orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』やっと読めた。

やっと読めた。

 歳をとると、めっきり本を読むのが遅くなり、また、いろいろと忙しくまとまった時間がとれなくなってそもそも本を読めなくなりますね。ようやく読むことができました。随分読み切るのに長い時間がかかってしまった。
(id:p_shirokuma)先生の2020年の本、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』。ひと言でいうと、『とても丁寧な本』でした。
 論理の飛躍や、刺激的な言葉を使わず、資料や歴史的な事実、研究をベースにして、理論や推察の根拠を示しながら、論を進めていくという、手堅く誠実な本でした。誠実過ぎて、わかりにくくなってる部分もあったけれども。例えば所謂排除アートに対して、『その場所に滞在しづらいオブジェ』というのにとどめていたり。あと、本自体はとても丁寧でしたが、専門用語の注釈を巻末につけた注釈に頼るところが多く、文中でもう少し説明してもいいのでは、とも思った。
 本の内容としては、はてなブックマークで話題になっている部分や、シロクマ先生のブログで度々記事になっている部分とかぶる部分が多かったです。例えば、社会が個人に求める資質のコストが大きくなりすぎ、その結果、発達障害と判断される人間が増えてきたということや(戦後や昭和には、そのような性質をもつ人間を受け入れる隙間が社会にあった)子育てのコストが過大になり、少子化が進んでいるだろうということなど。ただ、そこら辺のことが、ブログの記事よりも、順を追って丁寧に描かれています。

特に気になった部分『アーキテクチャとコミュニケーション』環境のデザインによって左右される個人の行動

 そして、あまりブログでは語られていない6章の、『アーキテクチャとコミュニケーション』の話が面白かった。(この内容に関することは、全部の章の底の部分に伴奏として流れてはいるのだけれども)
 パノプティコン型病棟と、開放的な病棟を例に引き、その環境のデザインの仕方が患者の行動の自己決定の方向を促しているというところから、この社会全体が、『環境のデザイン』によって、人の行動と思考をコントロールしているのではないかと、仮説を展開しています。そして、その『環境のデザイン』というのは、物理的な環境(都市設計のデザイン、共同住宅のデザイン、など)にとどまらず、twitterや、facebookなど、インターネットのインターフェイスやサービス、政治(政策など)によっても人の行動が決定されるのではないかと論を展開しています。これは自分も実感としてあって、例えばはてなのサービスは、人と人とが衝突、対話しやすいようにデザインされていた。*1(そしてそのデザインは今修正されつつある)
 そして、そのデザインというのは、デザインする側の思惑で設計されるのではなく、市民や利用者からの要望をくみ取る形で実装され、そしてその実装されたアーキテクチャから『メッセージ』を受け取った人間が、そのメッセージを内面化し、そして、その内面化されたメッセージからでる要望が、さらに環境のデザインを決定するという、相互に参照しながら先鋭化していくという状態にあると自分は思っていて、その結果が、過剰なキャンセルカルチャーであったり、エコーチャンバーによるたこつぼ化したコミュニティーと、それによる分断であったり、それぞれのコミュニティーの対話不可能性であったりするのだと思う。最適化されたデザイン、社会には『遊び』の部分がない。
 全体を通してみたこの本の感想は、社会がどのように『最適化』され、『遊び』(遊びは言い方を変えると『不潔』であったり『不道徳』であったり『無秩序』であったり『不健康』であったりするのだと思う)の部分が排除されていったのか、ということをヨーロッパの近代化の歴史を参照しながら、紐解いていくというというものだった。
 そして、その結果、みんな生きにくくなって、自分を常に『最適化』しながら生きていかないといけないし、それって不自由だけれども、でも、どうしたらいいのかわかんないよな。って本でした。
 本当にどうしたらいいんだろうね。

