orangestarの雑記

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デスゲームについて考える

デスゲームについて考える

デスゲーム物語を作るための覚書

参加理由

  • 目的達成のため
      • 人間の汚いところやギリギリのところが見える
    • それ以外
      • それ自身にドラマを作ることができる。妹の命を助ける、個人的な誇り、他。途中で願いが変わってしまうとかもあり。
  • ゲームの種類
    • ゲーム自身のギミックが面白い
      • スポーツやテーブルゲーム(遊戯王、将棋)などの面白さ
    • 単純なゲーム(鬼ごっこ、じゃんけん、だるまさんがころんだ、など)
      • 人間の本性やドラマ、スプラッタに集中できる

ゲームの仕掛け人

  • 人間
    • 暇を持て余した金持ち
    • 日本政府などの政府
  • 超自然的な存在
    • なんでも願い叶え系
    • 超自然的なゲームも設定できる
      • 異世界転生みたいなことをして(ゲームの中に入って死んだり殺されたり)

魅力

  • 限界ギリギリの人間の感情や行動が【最短で】見れる
  • -
    • 人間の【感情】はコンテンツだが、他のジャンルだとそれが出てくるまでに時間がかかるため
  • スプラッタ
    • いろいろな人間のいろいろな死に方が見れると楽しい。

デスゲームを考える

デスゲーム自身はもう飽和している。何処かの魅力で一点突破するしかない

登場人物

  • 主人公
    • ニュートラルな普通の若者
    • 頭脳が切れるアイデアマン
  • 筋肉
    • 行動担当、場合によっては即退場、または主人公との相棒として最後まで活躍(主人公がアイデアマンだった場合は特に)
  • 悪い奴
    • 最初主人公と敵対して仲間になる。または協力関係からラスボスに変化

(思いついたものを書きましょう)

ゲームのルール

(思いついたものを書きましょう)

ゲームの主催者

(思いついたものを書きましょう)

スプラッタ表現

  • 自分で自分の耳に細い棒を刺して脳みそをかき混ぜる(足ガクガク震えて、尿、便漏れ)
  • 自分で自分の目に棒を刺し、脳みそをかき混ぜる
  • 内臓の中に虫が入り込んで腹を突き破って出てくる
  • 手の先から蓮コラが始まって、それが顔に至る
  • 体がケーキになる
  • 巨大なジューサーに入れられて、ジュースになる
  • 内臓を取り出されて木に打ち付けられて一周させられる
  • 聖エラスムス(やっぱり内臓系はヤバイ)
  • 聖アポロニア(彼女は歯を全て乱暴に引き抜かれたか、粉々にされるという拷問を受けたという)(キリスト教は拷問のアイデアがいっぱい)((

アポロニア (聖人) - Wikipedia
))

  • 性的な奴は性的になってしまうからダメ(キリスト教は(以下略))

(思いついたものを書きましょう)

僕の考えたデスゲーム

夕闇団地

団地を舞台に団地に残った霊(雑)に呪われた高校生たちが呪いをとく為に頑張る話

ゆきまちさん

dsrotvnlrbmes;,ovtrnuesomev nq3w@049,cevpibnempt;fvn:eu;fm9kmce49piotucpe;ofqc34w,e0mviゆきまちさえおあちjwmcqvう@えpy8cmq4fめc@、おp;

