orangestarの雑記

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40代、花譜さんに出会って人生が変わった

fujipon.hatenablog.com

緩く募集、ということなので、自分の場合を書いていこうと思います。自分の場合、去年まで悶々としていたのですが、今年の1月ごろ、花譜さんというアーティストと出会い、色々と自分の中身の整理がつくようになりました。中年の危機といったような状態だったのが、ある程度解消されたような気がします。ただ、実際の中年の危機の本番はこれから来るのかも知れないですけれども。

花譜さんというのはvsingerです。vsingaerというのはvtuberの歌い手で、vtuberというのはバーチャルなポリゴンの外側を被った生身の人間です。そう、vtuberというのは生身の人間なのです!

花譜さんはそんなvsingerで、にほんのどこかにいる18さい。14歳の時に見いだされて、今年で4周年目を迎えます。先の8月には日本武道館でワンマンライブもありました。僕も行きました。人生初のコンサート体験でした。素晴らしかった。


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こちら、そのライブの様子です、歌声が素敵です。カンザキイオリさんの歌詞と曲も素敵です。わかる人にはわかると思うのですが、この曲を聴くと自分のなかのまだ10代だったころの敏感な部分が呼び起されて、何もしてないのに涙が出るなどの症状が引き起こされます。最近、花譜さんに嵌った知人が同じような症状にかかっていて、指さして笑っています。

人生で初めてのライブとして花譜さんのライブに行った件

そして、今年の8月、その花譜さんのライブに行きました。先にも書いた通り、日本武道館でした。初めてのライブでしたが、花譜さんの主なファン層は10代~20代。そういう中に行くなんて…、と逡巡していたのですが、そういう自分を嫁が背中を押してくれました。いい嫁です。ありがとう。そしてライブに行ったのですが、本当に素晴らしかった。人生初の体験でした。

そうはいっても自分はやっぱり魔法にかかりにくい人間なので、おそらく本当にライブを楽しめる人ほど楽しめては無いのですが、作り手や観測者(花譜さんのファンのことをこう言うのです)が頑張って魔法を作ろうとしてるのを感じていたら自分も魔法を使えるようになりました。
構成もすごく良かったです。
始めてライブに行って思ったのは、スクリーンで見るのと違って、そこに生身の肉体があり、そして其れから伝わる圧力というものが凄く重要なのだと思いました。やはり生身の人間がそこにいるというのは強い。
スクリーンに映された絵、だというのは頭ではわかっているのに、でも、確かにいるんですよ。そこに。

演出も、【花譜という物語】を体験してもらおうという方向で作り込まれていて【物語】を本当に重視してました。14歳でデビューして、その年齢年齢で歌われた曲。様々な曲の中で繰り返されるフレーズ。でも、時間や環境が変わることによって、その言葉の意味も変わっていって、積み重ねられた時間の厚さが、そのまま存在感の厚さになって。本当に素晴らしかったです。
すごく楽しかったし、そして、自分も本当に頑張ろうって思えた。

コンサートの後、人をコンテンツにすることについても脳の別レイヤーで考えてました。バーチャルシンガーなので別の肉体があって、キャラクターは本体に依存するけれども中の人と『花譜』は別存在なわけですよ。それについて、ちょっと、凄く、反省するところがあって。そういう人をコンテンツにする暴力性について。そういえば801ちゃんと構造は同じだなと……
もちろん、規模とか、才能とか、そういうのは比べ物にならないのですけれども。人の一部を切り取ってキャラクターとしてパッケージしてしまうことの乱暴さについて考えたりしてました。
そして、中の人がそのパッケージに耐えられるのかという問題もそこにはあって、そういう意味で花譜さん(の中の人)も怪物なのだろうなとも思いました。どこにでもいる女の子がその内側に怪物を飼っているというのも花譜さんの物語なんです。

コンサートの終盤で「生まれ変わらなくても会いにいくよ、十年後、20年後の君へ」というようなセリフがあり(うろ覚え)それを聞いたとき、恐怖したんです。その時はわからなかったんですけど思い返すとあれは恐怖という感情でした。人は時間を経れば、本人が望んでいても望んでいなくても、良いようにも悪いようにも致命的な変質をしてしまうことがあり、そしてそれは不可逆で、その前後で全くの別人になってしまうことがあって。でも、そういう変質を含めて『花譜』と、その観測者を定義する、という宣言のような気がしました。

自分も、まだまだ変わるし、変われるし、未完成で未観測な存在なんだって、そう思えたんですよ。本当に。(まあ、自分もずっとorangestar(未完成)を名乗っているのですれども)