あと、副読本?としておすすめの本

 おすすめです。
 澤村伊知さんの『ファミリーランド』
 
 ぼぎわんが来る!の澤村先生の短編集です。
 『健康的で(中略)について』のなかで描かれている、清潔と秩序、道徳が行き過ぎた社会の不自由さとシリアスに、そして滑稽に描いているSFの名作です。全体的に暗い目の話が多いですけれども最後の話は本当に心温まるので、ぜひ読んでみてください。『健康的で(中略)について』でもページを割かれている、今の健康的な社会から排除されている『匂い』や『死』、『基準から外れた子供の育て方』などがこの作品の底にのったりと流れています。
 あと、「精神科のお医者様は本当にたくましい想像力をお持ちですのね」という定型文も出てきます。
 とても面白いので、ぜひ読んでください。澤村先生のほかの、予言の島もおすすめです。


 


シロクマ先生の新刊『何者かになりたい』
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こちらもよろしく。
 
 
 
 
 

オリンピックの後の話。

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オリンピック


これからどんなことになるかわからないから(そしてここ数年の経験上何が起こってもおかしくないと思ってる)誰がどんなことを言ったかは覚えておこうな。

mainichi.jp

東京オリンピック・パラリンピックについて、「歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している」と批判した。東京オリンピック・パラリンピックについて、「歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している」と批判した。

https://mainichi.jp/articles/20210703/k00/00m/010/034000c



追記0711

www.asahi.com

皆さんに政治はよくやったと思ってもらえるような、思い切った、ある意味、異次元の対策を打っていかなければならない。

https://www.asahi.com/articles/ASP7B64RVP7BUTFK009


nordot.app

 自民党の安倍晋三前首相は11日、北海道苫小牧市で講演し、秋までにある次期衆院選への危機感を強調した。不調だった東京都議選に触れ「自民党に対し、厳しい風が吹いている。都議選の結果もそうだった。私たちは謙虚に受け止めなければいけない」と述べた。

https://nordot.app/786833784310693888

 ほらなーーーといったような気持ち。

動物化するインターネット

これも2019年4月に書いた漫画で、更新のタイミングを失ったまま、ずっと失い続けてたんですけれども、今更新しないと永遠に更新できない気がしたので更新します。


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2019年は物凄い数のvtuberが誕生して、vtuber戦国時代だったんですが、今はもう、企業とそこに所属するvのものといったように潮目が変わりましたね…。
時代の流れは速い……。


なのに僕たちはまだ、ゼロ年代の亡霊を追いかけている……。


近況。萌えとエモいがわからない話。ほか5つ。

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クリスタ練習

文章感を戻すためになにかとりあえず手を休めずに文章を書いてみる。

 いろいろなことがまあ、落ち着いて?少し時間が取れるようになったので、少しずつ調子を戻していこうと思う。とりあえず文章感を戻すために、手を止めずに30分くらいだらだらと文章を書いてみる。しゃべるみたいに。前はこういう風にいくらでも文章をかけたんだけれども今は何を書いていいのかあんまりわかんない。これ書いちゃダメなことだな、とかとこれかいて面白いのかなって思うことが多くて。

新しい猫が来た。

 うちには今、ネコが4匹いる。
 もともと4匹だったのが、2匹なくなって2匹増えた。
 もともと、オシオ、ゴマ、イリ、マメの4匹がいて、オシオとマメが4年前と3年前に亡くなった。それからずっと二匹で暮らしていたのだけれども、ひょんなことで、小黒という白黒の猫をもらうことになった。それが今年の1月の話。
 でも、ちょっと困ったことがあって、小黒がネコカリシウイルスを持っていることが分かり、大人猫にかかると致命的になることもあるということで、隔離することに。それで、6か月くらい隔離になって、やっと大人猫と会えることには巨猫になっていた。そして動く。動く。若い盛りなので、運動量が多い。大人猫と追いかけっこをしたがるのだけれども、大人猫はもう14歳と13歳なので、おじいちゃんとおばあちゃん。ちょっとそんな元気ない……。
 で、たまたま、生まれて1か月くらいの猫の貰い手を探している人がいて、その猫をもらってくることに。命名小白。
 で、今、足元でバタバタとその二匹は追っかけっこしている。一日中バタバタと走って楽しそうでよかったですね。よかった。

