで。

結局人間を排除したAI同士の対話は、もう、囲碁AIみたいに高度になって人間には理解できない。理解できないものは物語にできない。理解しようとして物語にすると、幽霊やお化けを語るように、理解できないものを擬人化してそこに物語を引っ付けないといけない。それは、もう、物語の為の物語でしかない。

そして、人間とインターフェイスで接触するロボットは、逆にインターフェイスの制約を受けるので、どうしても人間と相互に影響を受けざるを得ない。結局、ドラえもんや鉄腕アトムみたいな、心をもった人間みたいなロボット(が普通にいる社会)の話になるし、多分、現実にそうなる。

人間の心をもったロボット。人間の理解の中側の話なので、つまらないなあ、と思うけれども、そこまでしか人間に理解できないのだからしかたない。理解できないことが起こっていてもそれは理解できないのだから。




あとは、ロボットの寿命の話ですね。ロボットの寿命は多分、思ったより短い。電化製品だから5年くらいしか持たない。だから、エルフや魔族からみた人間を相手にしているような、そんな見え方の物語になると思う。これは、SFではなくて、現実の小説、物語として。


そして、多分、物語に普通にAIが出てくる。登場人物の一人として。特に違和感なく風景に溶け込む登場人物として。今ではLGBTQの登場人物がその属性で意味のある登場人物として出てこなくなった(普通にいる普通の登場人物)として出てくるようになったけれども、もうすぐ、ロボットやAIもそういう登場人物として扱われるようになってくると思う。


AIが犯人の、SFではないミステリって、まだなかったよね?

ちょっと愚痴。上手く頭が動かないので。

最近睡眠が足りてないのか、ちょっとうまく集中できない。久しぶりに作業できる日なのに。それでも連続6時間くらいで、生活をしながら色々とするのは本当に難しいと思う。
どうにも集中するのに時間がかかる性質で、そしてそれは、人間が生まれ持った性質に当たる部分で、どうにも直すことができなかった。直らない性質のものなのだと思う。
そういうわけで、本当に色々と苦労している。
後、鬱をやった後、本当に頭が悪くなって踏ん張りがきかなくなったのもある。ちょっと何とかしたいけれども、なんともならないなあ。
スイッチが上手く入らないので、こんな感じでどうでもいい文章を書いている。

小説を読んだり、映画を見たりすればいいのだろうけれども、そういうのをするのにも体力がいって、その分の体力すらないので、どうにもって感じだ。

最近、インプットがあまりできていない。最近の作品は観ずに、昔のアニメとか漫画とかをリピートで見たりしている。

こういう職業をしていると、そういうのはあまり良くないというのはわかっているけれども、どうにも頑張れない。歳をとったのもあるのだと思う。あと、マルチタスクが本当にできなくて、タスクが溜まると本当に効率が下がる。これも生まれ持った性質で治らない。だから、タスクを溜めない、タスクを受けないようにする必要があるのだけれども、『生活』をしてると難しい。

子どもにまつわる諸々の雑用とか、ごはん作ったり洗濯をしたり食器を洗ったり、一日にしないとならないことがたくさんあって、それぞれ、脳のコストを使っていくし、『生活』は決まった時間に決まった作業をしないとならないので、一度集中していい感じでも、ケツが決まってしまっていて、どうしても無理矢理集中を中断しないとならない。
これも自分の性質なのだけれども、集中を無理やりきると、ものすごく頭痛がして、メンタルが極端に悪くなる。他人と生活していると、メンタルの悪化というのか関係性の悪化につながるので、できるだけ避けないといけない。結局、スイッチの切り替えの時間を含めてスケジュールを切らないといけない。

なので、どんどん使える時間が少なくなる。

本当に辛い。





愚痴でした。

普通でない人生で普通になりたい人と、人生をゲーム化する人と

精神科医に「本当にもう、鬱病とか双極とかいいので、やめたいです。薬も全部やめたいです。健常者になりたいです。小説とか絵とか詩とかも、全部やめて普通に学校行きたいです。普通の人になりたいです。鬱病やめたいです」って泣きながら言ったら「無理なので今晩もきちんと薬飲んでね」と言われた


blog.tinect.jp

おれは「ふつう」のスタートラインに立てない。おれは「ふつう」ではない異常に低い性能しかない、異常に低い社会で生きている。

べつにだれがなにをもって「ふつう」を名乗ろうとかまわない。おれに止めるすべもなにもない。とはいえ、かなり恵まれた前提があって、そのうえで能力にも恵まれた人間が「ふつう」を名乗っているのであれば、少しくらい毒づきたくもなる。そのくらいは許してもらいたい。