で、中年の危機の話。

中年の危機。花譜さんに出会う前の自分は確かに中年の危機の状態にあったと思います。今でも、色々と焦燥感や無力感はありますが、でも、あの当時持っていたような虚無感はだいぶ薄れたと思います。

一般論としていうならば、誰かを好きになるということ、そしてそれを追いかけるということ。例えばアイドルに嵌るとか役者に嵌るとか、架空の存在でも誰かを好きになりそして、それに対してアクティブになる、ということである程度中年の危機から離脱できるのでは(というかそれどころではなくなるのでは)と思ったりしました。年甲斐もなくアイドル(vtuber)に嵌るなんて……と思ってそういう気持ちに蓋をしないで、好きな『人間』を見つけて、それに飛び込んでいくことが、中年の危機を脱する一助になるのでは?と思いました。


私個人のことなので、参考になるかはわかりませんが…。個人知の集積がインターネットだと思うので…。参考にしてみてください…。

観測

観測

  • KAMITSUBAKI RECORD
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以前書いた自分の中年の危機の話です。
orangestar.hatenadiary.jp

なんでスーパーの店員さんやバスの運転手にありがとうっていうの?







最近ツイッターで漫画貼ってばっかりだったので。はてな向きな漫画だと思ったので。


竜とそばかすの姫の感想日記

いぬじんさんが『竜とそばかすの姫』を見たというので、感想を読みたい!と言ったらまさかの感想を書いて貰えたので、それじゃあ自分も書かないわけには行かないなと思い、竜とそばかすの姫の感想を自分も書こうと思ったのだけれども、いぬじんさんの感想のあとだとどうしても平凡な感想になってしまいそう。いぬじんさんの感想は典型的な竜とそばかすの姫の感想ではなく本当にいぬじんさんしか書けない感想だった。こういう風にありたい。自分も。

inujin.hatenablog.com

竜とそばかすの姫。自分が見たときの感想は、よくtwitterやそのほかのブログで書かれているのと同じようなものでした。よい部分は『絵作りがすごく綺麗』、『キャラクターが魅力的』『思春期のどうしようもない心情(憧れや劣等感、世界への絶望)が描かれててすごい』とか、悪い部分は『インターネットなのに自分のなりたいものになれないのか…』とか『インターネットなのにやり直せないのか…』とか作中で描かれる地獄インターネットの様子だったり、あと、児童虐待に対しての児童相談所の職員の対応の描写についてだったり、子供を一人で行かせる大人だったり、感動的な絵を作るために色々なものをないがしろにしている感じや色々な要素を無理やりにつないでいる感じがすることについての、うーん、これは……。というような、そういうものになってしまう。凡百だ。もう少し自分の視点を持たねば。それは、いぬじんさんの感想のように、細部に目を向けるということなのかもしれない。自分自身と共鳴する小さな細かい部分、そこに対する感想が(例え的外れに見えても)語るべき正しい感想なのだと思う。

作中で描かれるたくさんの正義

作中では、たくさんの『正義』が描かれる。それぞれの人間が、『正しい』と思うことや『仕方のない』ことを『正しい』と自分に言い訳しながら『行使』する。それは男の子の正体を探って助けたいって思うベルたちも同じだし、子供を助けるために川に飛び込んでいった母親も同じだ。ネットでコミュニティの敵になる人間を叩きてる人間も自分のことを正しいと思っているし、ラフファイトをするプレーヤーを多人数で袋三和土にするプレーヤーも自分のことを正しいと思ってる。男手一つで子供二人を育てて、生活のために一生懸命働いて、それを邪魔する息子を躾けるのことを正しいと思ってる。たくさんの正しいがある。それはどれも正しくて、仕方なくて。でも、どこに目線を置くかを決めると、客観的に見ている人間には『本当に正しい正義』が俯瞰的に見えてしまうようになる。これは少し怖いことだと思う。これは映画だからいいけれども、ニュースであったり、ネットでの言説であったり、新聞記事であったり、人のうわさであったり、客観的に見てるつもりでも、誰かの『見せたい主観』の目線で見せられている。この作品に出てくるお父さんだって、(まあお父さんの行いは現代の社会では完全にアウトだけれども)見方によっては『かわいそう』な人だって見ることもできる。本当に救われるべき人間はお父さんだって見方もできる。(そしてお父さんも他の人間と同じように救われるべきなのだ、あのネットでアバターをはがした人だって救われるべきなのだ)
大切なのは正義を振りかざすことじゃなくって、優しくなることだと思うのだけれども、それはとても難しいな、と思う。