FGO、ネロ祭り。

 ネロ祭り。2017年復刻。その時にはもうFGOを始めていて、ただ、その頃は弊カルデア全然育ってなかったので、まったく勝てなかった。それが、今、戦力充実していて、結構らくちんに勝てたりする。ダイの大冒険で、ダイが二度目のバーン戦をしたときみたいな、あれ?こんな弱かったっけ?みたいな感覚。コツコツと石をためて、ガチャを回して、周回して素材をためてスキルのレベルをあげてきた甲斐があった。
 ボックスガチャの方は、ちょっと時間がなくて20箱を目指す感じ。6章前半はガチャを回さないで石をためてる。後半にパーシヴァルが来ると信じて。

冷凍庫が嫁のエビでいっぱい。

 昨年、子供が大きくなったのと、コロナの影響で買いだめしようということになり、(我が家で)冷凍庫の需要が高まった末、冷凍専用の冷凍庫を買うことになった。最初のうちは余裕があったのだけれども、あっという間にパンパンになった。
 収納の法則。収納物は収納の大きさギリギリを丁度超える分まで増える。
 そんなこんなで、冷凍庫はパンパンなんだけど、その中で嫁のエビが占めてる割合が多い。消費量も早いけれども供給も早い。エビがローリングストックされている。きっと、死後はエビにひどい目にあわされる地獄に落ちると思う。

クリスタとタブレット環境導入した。

 タブレットといっても疑似タブレットだけど。HPのenvy360シリーズ。背骨をグルって回すとタブレットみたいになるやつ。
 ペンの書き心地とかはほかの液晶タブレットとかと比べてどうなのかはわからない。家電量販店の店頭でおいてあるipadとpencilとあんまり遜色ない感じがするので、たぶん問題ないんだと思う。
 こういう変な感じにしたのは、ノートパソコン一台でタブレットとデスクトップパソコンと、全部の環境を整えようとしたから。実際どうしてるのかはまた今度書きます。

『わかる』最近の曲と『わからない』最近の曲。

 yoasobi とかヨルシカとか、ずっと真夜中でいいのに、とかは”わかる”んですけれども、『うっせえわ』はなんか”わからない”んですよ。ピンとこない。前者は、琴線にピコピコくるのに、後者はいまいちわからない。
 あと、最近の曲では、この間も書いたんですけれども、はるまきごはんさんが好き。

www.youtube.com

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 初音ミク歌唱バージョンもあるけれども、はるまきごはんさんが歌ってるバージョンのほうが好き。曲も作ってアニメも作って、歌って。すごい才能と努力だと思う。
 歌が百合で友情でリリカルで好き。エモい。自分はエモいという感情がよくわからないんだけど、きっとエモいんだと思う。
この歌に出てくる二人のシリーズが本当に好き。

『萌え』が分からなかった。『エモい』もわからない。

 リリカルはわかる。
 萌え、が流行ったとき、「萌えというのは”要素の複合”、”記号論”」というような言説が、東浩紀先生とか大塚英志あたりから(だったと思う)あったような気がしたんだけれども(例えばデジことか)、後世から当時の様子を振り返ると、どうもそうではなかったのではないか、というのはわかる。ただ、それが何だったのかはわからない。萌えというのは、もっと感覚的で、愛とか恋とかかわいいに似た形而上のものであり、また本能的なものだったと、そう思う。そして、それが自分には感覚として理解できなかった。
 そして、エモいも、よくわからない。
 萌え、よりもリリカルに近いというのは感覚にわかるけれども、(リリカルが分かるので、手探りでなんとなくの輪郭はわかる)(ただ、象を撫でてる感じなのは否めない)思うに、リリカルは動的でエモいというのは静的なもので、同じ感覚の受け止め方の感覚器が違うだけなんじゃないかと思う。思うだけで全くわからない。わからないものはわからないんだ……。