メモ追記

デスゲームにしてもなんにしても、今のコンテンツに必要なのは3分目からゲームが始まる(前振りは終わって本編hが始まる)なので、色々と準備する話は難しいと思った。

必要条件と禁足事項とお約束が多すぎてマンネリ化した劇場版ドラえもんはどうしたらいいのか

劇場版ドラえもんに対する個人的な感想で個人的な妄想です。

ドラえもんの劇場版、毎年楽しみにしていますが、劇場版ドラえもんに対して、暗黙なのか仕様として引き継がれているのかわかりませんが、『これをしてはならない』『必ずこうすべき』『このネタは必ず入れておくべき』(そしてお決まりの展開)というのが多すぎて脚本の自由度がかなり下がってしまっている気がします。(時折それを大きく壊す作品が現れて新しい地平を切り開いてくれるわけですが)なんかなあ、もっとドラえもんの映画は自由でいいのになあ、と思いながらそのレギュレーションを列挙して、で、ここら辺はこの映画で壊した、すごいすごい、みたいな話をしていきたいと思います。
例えば、『クレヨンしんちゃん』の映画は、夢、ファンタジー、学園、変な敵、ホラー、なんでもありであり、何でもありであることが『クレヨンしんちゃん』ですが、ドラえもんの場合はそうではない。かなり『枠』があります。他に似たような作品シリーズでいうと『ルパン三世』などが近いです。

映画ドラえもんにおけるレギュレーション

してはならないこと

  • のび太たちが死ぬ(ドラえもんが壊れるはいい)
  • のび太たちが超自然的な力を発揮する(ドラゴンボール的な戦いや、子供たちが大人以上の物理的パワーを発揮したりする)
  • 冒険の舞台は日常を離れて違う場所へ行かないとならない(のび太の町を舞台にしてはならない)
  • 出木杉を連れて言ってはならない
  • のび太たちは成長してはならない(日常に帰らないといけない)

必ずこうすべきこと

  • 物語はのび太たちの自力救済の話でないとならない(デウスエクスマキナを使ってはならない)*1
  • 全ての問題は解決されなければいけない
  • ハッピーエンドでなければならない
  • 現代では現代の文化、科学技術を逸脱するものを出してはならない
  • SFでなくてはならない
  • 観念的な話をしてはならない

このネタは必ず入れておくべき

  • のび太の射的
  • ドラえもんの「僕はたぬきじゃない!」
  • かっこいいジャイアン
  • しずかちゃんのサービスカット

(おきまりの展開)

  • のび太が~~したい、~~へ行きたい、~~を証明したい、と提案。それにドラえもんが行けるように調整する
  • それにスネ夫、ジャイアン、しずかちゃんが便乗
  • 楽しく遠足のような冒険を行うが、ある点を分水流に日常に戻れなくなる
  • 問題が発生。状況を解決せざるを得なくなる(この場合、明確な敵が示される場合とそうでない場合がある)
  • 5人とゲストキャラクターが力を合わせて問題を解決
  • 物語の終わり


などなど。他にもあるとおもうけれどもちょっと思いつくのはこのあたりかも。
で、時々それを壊す作品が現れて、『これでも行けるんだ!』とか『やっぱりこれは失敗だった』とかなって新しいレギュレーションが作られていく。(ただ、F先生の描いた大長編ドラえもんという聖典があるのでそこまで逸脱することはなく、基本的にはそこへ戻っていく)
例えば、『ひみつ道具博物館』がターニングポイントとなった作品で、『敵』という存在がでてこず、また、場所となっているのがひみつ道具博物館という小さい閉じた場所で、行われることは『犯人捜し』というミステリー、今までのドラえもんからは大きく異なっていて、それでいて面白い!大長編ドラえもんの中では物凄く異質な作品であり、年々評価の上がる作品です。
他には、『新恐竜』も意欲的な作品で、こちらも、『楽しく遠足のような冒険を行うが、ある点を分水流に日常に戻れなくなる』というシーンがなく、のび太たちが終始能動的に行動していて、目的達成に対して一直線の物語なので、すごくわかりやすい。『宝島』の時もそうだったけれども、川村元気さんのかく脚本は本当に構造が綺麗。

レギュレーション壊しはしてもいいのか、またレギュレーション内でできることはないのか

多分色々な問題があるのだと思います。毎回お約束があるように、お客さんは『劇場版ドラえもん』を見に来ている。行きつけの蕎麦屋みたいなもので、急にラーメンを出されても戸惑ってしまう。あくまでも、先代からつけ継いだそばを出し続けないといけない。先代が生きているなら、先代自身が味付けを変えてみた、みたいなのもありかもだけど、もう、代は2代目3代目となり、引き継いだ味を守るのに結構いっぱいいっぱいになってる。
色々とレギュレーションぎりぎりでやって見れることって多分あって、ひみつ道具博物館が、ミステリーをやったように、ホラーや、ラブロマンスや、パニックホラーをすることもできるかもしれない。

