orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

なんでスーパーの店員さんやバスの運転手にありがとうっていうの?







最近ツイッターで漫画貼ってばっかりだったので。はてな向きな漫画だと思ったので。


竜とそばかすの姫の感想日記

いぬじんさんが『竜とそばかすの姫』を見たというので、感想を読みたい!と言ったらまさかの感想を書いて貰えたので、それじゃあ自分も書かないわけには行かないなと思い、竜とそばかすの姫の感想を自分も書こうと思ったのだけれども、いぬじんさんの感想のあとだとどうしても平凡な感想になってしまいそう。いぬじんさんの感想は典型的な竜とそばかすの姫の感想ではなく本当にいぬじんさんしか書けない感想だった。こういう風にありたい。自分も。

inujin.hatenablog.com

竜とそばかすの姫。自分が見たときの感想は、よくtwitterやそのほかのブログで書かれているのと同じようなものでした。よい部分は『絵作りがすごく綺麗』、『キャラクターが魅力的』『思春期のどうしようもない心情(憧れや劣等感、世界への絶望)が描かれててすごい』とか、悪い部分は『インターネットなのに自分のなりたいものになれないのか…』とか『インターネットなのにやり直せないのか…』とか作中で描かれる地獄インターネットの様子だったり、あと、児童虐待に対しての児童相談所の職員の対応の描写についてだったり、子供を一人で行かせる大人だったり、感動的な絵を作るために色々なものをないがしろにしている感じや色々な要素を無理やりにつないでいる感じがすることについての、うーん、これは……。というような、そういうものになってしまう。凡百だ。もう少し自分の視点を持たねば。それは、いぬじんさんの感想のように、細部に目を向けるということなのかもしれない。自分自身と共鳴する小さな細かい部分、そこに対する感想が(例え的外れに見えても)語るべき正しい感想なのだと思う。

作中で描かれるたくさんの正義

作中では、たくさんの『正義』が描かれる。それぞれの人間が、『正しい』と思うことや『仕方のない』ことを『正しい』と自分に言い訳しながら『行使』する。それは男の子の正体を探って助けたいって思うベルたちも同じだし、子供を助けるために川に飛び込んでいった母親も同じだ。ネットでコミュニティの敵になる人間を叩きてる人間も自分のことを正しいと思っているし、ラフファイトをするプレーヤーを多人数で袋三和土にするプレーヤーも自分のことを正しいと思ってる。男手一つで子供二人を育てて、生活のために一生懸命働いて、それを邪魔する息子を躾けるのことを正しいと思ってる。たくさんの正しいがある。それはどれも正しくて、仕方なくて。でも、どこに目線を置くかを決めると、客観的に見ている人間には『本当に正しい正義』が俯瞰的に見えてしまうようになる。これは少し怖いことだと思う。これは映画だからいいけれども、ニュースであったり、ネットでの言説であったり、新聞記事であったり、人のうわさであったり、客観的に見てるつもりでも、誰かの『見せたい主観』の目線で見せられている。この作品に出てくるお父さんだって、(まあお父さんの行いは現代の社会では完全にアウトだけれども)見方によっては『かわいそう』な人だって見ることもできる。本当に救われるべき人間はお父さんだって見方もできる。(そしてお父さんも他の人間と同じように救われるべきなのだ、あのネットでアバターをはがした人だって救われるべきなのだ)
大切なのは正義を振りかざすことじゃなくって、優しくなることだと思うのだけれども、それはとても難しいな、と思う。