だいたい、これで3000文字30分。
またこういう感じで文章を書いていくつもりです。

ここにはてな村を建てよう。

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インターネット話題がループ

まだはてな村はありま~す。

 はてな村はなくなったと思ってましたけど、これだけたくさんの人がはてな村と自分語りを書いていて、まだはてな村は現存してるんだな、と認識しました。自意識と自分語りが支配する村、それがはてな村。

サービスとしてのはてなブログ、共同体としてのはてな村。

 サービスとしてのはてなブログは、確かにnoteとかほかの課金サービスに書き手をとられて右肩下がりの状態だと思う。

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はてなIR

はてなIR資料より
https://ssl4.eir-parts.net/doc/3930/ir_material_for_fiscal_ym2/97963/00.pdf

 グラフを見てもらうとわかる通り、はてなのブログサービスの売り上げは低下していっている。ブログという文化が衰退しているのもあるだろうけれども、はてなブログから勢いが失われているというのは、感覚だけでなく、こうして数字としても表れている。
phenomenon-2.hatenadiary.org
 こちらの分析は的を得ていると思う。
 と、同時に、はてなブログの衰退とはてな村の衰退は分けて考えないといけないと思う。noteに多くの書き手は移動したが、noteにはnote村といえるような内向きの共同体は見当たらないからだ。
 (id:Phenomenon)さんは、『村』をコミケに例えられていたけれども、少し違うと思う。コミケはインフラであり、例えられるのは『はてなブログ』というサービスに対してだと思う。この場合、『村』に対するのは『ジャンル』と呼ばれるクラスタで、そしてそこには大抵、内向きの力学が働いている。学級会もある。
 リアルに存在する村や共同体と違って、インターネットや形而上に存在する『村』『コミュニティ』を維持させるものはなにか?僕は、『集団幻覚』『共同幻想』を持っているかどうかだと思う。コミケの『ジャンル』で考えると、そこにいる人たちは特定のカップリングに原作には存在しない過去や関係性を幻視したりしている。twitterでも、『界隈』と呼ばれている集団は同じ世界観を共有している。2chの特定のスレ、○○民と呼ばれる人たちも、そのいた特有の文化と価値観の共有がある。
 はてな村をはてな村とさせていたのは、その独特の価値観、『集団幻覚』『共同幻想』だったのだと思う。

じゃあ、はてな村のみていた『集団幻覚』ってなんだ。

www.du-soleil.com
www.tyoshiki.com
font-da.hatenablog.jp
inujin.hatenablog.com
amamako.hateblo.jp
www.du-soleil.com

 今回のことに端を発して、多くの人がはてな村の思い出話をして、そしてそれに多くのブックマークがついてる。もうこの時点で、はてな村生きてますよね、としか言いようがないんですけれども、それはさておいて。
 いろんな人が、はてな村がどういう場所だったかという思い出話をしている。それぞれの人の思うはてな村と、そしてはてな村的なモノの定義がそれぞれ異なっていて、非常に面白い。素敵。
 で、自分が思う、はてな村の人たちが見ていた『集団幻覚』というのは、『文章を書くことによって、アイデンティティの確立ができて、そして、そのアイデンティティはその書き出した文章に宿る』というものだったのだと思う。自分は、今も、その幻覚を見ているし、人が書いた文章はその人自身だと思っているのだけれども、どうも世の中そうではないみたいだし、うまくはてな村を『上がった』人間は、文章をただの自分を表現するための道具だと思ってるように見える。noteで文章を書いて稼ぐ、という行為は、それがうまくいけばいくほど、自分語りから遠くなっていくだろう。
 あと、もう一つの『集団幻覚』は、インターネットの可能性について。かつて集合知と呼ばれたもの。無名の多くの人が集まって知恵を出し合えば(いろんな意見をいろんな角度から言い合えば)素晴らしい知恵が生まれるのではないか、という幻想。
 これに対しては、自分も、ああ、幻想だったな、という気持ちでいる。確かに議論がうまくいっていた時期もある。よしき (id:tyoshiki) さんが書いているように、