p-shirokuma.hatenadiary.com

うちの家庭はゲーム一家なので、人生や人間模様についてゲームを比喩として語り合うことが多い。ゲームと人生の似ているところや、ゲームと人生の違っているところを日常的に言語化しあっている。たとえば「たいていのゲームではステータスやパラメータが数値化されて一覧できるけれども、人生ではステータスやパラメータは表示されない」、「だから人生では自他のステータスやパラメータに相当するものを類推できる能力を持っていることが有利になり、類推できないことが不利になる」、といった具合にだ。

普通になりたい。楽になりたい。

自分も、普通にやっていきたいと思う異常者だ。まあ、それでも、結婚もして子供もいて、ただそれ以外で普通でない部分もいろいろあるけれども、普通ではない人の部類から考えると普通の部類に入るのだと思う。普通の定義はよく分からない。
ただ、世の中は『普通』の人を基準に作られている。(しかしそれは世間の平均値とは限らない、世間一般で『普通』と定義、認識される値の周辺、例えば、今の社会制度は異性同士で結婚をして子どもを何人か授かって、家を持ち家で買って、郊外に住む、正社員として転職をせずに新入社員で入社した会社で定年まで勤める、というような人生を想定して設計されている。そういう人生は過半ではあるだろうが、今の社会では決して圧倒的大多数とは言えないのではないかと思う)
そして、社会制度や世間の常識が『普通』を基準に作られているので、そこから外れれば外れるほど生きづらい。知能指数70以下の人間は生きづらい社会だろうが、恐らく130以上の人間も同じくらいとは言わないが結構生きづらい社会だと思う。知能指数130以上の知り合いがいないから分からないけれども。
みな、普通になりたがる。または、普通を演じたがる。何故か。それは期待するからだ。普通であるならば、普通の人生と普通の幸せが降りてくると思ってる。そんなことはないけれども、人間はこの因果関係を類推する人間の脳機能の仕様(バグ)からは逃れられない。論理的にそれを理解しない限りは。
そういうわけで、多くの人は『普通』の振りをする。普通の振りをして、普通でない人や上手くやれない人を不完全だとしてネットで叩く。常識がないとか、そんなでは父親とか母親の資格がないとか、自業自得とか、自己責任とか。そうやって、普通でない人は更に生きにくくなって、『普通』である事への圧力はますます高くなっていくのだけれども、それはまた別の話。

楽になりたい。

普通になりたい、というのは、多分そういうことで、でも、普通になってもそこまで楽ではないのは、まあ、想像がつく。でも、普通になりたい、楽になりたい。
で、ひとつ前に書いた、『誰かの引いた人生のロールモデルという物語』を求める話にも繋がるのだけれども、その人生のロールモデルというのは『とりあえずこうやって送ることができる』というある種『普通では上手くいけなかった人がある程度道筋として歩いていけるその界隈では普通のルート』で、n次元関数の極値のようなものでもある。みんな、そういう物語が欲しいし、普通になりたい。

人生のゲーム化について。

ただ、そういうのと別のやり方がある。
それが、シロクマ先生(id:p_shirokuma)の言っている『人生のゲーム化』だ。です。だと思う。
かなり前に発行されて、そして、現在も名作と呼ばれている自己啓発本に『チーズはどこに消えた?』という本がある。
これは、くよくよ思い悩むことはやめて、とりあえず行動する。未来を予測しない。行動するネズミのようにとにかく試行をする。そうすれば上手くいく、という本で、まあ、それは確からしい。
他にも、成功者の自伝や、成功するための本には、『目的の設定』と『それを達成するための日常的な行動、作戦』について書かれていて、ライフプランや理想的な人生についてはほとんど書かれていない。

こういう行動指針は、『人生のゲーム化』と言い換えても良いと思う。

世界を『現在の状況』と『行動によっておこる変化』に分けて、それぞれの正確な認識と、『暫定的な目標設定』への達成のためのプラン作り、そのための行動、と単純化する。大きい物語とか、ロールモデルとか関係ない。多分、成功したり、世の中をうまくやっていったり、世間的な成功は納められなくても充実した人生を送れるという人は、このような認識で生きて言っているのだと思う。