色々と考えられることもあるけれども、自分は一消費者であるので、今後も面白い大長編ドラえもんを期待しながら眠ることにします。

*1:これは新ドラからのレギュレーションです

なんか文章が書けないので文章を書く

絵描きが絵描きの気分転換に絵を描くみたいなものですよ。ちょっと違う。手を動かして脳をいい感じに動かすために脳直で文章を書いていきます。脳直で書いていくので大体1時間で4000文字くらいを目標に。今、1153なので1253くらいまで時間をかけて、それくらいかければ、という感じ。今、ノートパソコンで描いてるんですけれども、ノートパソコンってやっぱり書きにくい。なんだか手が変なところを押してしまってその度に打鍵が止まる。とても、気持ちがなえる。キーボードを持ってきてそちらで打った方がいいのかもしれない。ほら、今また打ち間違えた。なんか、そう、別の話をしようと思います。自分の話。自分の最近の話といえば、私生活では色々とあるのだけれども、そういうことは書けない。最近のインターネットには書けない。最近どころかこの10年くらいのインターネットには書けない。そういう個人的なこと以外にも近所の公園で桜が咲いたとか、その写真を上げたりするのもそれによって場所が特定されたりするので書いたりするのはよくない。そういう、個人がリアルと紐づかないようにして暮らさなければいけないのが最近のインターネットで、やっぱりここ10年くらいそういうのに対してつまらないって思う。だからブログ文化もすたれるのだ。嘘。ブログ文化がさびれたのはそういう理由ではない。みんなめんどくさいのだ。小さい文章を小さくかくことで満足してしまうし、みんな自己実現など望んでいないのだ。自己実現をできるのは、歌を歌ったりおしゃべりが人より出来たり、絵を描けたり、音楽を作れたりなどの特殊な才能を持った人たちのものだとして諦めているのだ。そんなことはないのに……。ところで、はてなブログによゐこの有野さんが来てくれました。本当に嬉しい。はてなに有名人が来てくれた。これを機にもっといろんな人がはてなブログを始めてくれるといいですね。期待しています。さて、ついこの間、身近な人から「お前の話には『ケ』がない。生活が漂ってこない」(この『ケ』というのはハレとケのケのことです。ハレとケというのは、ちょっと説明が難しいんですけれども(詳しくはググってください)非日常(祭りとか陽の儀式)とそれ以外の日常、陰の部分のことです)と、あと「出てくる人間が全部お前の写し鏡」ということを言われまして、そういわれてもそういうのを直そうとここ20年くらい色々やって、ある程度できるようになったと思いながらも、全然ダメといわれたらどうすればいいのか。とにかくその原因も何となくわかっていて、自分は『生活』が苦手だし、憎んでいるし、『ただ噛みしめるようにしてやり過ごしていくしかないもの』と認識しているところがあって、それが、日常をうまく描けない原因で。あと、登場人物が全部自分の写し鏡というのも根本的に他人に興味がないから、というのに起因してるのもわかっていて、でもそれが人間の本質の部分なので、ちょっとどうしようもないですね、という感じ。いくら説明されてもドーナッツの穴の部分をつかめ、という言われているみたいで。(で、この日常と他人がわからないっていうの庵野監督も同じような性質を持っていると思う。映画の中には日常と他人が存在しない。多分同じように生活と他人に興味がないんだと思う)まあ、そういうことがあって、でも対策をしていかないとな少しずつ。と思ってるところです。その人曰く、最近の漫画やほかコンテンツはその『ケ』の部分がメインになっている作品が多く、その部分をちゃんと書かないとその上にどんな物語を乗っけても上滑りしていく。ということだったので。そうかなあ、自分はそう思わないんだけどなあ。観測範囲の違いじゃないかなあ。ところでこのハレとケの話、突き詰めて考えていくと訳が分からなくなる。なぜなら、ケ、は物語になった途端、ハレ、になるからです。語られることのない日常が語られる何か。になる。華倫変の作品も日常のケの話ですが、それでも物語になってしまったらハレになりますし、大樹連司先生の『勇者と探偵のゲーム』も、ハレを送ることのできない普通の学生の語る誰かの物語ですが、しかし、物語になってしまった以上、彼も物語の主人公になってしまったというお話でした。誰も、物語で語られる以上物語の外に出ることはできない。ケ、を語る物語はそもそもそういうジレンマを抱えているんですけれども、そこまで考えなくても、まあ、簡単な部分で『ケ』を描いていけばいいのだと思います。キャンプ漫画とか、最近の趣味漫画とか、喫茶店巡り食堂めぐりとか。全て、『ケ』の物語ですし、そういうのを愛して物語を綴ればいい。自分はそういうのが愛せないので難しいですけれども。