しかし実際には、はてな村が村として機能するためのインフラは、個人のボランティアによって支えられていた。

一時期はボランティアで村長役を務める人がいたりアーカイブを作る人がいた。
ニュースサイトが幅広く面白い話題をまとめてくれたおかげで、
議題の幅が「はてなブックマークをやってる人間の興味」に絞られず視野が極端に狭くなるのを防げていたのも大きかった。

かとゆー家、sirout2、まなめ、hageXなどなど。書き手以上に彼らの存在が最も重要だったと思われる。

そういう人たちはみんな消え去った。

https://www.tyoshiki.com/entry/2021/07/04/105443

 かつては、議論を整理する場があり、アーカイブを残す場があり、それによって、ぐるぐる回りながらもどこかで前に進んでいった。(さらに古い時代、2ch黎明時代の板ではもう少しそれがちゃんとしていたと聞く。議論には必ずソースが求められ、誰が言ったかではなく、何を言ったかが重視される言論空間があったと、村の古老から聞いたことがあります)そういうインフラがなくなってしまって、冒頭の漫画ではないけれども、同じような話題がたびたびぐるぐると同じように回る場所になってしまったように思う。

ここにはてな村を建てよう

 はてな村の話題を出して、これだけの人が反応するっていうことは、まだ、それだけ多くの人が、『インターネットの集合知』と『書くことによるアイデンティティの確立』を信じてる、または信じていたいって思っているのだと思う。(本当に諦めてしまっているのなら、語ったりせずにスルーして終わりだろう)
 はてな村はなくなってしまった。場所としてのはてな村は、(はてなダイアリーがなくなって、はてなブログとブックマークの仕様がかわって、議論をまとめてくれる人がいなくなって、メインの書き手がnoteに移ってしまって)無くなってしまった。でも、共同幻想を持つ人間がいて、そこで文字を書くのなら、そこは、もう、はてな村だ。
 たぶん、インターネットはもとのように戻らない。個人の果たす役割はどんどん減って、企業とかが人の意思を牽引するようになるだろうし、文章でバズる人、キャラクターもいるけれども、それはわかりやすいことをわかりやすく話す人、わかりにくいことをわかった気にさせるような人で、それに対する反論や修正はブロックされる世の中になっていく…というかまあ、なってるんですけれども。
 個人のアイデンティティを文字にしてインターネットの海に放流することの危険性のほうが、利益を遥かに上回るようになってしまって、また、そんなことをしないでも、気軽に自己の肯定と存在証明が
できる世の中になってしまった。(それはtwitterなり、tiktokなり)(それは上の世代から見ると偽物の自己実現に見えるけれども、じゃあ、上の世代の自己実現ってそれ本物なんですかってなる)(自分たちの自己実現もさらに上の世代から見ると遊んでるようにしか見えないはずだ)
 はてな村は、役目も終え、仕組みも機能しなくなり、『場所』としては解体されたというのは間違いないと思う。
 でも、今回のことみたいに、はてな村(そしてそれよりももっと古いインターネット)にあった『集団幻覚』を見てる人間がいたら、そこがはてな村だし、それぞれがnoteに行こうが物理書籍を出そうが、どこに行ったってまるで呪いみたいにどこかにはてな村の残滓は残り続ける。
 そして、その人が行った先で、誰かに影響を与えるようになれば、その与えらえた人にもはてな村の呪いはきっと移る。
 『文章による自己実現』『集合知の夢』、なくなったと思ったそれを、でも、いまだにどこかで信じてる人たちがいる。
 その人たちがいる限り、そこがはてな村だ。

 ここにはてな村を建てよう。