そんなことも見ながら考えた。

発掘。2017年ごろの未公開が結構出てきたのでアップ。

若かったなあ……。ただ、今よりも確実に面白い。若さってあるよな……。若さってやっぱり創作にとってとても大事だ。

もしかしたら、別のブログの方に更新してたかもだけど、そっち、消えてしまったからな……。

大人になればなるほど、大人になるっていうことがわからない。

アラフォーなんですが。大人になるということがわかりません。歳をとる度にどんどんわからなくなる。

10代のころは大人になるっていうのは『詰まらなくなること』だと思ってた。楽しいことがなくて、自分のしないといけないこと所謂仕事とか責任とか言われているものを担々とこなしていかないといけない生き物だと思ってた。ゲームとか漫画を読んだり、物語の中に没入したり空想の中を泳いだり、そういうことをしなくなるのが大人だと思っていた。耐えて我慢して、自分を殺して生きていくのが大人だと思っていた。(これは専業主婦をしていた母の影響が大きいのだと思う)

20代のころ。もう自分が年齢的には大人になっていて、そんな自分が思っていたのは、仕事をちゃんとこなすこと。周りと協調し、利害を調整し、一番いいように自分と周りをコントロールすることだと思ってた。言い方を替えれば社会の歯車になること。そしてそれなりにうまく歯車をやって行けていたと思う。力を受けて、それを適切な相手にトルクを変えて伝える。交換可能になるように適切にリストと資料を整理して議事録を残す。まあ、途中で調整しきれない周りの状況(ダブルバインド)で、潰れて鬱になって人生の長期休暇に入ってしまったのだけれども。

30代になって思ったのは、ちゃんと大人をしてる人間はちゃんと人生を楽しんでいるということ。仕事の合間に趣味に走る人間もいれば、ワーカホリックになって仕事を楽しむ人。大人っていうのは、自分で自分の舵取りをすることができる生き物のことなのと思った。周りの環境でそれができない人もいるけれどもそれでも、自分の裁量を確保して何とかやってくっていうのが大人なんだと思うようになった。大人というのは、見方によっては子供よりも自由だ。大人で輝いてる人間は子供よりも自我を通して、そして、子供と違って自分のしたいことを実現していった。大人になってからの10数年の蓄積で力があるからだ。それが、ちゃんと大人をやるってことなんだな、と思っていた。ここらへん、自分はうまく大人をやれてなかったと思う。生活と人生を回すために自分の楽しいこととかを削除していってどんどん空っぽになっていったのが自分の30代だった。

40代になって、大人になるっていうことがわからなくなった。いや、自分が年齢的には大人以外の何物でもないものだっていうことはわかるし、大人としてやることはやってると思うけれども。でも大人って何かがわからない。能力でいうなら年齢を問わず10代でもやることをやれる人間はいる。経験値なら年長者の方が大きいけれども、例えば全然別の分野に移動したりしたときは、それはリセットされてしまう。人生何があるかわからないから、ある程度歳をとってから別ジャンルに移動しないといけないことも多々ある。色々と自分の中で飲み込んで、正しい判断ができるのが大人だとも思うけれども、じゃあ、正しい判断ってなんだ、とも思う。結局それも経験からしか得られないし、それは時代が変わり価値観が変わると意味がなくなってしまったり、害悪である可能性する。だから今は価値観のアップデートが叫ばれているのだけれども、じゃあ、同時アップデートされた価値観でこの世界が回っていくのなら、大人とか子供とか、そういうのって関係なくなるんじゃないか。結局、歳をとる、ということ以外で、大人を定義できないんじゃないか。いや、そんなことはない、っていうことはわかる。でも、じゃあどうなんだ、立派な大人、理想的な大人になるってどういう風になることなんだ。そういうことを考えなくなることが大人なのか?どうなんだ。


さて、ここで、お待ちかね、論語を張っていきますね。ここまで読む間に論語を頭の中で思い描いた人間、手を上げてください。

子曰(のたま)わく、
吾十有五(じゅうゆうご)にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、
六十にして耳従(したが)う、
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。

翻って自分です。
40ですが惑ってる。
基礎もできてないし(立ってない)『耳従(したが)う』と『心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず』を世間から強いられる日々です。
でも、最近、ちょっとやりたいことや好きなことが見つかってきた。『学を志す』にはもう結構な年なのだけれども、そして大人気ないかもしれないけれども、自分のしたいことをしたいようにやってみてもいいのかもしれないと思うようになった。それが正しい大人のふるまいなのかはわからないけれども、わからないんだから、自分の欲するようにやっていこうと思う。