そんなことも見ながら考えた。

発掘。2017年ごろの未公開が結構出てきたのでアップ。

若かったなあ……。ただ、今よりも確実に面白い。若さってあるよな……。若さってやっぱり創作にとってとても大事だ。

もしかしたら、別のブログの方に更新してたかもだけど、そっち、消えてしまったからな……。

大人になればなるほど、大人になるっていうことがわからない。

アラフォーなんですが。大人になるということがわかりません。歳をとる度にどんどんわからなくなる。

10代のころは大人になるっていうのは『詰まらなくなること』だと思ってた。楽しいことがなくて、自分のしないといけないこと所謂仕事とか責任とか言われているものを担々とこなしていかないといけない生き物だと思ってた。ゲームとか漫画を読んだり、物語の中に没入したり空想の中を泳いだり、そういうことをしなくなるのが大人だと思っていた。耐えて我慢して、自分を殺して生きていくのが大人だと思っていた。(これは専業主婦をしていた母の影響が大きいのだと思う)

20代のころ。もう自分が年齢的には大人になっていて、そんな自分が思っていたのは、仕事をちゃんとこなすこと。周りと協調し、利害を調整し、一番いいように自分と周りをコントロールすることだと思ってた。言い方を替えれば社会の歯車になること。そしてそれなりにうまく歯車をやって行けていたと思う。力を受けて、それを適切な相手にトルクを変えて伝える。交換可能になるように適切にリストと資料を整理して議事録を残す。まあ、途中で調整しきれない周りの状況(ダブルバインド)で、潰れて鬱になって人生の長期休暇に入ってしまったのだけれども。

30代になって思ったのは、ちゃんと大人をしてる人間はちゃんと人生を楽しんでいるということ。仕事の合間に趣味に走る人間もいれば、ワーカホリックになって仕事を楽しむ人。大人っていうのは、自分で自分の舵取りをすることができる生き物のことなのと思った。周りの環境でそれができない人もいるけれどもそれでも、自分の裁量を確保して何とかやってくっていうのが大人なんだと思うようになった。大人というのは、見方によっては子供よりも自由だ。大人で輝いてる人間は子供よりも自我を通して、そして、子供と違って自分のしたいことを実現していった。大人になってからの10数年の蓄積で力があるからだ。それが、ちゃんと大人をやるってことなんだな、と思っていた。ここらへん、自分はうまく大人をやれてなかったと思う。生活と人生を回すために自分の楽しいこととかを削除していってどんどん空っぽになっていったのが自分の30代だった。

40代になって、大人になるっていうことがわからなくなった。いや、自分が年齢的には大人以外の何物でもないものだっていうことはわかるし、大人としてやることはやってると思うけれども。でも大人って何かがわからない。能力でいうなら年齢を問わず10代でもやることをやれる人間はいる。経験値なら年長者の方が大きいけれども、例えば全然別の分野に移動したりしたときは、それはリセットされてしまう。人生何があるかわからないから、ある程度歳をとってから別ジャンルに移動しないといけないことも多々ある。色々と自分の中で飲み込んで、正しい判断ができるのが大人だとも思うけれども、じゃあ、正しい判断ってなんだ、とも思う。結局それも経験からしか得られないし、それは時代が変わり価値観が変わると意味がなくなってしまったり、害悪である可能性する。だから今は価値観のアップデートが叫ばれているのだけれども、じゃあ、同時アップデートされた価値観でこの世界が回っていくのなら、大人とか子供とか、そういうのって関係なくなるんじゃないか。結局、歳をとる、ということ以外で、大人を定義できないんじゃないか。いや、そんなことはない、っていうことはわかる。でも、じゃあどうなんだ、立派な大人、理想的な大人になるってどういう風になることなんだ。そういうことを考えなくなることが大人なのか?どうなんだ。


さて、ここで、お待ちかね、論語を張っていきますね。ここまで読む間に論語を頭の中で思い描いた人間、手を上げてください。

子曰(のたま)わく、
吾十有五(じゅうゆうご)にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、
六十にして耳従(したが)う、
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。

翻って自分です。
40ですが惑ってる。
基礎もできてないし(立ってない)『耳従(したが)う』と『心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず』を世間から強いられる日々です。
でも、最近、ちょっとやりたいことや好きなことが見つかってきた。『学を志す』にはもう結構な年なのだけれども、そして大人気ないかもしれないけれども、自分のしたいことをしたいようにやってみてもいいのかもしれないと思うようになった。それが正しい大人のふるまいなのかはわからないけれども、わからないんだから、自分の欲するようにやっていこうと思う。