今、無茶苦茶バズっている
意外と知られてない、すごく効果のある文章上達法|ふろむだ@分裂勘違い君劇場|note
こちらの記事。
記事全体へのコメントではなく断片への思ったこといくつかったので、ここにメモ。記事の要旨に対してのコメントではないです。
前半で語られてることの半分は『文章の圧縮技術』だと思うのですが、確かに圧縮された文章は脳に情報量がドドンと入ってくる感じがとてもよくて、自分も大好きですけれども、最近の文章や動画で語られる言葉のトレンドは、『冗長性のある、同じ事実を言葉を変えて何度も繰り返す文章』になっている気がします。その冗長性のある文章をみんな2倍速で見る。「大事なことなので1度しかいいません」VS「大事なことなので何回でも言います」の戦いですね。そういう風なトレンドの違いを自分は感じています。この変化がどうして起こったのか。分析すると面白いと思うのですが、しかし自分の観測範囲が狭いだけでそんなことはないのかもしれない。どうなんだろう。まあ、事実として勝手に分析しますが、多分、この世界に今、文字が溢れすぎているからだと思う。騒音の中では小さく大事なことを要旨を纏めてピンポイントでいうよりも、大声で叫んで何度も繰り返した方が相手に届くのだ。多分、最近のアニメや映画の「言葉で説明しすぎ」問題も同じ根っこがあるように思う。
あと、文章の上達技術として語られている

(1)優れた文章のどこがどう優れているかを、文章を書く人間の立場から精緻に言語化する。
(2)上記で言語化した「優れた文章の条件」を満たすように文章を書く。

なるほどその通り。絵の上達にも同じことを絵のうまい人が言っていて、まず『観察』そして『観察』(そして『資料を見て』)『実際に書いてみる』と。絵のうまい人が上達法を説明するとき、大体同じことを言っています。なるほど正しい。でもこれ、絵を描く才能のある人の絵が上手くなる手順なんだよね。本当に。絵が上手くない人は、まず、『観察』が出来ない。目で見ているだけで、理解したつもりになっても何も理解できていない。本当に『目が悪い』ので、本当にうまくなりません。ソースは私。同じように文章でも、文章を書く才能がない人は『読めないので言語化できない』『言語化したつもりでも言語化できていない』だから文章が上手くならない。弱った。上達できないひとは上達できない。これを打開する方法は一つあって。それは師匠を持つこと。師匠に手とり足取りどこが悪くてどこがいいのか教えてもらうこと。○付けをもらうこと。それが、絵も文章も上達する良い方法です。問題は師匠を見つけるのが物凄く難しいということだけれども。専門の学校や講座に行けば教えてもらうこともできるので、そういうのもおすすめですが、行った先の講師が自分に合った講師かどうかがわかりませんから。天才で書いてる人間は書けない人間がなぜ書けないのかわからないですからね。そういう人も言語化して文章を習得しているはずですが、多分日本語で言語化していない。独自の脳内言語で理解している気がします。そういうことが出来ない人にお勧めする二つ目の方法は『模写』『写経』ですね。目で見てわからないことが、実際に書いているうちにわかってくる。絵の模写の場合は、やってるうちに意味が分からなかった線やらそういうものの意味が見えてきますけど、文章の場合も、そこにあるリズムとか言い回しとか、そういうのが自然に見えてきて、『意味』が分かるようになってきます。なってくるんじゃないかな、どうなんだろう、自分の場合はそうだったけれども…。音読でもいいと思うのですが、文章が本当に書けない場合、まずそこから始めてみた方がいいのではないかと思います。フロムダさんの方法はもうある程度文章が書けて、色んなものを言語化できる状態になってから、の上達法だと思いました。言語化できる、観察できるというのはもうその段階で特殊スキルで、身についていないと使うことが出来ないもんです。

