orangestarの雑記

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アリスインデッドリースクールの「クラゲの未来」について

今回のエントリはひとつ前のトークライブの補足、というかトークライブでは話せなかったことを書いているエントリです。

というわけで。
はーい、アリスインデッドリースクールビヨンドをまだ見ていない人はそれを見てくださいね。
(あとできれば漫画の単行本アリス イン デッドリースクール<アリス イン デッドリースクール> (電撃コミックスEX)も買ってくださいね)
明日明後日日曜日の後6回ありますので。(ただ日曜日はチケット全部売り切れてるっぽくて当券まちになりそうだけれども…)

21日(金)14:00(光)・19:00(風)
22日(土)13:00(風)・18:00(光)
23日(日)12:00(光)・17:00(風)

が、残り公演です。
チケットはこちらから購入可能です。
http://alicein.info/ticket.html


で、まあ、話せなかったこととか、自分はこの物語についてこういう風に解釈しているとか。そういうのを。

漫画版でアリスインデッドリースクールの人数を減らさなかった話。

17人は無理だろう…っていうのは、関係者全員いってたんですが、僕自身のこだわりで結局17人のまま行きました。
アリスインデッドリースクール、という作品を構成している要素を僕は


(ゾンビ物だけれども)ゾンビがでない

朝から、日暮れまでというとても短い時間の話

屋上からでない

普通の女の子が、出会って、そして別れていく話



だと思っていて。(漫画版ではどうしても描かないと描けない部分があってゾンビを描きましたけど)
アリスインデッドリースクールって、物語の核の部分は
「普通の、居場所のない少女たちが、偶然出会って、そして別れていく話」
だと思っていて、その〝ふつう”の部分と、〝であってわかれる”という部分を出すには17人っていう人数がどうしても必要だったんですよ…、というか必要だと思ったんですよ。
それぞれの子たちにそれぞれの物語があって、それが、それぞれの物語のまま、終わっていくっていう感覚、どこか孤独がずっと残る感じっていうのを、そういうのを出したくて。


あと、単行本の数が1巻なのもそれが理由で、結構最初の方に全話数の話を編集さんともして。
2冊ではなく1冊だと、一気に読めてしまうので〝朝から、日暮れまでというとても短い時間の話”っていうのを体感的に出せる、っていうのがある。物理書籍最高。
実際の舞台でも、時間経過がそのまま舞台を観てる人間の感覚とシンクロしていくので、なんていうか、とてもいいので一回見てくださいよ。あの感じは実際に舞台を観ないとわかんないよ。



演劇を4コマに、別の媒体から別の媒体に移す時に、〝そのまま″でするとそのままにならない話

当初、できるだけ脚本のそのままでやろうとしていたんですが、そういるとなんか全然面白くならない、という…。
実際に最初に書いたネームがあるんですが、実際の1話と比べて観てください。
実際の1話はこちら


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どうにもダレる、というか、まあ、ダレるんですけれども。
ある媒体を別の媒体に直す時に、同じようにすると逆に同じにならない。っていうのが、何回か試行していくうちにやっとわかって。

ここら辺の媒体による表現の仕方の違いについてはまた今度まとめて書きたいです。

クラゲの未来、について

作中でも語られるアリスインデッドリースクール、オルタナティブ、ビヨンドの中にほんのりと匂わされている“パラレルワールド”または“平行世界”の話。氷鏡のいうクラゲの志向する未来の話。

トークライブのときにアサクサさんが説明していたんですが
“あ…、これアサクサさんが自分の中だけでわかってる言語で話してて、言葉の定義から異なってるしその論理構造も異なってるからほかの人には絶対にわからないやつだ……”
“またはケムにまくときのやつだ……”

と、多分あんまり理解できた人はいないんじゃないかな、と思ったので、自分の自分なりの解釈を描きます。


ループ、のネタっていうのは、半分くらいメタネタになっていて、実際にこの舞台をやるのが数回目だから、また、ひとつの舞台企画ごとに4~10回くらいやるので、それをメタってるっていうのが一つ。2次元の人間が“あっ!俺漫画の中の登場人物だ!”って気づく感じの。だた、実際はそのメタネタの先に本当の意味がある。
このループ、というのはひとつの見立てになっていると僕は思っていて。
たとえば、アリスインデッドリースクールという物語も、“学校を脱出する”っていうのは、“いつか、成長して、学校を卒業して出ていく、出ていけない人もいて、もう会えない人もいるけど”っていうことの見立て、メタファーになってる。
じゃあ、このループの見立てって何かというと、そもそも繰り返して同じ演目を演じ続ける、ということについて考えないといけない。


舞台、というもの再現性がない。
同じセリフ、同じキャストでやっても、同じ芝居は絶対に出来ない。ループしてるように見えても、それは全く別の芝居になっている。そして、舞台の再演にしてもキャストが変わり演出が、同じ台本を演じていても、そこで繰り広げられる世界は全く別のものだ。
それぞれの再演ごと、そしてさらに言えば、一つの公演のそれぞれの回において、登場人物たちは一回性の生を生きる。そういうことのメタファーではない直喩があのクラゲのセリフだと思っている。
で、それの舞台の“学校”の“物語”としてレベルでの意味は、毎年同じように入学して、同じ制服を着て、友達と出会って、わかれて、そして卒業していく。まったく同じことが繰り返されるけれども決して同じことは1回もない、っていうことのメタファーなんじゃねーのかなーとか勝手に思ってる。





ほか、アリスインデッドリースクール無印はいくつか奇跡が集まって本当に奇跡みたいにできた作品なんですけれども(電球の話とか)そこらへんはまた今度、どこかで、書きたいと思います。y


あと6回!みんな見て!