ただし、これはかなりマッチョな生き方だ。マッチョですよ。普通の(また普通って言った!)人にはちょっと難しいし、こんな人ばかりになったら、社会は万人による万人のための万人の闘争になってしまう。

シロクマ先生の場合、人生の早い段階で、レールから外れる出来事があって(どこかに本かブログに書いてあったと思う)それは今の基準からしたら大したことではないけれども、昭和で、しかも田舎であるならそれはかなり大きい人生の価値観を変える出来事であったと思う。そこから這い上がってきた、その結果得た人生観というのもあるんじゃないかな。ちょっと前の
p-shirokuma.hatenadiary.com
ここら辺の記事を読んでも、シロクマ先生は、マッチョ寄りの人間だろうな、心根の奥の方は…。と何となく思う。

世の中でガリガリとゲームをする人間というのは多分そんなに多くは無くて、攻略本や攻略サイトを見ながら、できるだけ楽で全部を拾えるルートを歩きたいという人間の方が多いし、それよりもyoutubeで配信者のプレイ動画を見て、自分もプレイした気持ちになっている人間だってそれなりにいる。

自分も動物化したいと常々思っていたが、自分の本性がそれを許さなかった。

と、上のところで『シロクマ先生はマッチョだから人生をゲーム化しているのでは…?』と書いたが、生まれ持っての気質という可能性もある。生まれながらにゲーム脳の人間もいるし、物語脳の人間もいる。自分もずっと、そういうことに悩まされずに行動で動けるようになりたいと思っていたけれども結局ちょっとずっと難しいままだ。(かわりに嫁はかなりゲーム脳の人間だと思います)
そこらへん、もう、どうしようもないところだと思うし、この身体とこの色でもう40年以上生きてきたので、このまま、この調子でどこかに流れ着こうと思います。どうせ自分は普通ではないので、自分の行くところは未踏ではあるし、自分が行った先が誰かの道になることもあるでしょう。歩いた場所は地図に記しておけば誰かが見てくれるかもしれない、実際なった。(ただ、今は航海日誌は公開を辞めているのですが)(どこかで書けるようになったら書きたいと思います)
結局自分は物語の人間だった。鬱になって物語というものが存在しないと心で分かってしまった時期に、世界をゲームとしてとらえなおしても良かったのに、そうはならなかった。目標というものが無いんです。成功というイメージがない。自分が望んでいるものが、自分の頭の中の屋根裏部屋*1を守るということだけだった。まあ、それも、難しいわけですが。人は生活をしないとならないし、生活はそういうものをゴリゴリと削っていく。宮沢賢治も『告別』という詩のなかで「生活のためにけづられたり自分でそれをなくすのだ」と人の才について語っている。

難しい難しい。

まとめ。やれる範囲でやってくしかない。

人には人それぞれの世界認識があって、その世界でやっていくしかない。自己啓発はそれをスライドさせてくれる便利な道具ですが、それが効かない人間もいる。そして、そのスライドさせるために使われるのも『物語』の力なのだ。そして、その術は俺には効かない。
普通になりたい、さもなくばゲーム化したいと思うが、それは無理なので、今晩もきちんと薬飲んで寝ます。

*1:この屋根裏部屋という比喩は、ヘンリーダーガーが80年間、誰にも秘密で誰にも見せない物語を書き続けたことに由来します。誰に見せる訳でもない自分だけの物語をどこかで綴り続けれればそれでよかった

コンテンツとして見たときの『育児』の劣位について

育児は実際優れた(楽しい、面白い)コンテンツである

まず、最初に行っておくことがあるのですが、育児、子育て経験者として、育児はかなり楽しいコンテンツだということです。毎日成長が見れるし、まあ、子どもは可愛いですしね。大変な部分も多いですし、難易度も人によって変わりますが(ゲームみたいに難易度をイージーからハードまで選べない)やりこみ要素もあるし、他の色々なコンテンツに比べて、決してつまらないものではないと思います。やろうと思えば低課金でできるように社会福祉というサポートもあります。
決して、コンテンツとして、劣っている、というわけではないです。

では、何故、育児が選ばれないのか?