猫を殺す仕事。
以前、そういう漫画を描いていたのですが、そしてそういうタイプの漫画を描いていたのですが、そしてそういうタイプの漫画を集めて同人誌2冊ほど出したのですが。まだ、120ページくらいそういう漫画のストックがありまして。また、同人誌にしたいと思ってはいたのですが、時代的に難しい、というか旬を随分と過ぎてしまったような気がします。何処かで需要ありますでしょうか。Twitterで、以前の猫を殺す仕事系の漫画をアップしても思ったよりも反応が少なくて、今の時代、ああいう観念的で辛い感じのものは受け入れにくいのかもしれません。もっと、美しくて、物語のあるものでないと。なのかも。ああ、そういえば、自分にとって猫を殺す仕事は『ケ』の話ですし、そして、あれはうまく『物語の外側』を描けてると思いました。自画自賛ですけれども。

美しい絶望には需要がある。
みな、ケ、を、ハレ、にしたいのだ。さっきの話とはまた違うベクトルの話だけれども、みんな、詰まらない日常を意味のあるものにしたい、またはつまらない日常を破壊したい。そういう物語を求めているのではないかと思った。でも、自分には、その破壊したい日常という日常があまりないからわからないぞ。40を過ぎるといろんなものが『是非もなし』になって受け入れるようになってくる。40過ぎた人間の冒険のお話があんまりないのはそういう理由なのかもしれない。そういえば、異世界転生での最近の流行の方向性も異世界で日常を送る系の話が多いな。なんか、やっぱりそういう時代なのかな。

Twitterのお勧めにまだ慣れない。
ツイッターの「おすすめ」に慣れてきた - phaの日記
慣れないですね。おすすめされた記事を見に行くこともあるけれども(大体最近は絵ばっかりいいねしてるので、その方向性の絵がたくさん流れてくる)なんだろう、先回りされてる感じがして気持ち悪い。クリップスタジオのペンの補正を最大にして絵を描いてるときみたい。ただ、お勧め、をみて意識がタコつぼ化していくかというと多分そんなこともなくて。なぜならそれ以前に自分でフォロワーを選別してタイムラインを構築している時点で、『自分に合った世界』が出来上がっているからだ。お勧めはそれを手助けしているに過ぎない。ただ、友人のツイートを確認できないのはちょっと困る。タイムラインにその人が流れてきて、あ、そういえば今何してるんだろう、とその人のプロフィールまで行ってそこから遡ってみる、とかそういう見方をしている。Twitterの正しい使い方がわからない。最近フォロワーが400人を超えたのですが、もうこうなるとタイムラインの収集が付かない。2時間置くともう追いつかなくなる。多分、タイムラインで追いかけられるのは100人くらいが限界で、それ以上を越えるともう、たまたま見てそのタイミングで上がっているツイートを拾い読みする。という形になる。でも、ちゃんと追いかけて全部のツイートを拾わないと、っていう人もタイムラインの中にはいて、そういう場合はどうすればいいんだろう。イヤ、答えとしてはリストを作ればいいんだけれども。というわけで最近はリストも活用していて、Twitterの使い方がどんどんうまくなって言っている。でも、お勧めにはまだ慣れない。