『プロメテウスの石皿』見てきました。7/1 14:00回

昨日、麻草さん(@asakusan)脚本演出の プロメテウスの石皿 の公演に行ってきました。面白かったです。本編も面白かったけどそれ以外のところも面白かった。(そこも含めてこの公演なのだけれども)。今まで噂には聞いていた新宿眼科画廊に初めて行きました。眼科とついているけれども眼科ではない、様々なアーティストの展示をする一風変わった画廊で、そこの地下階で行われた公演でした。

secret1972.com

とにかく、会場が狭い。間口が2間しかなくて、奥行きも6mくらい。天井も低くて照明も吊れない。
とにかく客席と舞台が近い。そういう場所でどういう演技プランをやるのか、なにができるのか。そういう諸条件から逆算して作られたような舞台でした。
間口を舞台にしては成り立たないので、どこに舞台を設けるかの工夫や、天井の低さから『舞台の段を作れない&照明も用意できない』のにどうやって空間を仕切るかとか。

実際の舞台の配置の仕方は、別図のようになっていて、お客さんが25~30人程度しか一公演に入れないという、本当に贅沢な舞台になってました。贅沢だった。


(※元画像は新宿眼科画廊のホームページからお借りしましたhttps://www.gankagarou.com/price/

いい意味で中学、高校の演劇部の学校公演のような舞台でした。
演技、演出の種類というのは客席との距離(距離といっても物理的な距離と精神的な距離がありますが、大体これはは比例する)によって、演技の種類というのは変わっていって、例えば、オペラや大劇場でする演技と、小劇場の客席との距離が近い演技では全く違ってきます。

ざっくり書くと遠距離では大仰な演技、近距離では誇張のない演技。適切な物理的距離と精神的距離を調整しないと、とても不自然でちぐはぐな感じになってしまう。そして、この舞台ではさらに近くて、舞台と客席を隔てるものはガムテープ一枚しかない(段差すらない)

舞台が舞台であるには『ここからここが舞台で、ここで行われていることはそちらとは世界が区切れていますよ』という『宣言』が必要で、それがガムテープ一枚しかない。照明で行われることもあるが、照明も場を青くするのとと奥に飾ってある仮面を照らすものしかなく、今回はそれは使えない。

なので、その宣言を成り立たせるために演出でいろいろなことが行われていた。それが面白かったです。冒頭から入る異質な歌唱や全員で仮面をかぶって『宣言』を行うことなど、『ここは異質です、この線から先は異界です』を成り立たせるためのアイデアがささやかながら色々ちりばめられていて、勉強になった。

結果的にそれが、中学生、高校生の学校公演で感じる異質さに似ていて、(おそらく類似の効果をもたらすために収れん進化したのだと思う)それがとても興味深かった。

公演後のトークで、練習期間がとても短かった、合計9時間くらいしか来れない子もいた、新人、ほぼ初舞台の子が二人いる、ということを聞いたのですが、それを感じさせないくらい女優の皆さんの演技もよかったです。歌唱パートが大変だったということだったんですが、作品の雰囲気を象徴していてあって本当によかったなと思いました。公演後に朗読劇があったのだけれども、なんと、当日の朝に台本が上がったということがトークで明らかにされました。ほぼ初通しのような状態で朗読劇が始まったのですが、みんなよどみなく、キャラクターが入った状態の掛け合いも自然で、「ああ、本当に、プロだな…」と思わされました。プロの仕事だった。



舞台で使われた仮面や使われなかった仮面の展示が1階でありました。(坂藤秀峰さん(@mojya2_syuho)プロデュース)

そちらもよかったです。本当によかった。展示の場所は新宿眼科画廊の1階の奥でちょっとわかりづらい場所にあるんですけれども、一見の価値ありです。エキゾチックだったり厄かったりと。あと、オーパーツ的な仮面があったりと、非常に面白かったです。