orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

共謀罪可決について思うこと

昨日、明け方に「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」通称、テロ等準備罪、または共謀罪が成立しました。これについては書かない方がよい、触れるべきではないのかもしれないのですが、スルーするのもなんとなく違うな、と思ったので、いろいろと思うところを書きます。


すべての人の発言が、その立ち位置から見える景色によるように、自分も自分の見える景色からしか見ることはできないし、判断できません。自分の“漫画家”としてのポジションとして、この法案には反対ですし、成立してしまったので、あーやだなー、という気持ちです。


法案が成立したからと言って、何かが急に変わるわけでもないし、また、法律が法律ですので、実際にこの法律で逮捕される人間も当分は出ないでしょう。1995年にオウム真理教の事件があったとき、破壊活動防止法という“成立したときには治安維持法の再来”と言われたような法律の適用対象になるかどうかの議論があったのですが、事件後に大勢逮捕者が出た後ですでに脅威と言えないということで、適用されませんでした。
今回の、共謀罪も、同じように“使うとヤバい”法律であるので、実際に適用されることは、よほどの事情や状態にならないと適用されないでしょう。例えばどこかの国と全面的な戦争になって負けが込んでくるとか、国家総動員的な戦争状態になるとか。現実的ではないですね。


で、なんで反対かっていうと、実際に適用されるかどうかは別として、この法案が、人の自由な考え方や自由な行動を縛る可能性がある法律だからです。(運用される恐れはないからというのと、実際どうかなったときにどうかなる可能性があるというのはまた別の話です)
内面の自由というものは、人が頭の中でだけなら何を考えてもいい、というだけの自由ではありません。内面の自由というのは、表現の自由を伴って初めて内面の自由足りえるものです。思想・良心の自由、学問の自由、信教の自由などが内面の自由にあたりますが、それら“内面の自由”は、それを表に出す、または勉強という行為をする、本を読む、人と話をする、教会へ通う、集会をする、そのような行為を伴うものです。(表現の自由というのも、本を出版する、twitterに書き込むというものだけではなく、このような“内面の自由”を外側に表す行為を含めての表現の自由です)
この、テロ等準備罪は、そういう個人の内面の表出を行うことに抵抗感を抱かせるものです。この「言葉を言ったら、要注意としてマークされるかもしれない」「この本を出版したら出版社全体がマークされるかもしれない」「この集まりに参加したら」云々。そうやって自主規制を重ねることによって、規制はどんどん強くなっていくしよくわかんないルールが蔓延することになります。これは歴史が証明している。


そういう状態になったら、いろいろ漫画とか描きにくくなるな…というので、自分はこの法案には反対です。


あと、もう一つ。「この法案は、普通の人には関係ない」ということなんですが、確かに、普通の人には関係ない法律だと思います。治安維持法でさえ逮捕者は70000人程度、当時の人口が5000万人程度ですので、人口のほんの1.4%です。98%の人間には関係ない法律です。つまり、万が一のことがあって、たとえ日本がもう一度泥沼の戦争に突入したとしても、98%の人は、この法律を恐れる心配はないっていうことです。安心ですね。


だから、まあ、普通の人は安心していいんですけれども、自分は漫画家という仕事をしているし、躁うつ病持ちだし、いろいろと普通ではないので、かなり心配です。やだなーって思う。1.4%っていえば、学校のクラス3クラスあったらそのうちの一人、ということなので、中学校の時、学年で1番か2番に変な奴認定されていた自分としては安心はできません。
あと、恣意的な運用ができる法律というのは自分の性格的に好きくないです。適用範囲に曖昧な部分が多すぎる。法律っていうのはルールで、法律が恣意的な運用ができるというのは、ルールを好き勝手に決めれるということで、例えばカードゲームでプレイ中にそういう風にルールを勝手に変えられたら困りますよね。自分は性格的に、“ルール”は“ルール”であるべきだと思っているので、そこらへんが嫌ですね。


加計学園に関して思うこと

法律的には多分問題が一つもないと思います。
問題は、個人的な理由によって公権力が運用されたこと。
建前と本音っていう部分があって、それが国の一番偉いとされているひとは、建前の部分を守らないといけないと思う。そういう当たり前のことだと思います。小学生だってそう思う。
教育勅語を推しているのならなおさらです。
教育勅語っていうのは、忠君、組織の上下関係を倫理によって規定するもので、下は上を敬わないといけない。そしてそれには、“上は下の模範にならないとならない”というのとセットです。だから、教育勅語のようなものがベースにあるような社会では、倫理というものが法律よりも優先されます。(だから自分は教育勅語などが嫌いなんですが)それが、個人的な人間関係の利益を優先させたり、質問に答えずごまかしたり時間稼ぎをしたり失敗を認めなかったりというのはとてもよくないと思うんですね。教育勅語的世界観的に。そんなことをしたら小学生の子どもに示しがつかない。“宿題は確かにやったが破棄した”“調査する必要はない”“問題には当たらないと家族会議で決定した”とかいっても、それを先生は怒れなくなっちゃう。(教育勅語的世界観で)先生より偉い人が、それをやっているのだから。


そこらへんで、なんというかみっともないなあ、とは思う。

じゃあ、安倍内閣以外の選択肢があるのかっていうと

まあ、よく言われるこれなんだけれども、正直難しいのかなあ、って思う。
国民が問題にしているのは経済政策なんだから、野党は“アベノミクスと同じことをやる、経済政策はそのまま”っていう風にすれば行けるんじゃないの?っていうのをどこかで見た気がするけれども、無理じゃないかなあ…って思う。
これは、加計学園問題ともつながるんだけれどもそこで(そして、NHKやそのほか色々にたいして)行われている“越権的な賞罰”っていうものが問題で、そしてそれがアベノミクスを何とかうまく駆動させられてる原因だと思ってる。
(通常は行わないような)越権的な賞罰を行うことによって、その越権的な賞罰にかかわった人間が、自分の越権的な賞罰の対象になることを期待、または恐れることによって、越権的な賞罰の届く範囲というものは雪だるま式にどんどん広がっていく。(その広がっていった結果が、加計学園であり森友学園になる)。その越権的な賞罰というのは、中央または一人に権力が集中するという効果がある。、
行政や議会の意思決定というものは“手間と時間がかかる”ように制度設計されていて(安全弁のために)うまく運営されている場合はそれでいいのだけれども、即断しなければならない場合、抜本的に物事に対処しないといけない場合に、それは足かせになる。権力一極集中はいいところと悪いところがあって、それが両方表に出ている感じ。



とにかく一番悪いのは何かっていうと

景気が悪くて経済が回ってないのが悪い。景気が良くなったら、そういうの全部吹っ飛ぶので何とかなってくんないかなーって思う。5000兆円くれ。