こんな感じで一時間たちました。
一時間で5050文字くらい。

AIの未来って詰まんなかったな、って話。

結局こんな感じで昔から想像されてたありふれた未来に落ち着きそう。

機械が俺たちの充実した仕事を奪う件

学生の頃、飲食店のバイトで楽しかったのって提供の時のお客さんの反応とか嬉しそうなのとか見える部分が大きかったので、たのしい部分をロボが担ってバッシングだけを人間がやってるのを見ると、こう、やりがいみたいなの持ちづらくなるな〜って思っちゃった

これ以外にもさんざん言われてる
「絵は自分たちで描くので確定申告とか公共料金の手続きとか請求書描いたりとかAIにはしてほしい」
というのもあり。
結局なんかめんどくさい仕事は人間がやって(まあある程度はやってくれそうではあるが、しかし責任を取る部分では人間がしないとならないのでめんどくさいことには変わりない)楽しくて充実する仕事は機械に奪われそうな雰囲気はすごいある。ざっくりというと承認欲求や社会的欲求と呼ばれるものも含めて。

AIが人間に置き換わらない仕事は責任を取る仕事だと思ってたけれども違うみたい。

責任を取る仕事、保証とかではなく切腹、刑罰などの、感情的な責任含む。
前は、AIっていうのはあくまでも道具で、決断は人間がしないといけない、というようなことから責任を取る部分は人間に残された部分だと思ってけれども、でも、そうでもないっぽい。一人一台AIを所有するようになると、その所有者が責任をとるので、責任を取る以上AIに全ての判断を丸投げできる。

自動販売機社会との相性の良さ

自動販売機社会と、色んなものが自動化されていく現代社会。多分(id:p_shirokuma)先生あたりが言っていたのだと思うんだけども、現代はそういう風に進んでいる。で、色んな人が阻害されている。どういう人が、どういう理由で阻害されているのか。
めんどくさい客、自動販売機に対応できない客が今までなんとかなっていたのは店員に『責任を丸投げ』していたから。
自動販売機で判断できない、決断できないことを人間の店員が決定してくれる。厳密をやると店員はそんな責任取れないからしないが、そこは、なあなあでやってきてた。これがいいですよ最高です、って売れ残り売ったりしてた。
ひとりひとつAIを持つようになると、そのAIが判断する分には(その場合責任を取るのは自分なわけだが)問題ないので、どんな提案もできる。そして、本人が任せるならどんな外の自動販売機とのコミュニケーションもAIがやってくれる。
「なんか暑いので冷たいのが食べたい」『じゃあ富士そばに行きましょう』「来たけど何が食べたいかわかんない。適当に選んで(自動販売機以前ではここで店員に話して人間との対話が発生してた)」『適当に冷やした抜きそばを選びました』「なんか違うんだよなあ」『すいません』
お母さんか、ドラえもんが常に同伴してくれてる状態で、自動販売機社会で疎外される人が(疎外されてるわけだけど)疎外されない。

人間に残された、残されるべき、感情を使う仕事

結局、最後に残る人間の仕事は感情しかないのではないか。と思っていた。
誰かのサンドバックになる仕事。誰かの暴力の対象になることで支払われる対価。売買春もその一つだし、コールセンターの給料の中にその感情労働も含まれてる…と思う。そういう、『この怒りを人間を殴ってすっきりしたい』という明確な悪意から『寂しいから人間に慰めてほしい』という一方的な好意ややさしさの要求まで。
だけれども、

誰かを肯定するという仕事は、まず間違いなくAIに取って代わられる。
感情/配慮とは有限の『資源』だ。だが人間はそれを認めたがらない。認めないことによって心の優位性を保っているから。
配慮されずとも配慮を捻出できるAIは、感情という資源をたくさん使う現場にこそ、実用性があると思う。
配慮をたくさん消費する現場というのは教育、介護、そして風営接客だと思う。