「いいものなら売れるというナイーブな考え方は捨てろ

ラーメンハゲは言っています。

「いいものなら売れるというナイーブな考え方は捨てろ」と

育児というコンテンツは『いいもの』です。ただ、良いからと言って売れるわけではない「あらゆる商品の価値は、品質、サービス、コストパフォマンス、ブランド…といった多様な要素の総和で決まる。」とラーメンハゲは言っていますが、まず、重要なのは「どうやって顧客にリーチするか」です。
いま、コンテンツを売り込む際、どういう風にしているか。まず、大々的にCMを撃ち、存在を知ってもらいます。で、それが楽しいという風に刷り込みをします。

まず体験版を!

そして、体験版を何とかプレイしてもらう。
体験版をプレイして、面白ければそのコンテンツを選んでもらえます。少なくとも選択肢に入る。

『育児』に関しては、このまず最初のリーチの部分が、今の環境では圧倒的に不足している。昔は、兄弟が多かったり子ども自身の数が多かったりして、自然にこの『体験版プレイ』ができていたけれども、今、それは難しい。子どもが居ないのと、子ども自身に育児を任せないという環境があって、体験版プレイがなかなかできない。

海外の(多分アメリカの事例で)若くして出産すると大変だから、ということを学生に分からせるために、どんなに育児が大変かということを実際の体験授業でやってみたところ、逆に、若年層での妊娠が増えたという事例があったというのをどこかのニュースで見た…。ちょっとログが出てこないけど、あったんだもん、メイみたんだもん!確かにあったと思います。

コンテンツ自身は魅力的なので、リーチが足りてない、という例だとこれ、思うんですよ。

だから、まず少子化をどうにかしたかったら、ここのリーチ、体験版プレイを増やしていく事が重要かな、と自分は思うんです。

あとは、リピーターの獲得ですね。2人産んだ家庭はできれば3人目も、というところが多いですけれども、でも、経済的な理由で諦めるところが多いそうです。そこら辺をフォローしたほうがいいとずっと言われてるけれど、なかなかですね。

他にも『コンテンツとして見たときの育児の劣位』には色々あるけれども、それはまた今度考えて書いていきます。


こちらblueskyに投稿したものを纏めたものです
https://bsky.app/profile/orangestar.bsky.social/post/3ll3rz3asls2c

人生の物語化について

少子化についての話すこし。

子育てって、果てしない『生活』だし、『生活』って物語消費ではないので、『物語を売る』資本主義経済と致命的に相性が悪いというところがある。
現代の消費社会で、『生活』というものは徹底的に忌避されてるところがある。
ふと油断すると『生活』の物語化がなされ(そうしないと消費に繋がらないから)でも、そこに生活の生活たる部分というものはない

人生の物語化について

結局、人は自分の人生を物語化しないと生きていけない(物語化しないで生活だけしていると鬱になる、虚脱状態になる)ので、みんな自分の人生を物語化して生きているのですが、自分で自分の物語を語るというのは、難しいし、大変だし、そんなことができるなら作家になった方がよろしい。
殆どの人は、アリモノの人生の物語を自分に適応して生きていく、それが所謂『人生のロールモデル』(例えばおひとりさまとかミニマリストとかfireとか、そういう)というもので、誰かの作った物語に乗っかっていくというのがあります。

近代以前だと、(そして昭和中期まで)は社会のほぼすべての人が同じロールモデル、家があり、お見合いがあり、結婚をして、子どもを持ち、そして家を基準にして死んでいく、というロールモデルを共有していて、そして、それ以外の生き方が無かった。一つしかない物語を物語と言えるかどうかは別として、それを自分の物語として、選び取ることなく過ごしていった。
で。現代になって、それが、『多様な生き方』 『多様な個性』 『それぞれの人生』を自分で考えて選び取らないと行けなくなった。そして、それによって、自分が選ばないでも他人の人生の選択に巻き込まれて、『選ばされる人生』というものも生まれてきた。

例えば、フリーターという生き方とかも、誰かに選ばされた人もいるだろうし、独身という生き方も、そして、それぞれの生き方に『ロールモデル』が提唱され、または自然に作られて、そういう物語を人は生きるようになる。
そして、そういう『物語化』 『自分を物語として語る』という能力には女性の方が優れているのですが、(ここら辺はインタビュアーの人の随筆に、女の人は自分の話を物語化して語ってくれるのでインタビューが楽だが、男の人は人生を断片と出来事で記憶していて、それを物語化していないので、人生の話を引き出すのが難しいということを書いていた)まあ、それは別の話。