と、SF作家の人間六度先生がおっしゃっていて。
なるほど、今の予測される未来からはそちらの方がありえそうな未来だと思った。
人が、AIに人格を見ることができるのなら、名前を付けてパーソナリティを見つけることができるのなら、その彼、彼女からの承認や褒めは本物になるだろうと思う。
惜しみない愛を全員に注ぐ。AIはまるで神様みたいだが、しかし、愛というものは選別するから愛であるのであって、無批判に全員に向けられる愛は愛ではないのではないか、と思うが、多分、未来のAIは個々が独立して対象とそれ以外を分別してくれるようになると思う。技術的には簡単だし。

先の段落と合わせると、AIは『楽しい仕事』を人間から奪い、それによって社会的欲求や自己実現欲求を奪った後、無批判の承認欲求を与えるというマッチポンプを行う!

AI技術と、機械が俺たちの仕事を奪うことと、高福祉社会と、差別のない社会、資本の再分配が上手くマリアージュしながら進まないと地獄しかない

まあ、これは説明するまでもないけれども。
19世紀から比べて、物理機械(コンテナ、重機)が進歩し、概念機械(計算機、コンピュータ、インターネット)も格段に進化したけれども、私たちの労働時間は減ってないし、むしろ増えていさえする。なんでかわかんないけど。本当になんでなの?わからん。誰か説明して。消費が加速して今まで家庭で済ましていた李諦めていたものを外注できるようになったから?寝るまも惜しんでネットフリックスをみているけれども、其れだってそういうことをするのにどれだけの人的資源が使われているか考えたことある?考えてもよくわかんないけど結構な人的資源が使われてるんじゃないかな。コンビニだって24時間空いてるし。そういうところに人的資源って使われてるのかしら。
まあ、そんなこんなで労働強化。

で、AIがこの先世界を支配するようになった時、どうなるかわからない。

こないだまで想像されていた地獄みたいな未来予想に、発達障害やそれ以外の理由で社会に適応できなかった人間を『障碍者』とみなして、最低自給以下の賃金で雇用するというものがあったのだけれども、AI社会において阻害される人間というもの、また、役に立たないとみなされる人間は、今までと全く違ってくるはずだ。
今までの社会で求められていたものは。つまり資本家に求められていたものは、少数の牧羊犬と大多数の羊だった。しかし、今この言葉の意味を改めて思うのは、『羊』というのは何も考えないという意味ではなくて、羊として考え、羊として行動する個体、という意味だったのだと思う。AI以後は、羊としての考えも不要になって、…なんだろう、どうなる?あんまり考えたくないな。



みんな猫になる。





はてなハイクの非公式マスコット、はいく野あい子さん

neguran0.hatenadiary.jp
の記事で、はてな手書きブログというものを知ったので使ってみた。



すごい難しかったけど…。
はいく野あい子さんを描いてみたよ。

(後で調べたら手書きブログとは違うお絵かきの奴だった。右側のコマンドのところに『絵を描く』っていうのがあってそれかと思った)
(手書きブログ試したらうまく動かなかった)
tegaki.hatelabo.jp



はいく野あい子さんというのは、今はなき『はてなハイク』の非公式マスコットキャラクターでみんなに愛されていたんだ。
そんな今はもうないはてなハイクだけれども…。実はまだあります。

h.sudo.ne.jp

こちらでコミュニティがそのまま維持されて続いてて。
こういうのすごいいいですよね。


追記

クリップスタジオで書きました。はいく野あい子さん。

はいく野あい子

こういう絵が一枚でも上がると存在級位が上がっていくんだ。
あい子さんの絵、はてなハイクが終了したとともに消えて、存在しなくなってしまったから……。
サービスが終わってログごと消えるってことは悲しいことです。yahooブログもライブドアもみんなみんないなくなってしまった…。mixiはなぜか復活しました。