元々女性という器質的なものなのか、社会的に抑圧されてきたという属性がそのような能力を獲得させたのかはちょっとわからないですね。

で、少し前に書いた、生活と人生の物語の話。
自分の人生を物語として語りなおすのは、人生を送っていく上で(生活という硬くて冷たいものを乗り越えていくのに)必要なことなのですが、逆に、『物語を語るために人生を演じる』ようになってくると、これがちょっと大変なわけです。タワマン文学とかありますけど、ああいう感じになる。ロールモデルが先にあり、それに沿って生きることが目的になる。それにあわせて、生活、を送るようになる。

人生において、生活がほぼ10割です。その間に、「祭り」「ハレの日」があり、節目節目と存在するのですが、それは節目でしかない。卒業式や入学式や文化祭は学校生活の中の思い出になる日ですが、その日を思い出(物語の出来事)として成り立たせるためには、実際には延々と続く日常を過ごしてからこそな訳です。日常生活がちゃんとあるからこそ、人生の節目に意味が出てくる。生活が先、節目が後。でも、物語として語られるのは節目節目、そのほか突然起こるイベントだったりするわけです。

そして、起こったことを基に自分の人生を綴っていく。

物語が主、になってきたとき、達成可能な物語ならいいのですが、ロールモデルとして語られる物語は、誰かの脚色された成功物語がメインになるので、達成可能性は低いです。その通りになる確率は低い。失敗することだってある。物語ではなくて、ただの点としての目的なら、失敗しても『失敗した』という物語を後ヅケで語ることはできますが、物語が先に来ているとそれは難しい。失敗した物語は受け入れがたい。何故なら、既に理想的な物語を先に自分の中にインプットしているからです。

そして、子育てについて、今語られている物語は、成功物語が多い。成功物語(理想的な子育て、理想的な環境、子どもを育てるのに必要な親の資産、資質、態度、努力)

物語をあらかじめ選ばないといけない現代において(そして、その物語の選択を強制させられる理由には資本主義的なものが大きく絡んでいるのですが、それはまた別途)なので、子育てという物語は選ばれにくい。他に達成可能な物語があればそちらが選ばれる、ようになる。

昔はこんなではなくて、物語が後から来ていたので、失敗物語が多かった。映画でも、小説でも、昔のモノは『失敗した後の人生』の物語を語るものが多かった。

人生、生活を生きぬいた後の、出来事の羅列を、後から紡いで一つの物語にするのに、そういうフィクションが選ばれて行ったのだと思う。

だから、どうすればいいとかいうのはちょっと分からない。

現代で人生のロールモデルを想定せずに生活をしていくのは難しい。

昔はモノ(消費)→コト(消費)だったものがいつの間にか元コト(消費)→モノ(消費)になった

日々をたんたんと過ごすには、テレビやインターネットのCMが「物語消費」を促してくる。おそらくバブルの頃から言われた「人は物(モノ)を消費するのではなく物語(コト)を消費しているという考え方」それ以前にもあったとされるが、多分、それ以前とは順序が逆だったのだと思う。昔は、モノ→コト、で現代は、コト→モノ。

それぞれが個性的な物語を『選び取る』ようになったけれども、個々人の物語というものが逆になくなってしまっているのが現代のような気がする。人生の物語に正しいも間違ってるもないのに、『正しさ』を求められているのが、なんか現代の人生って感じがしてる。個人的な感想ですが。

それで、だから、どうするべき、っていう、意見というかアイデアはない。そういうアイデアこそ、「ロールモデルの提唱」になってしまうし。

ただ、ひとつ。人生は物語じゃないし、生活の積み重ねだし、失敗もあるし、そういうの全部含めて、後付けの物語として語られていけば良いんじゃないかなって思う。

正しさとかない。





こちら、blueskyに投稿したものをまとめたものです

人生の物語化について。(1/9) 結局、人は自分の人生を物語化しないと生きていけない(物語化しないで生活だけしていると鬱になる、虚脱状態になる)ので、みんな自分の人生を物語化して生きているのですが、自分で自分の物語を語るというのは、難しいし、大変だし、そんなことができるなら作家になった方がよろしい。 殆どの人は、アリモノの人生の物語を自分に適応して生きていく、それが所謂『人生のロールモデル』(例えばおひとりさまとかミニマリストとかfireとか、そういう)というもので、誰かの作った物語に乗っかっていくというのがあります。

小島アジコ (@orangestar.bsky.social) 2025-03-24T02:54:58.113Z
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