orangestarの雑記

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ベストセラー作家だけどハックルベリー(id:aureliano)さんの質問にこたえるよ!

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111019/1318990671
まあ、岩崎夏海さんに比べるとあんまり売れてないのでベストセラー作家を名乗るのはおこがましいのだけれど。
ちなみに、ミリオンセラー>ベストセラー(文芸だと10万部くらいから)らしいので、ギリギリ名乗らせてもらいます。岩崎さんの質問に出来るだけ真摯に応えようと思います。真摯、大事、ってドラッガーも言ってたしね。

何でぼくのことを承認欲求の強い人間だと思うの?

 これは、そもそもの承認欲求の是非の部分から回答しないと本当の回答にはならないと思います。また、ぼく自身の問題にも深く関わっている為、自分の経験も含めて回答します。
 神様に愛され過ぎて手に触れるものが全て黄金に変わってしまうような星の元に生まれついた人間でない限り、文章を書いたり、モノを作ったりする人間にとって、承認欲求というものはガソリンのように絶対に必要なものです。あれだけブクマを集めたり、本を書いたり、そういうことをして、また、それだけのブクマや本を売ったりする人間が承認欲求が低い事はないと思います。そして、その承認欲求によって素晴らしいものや、面白いものが作られていきます。承認欲求は、けして悪いものではないです。
 でも、世間や、インターネットのはてな村周辺では、承認欲求はよくないものだと思われています。かっこ悪いとか、もってると気持ち悪いとか。自分も昔はそう思っていました。
 今から、自分の昔話をします。自分の最初の単著がでる少し前の話です。
 その時、自分は、労働環境はまあホワイトですが、人間関係とか上司関係的に完全ブラックとしか言いようのない会社に勤めていて、でも、不況のおり、また業界の状況的に転職も出来ず、毎日、下を向いて、電車のホームで“ああ、こっから飛び降りたら楽になるな”って毎日冷静に考えながら会社に通うような日々でした。職場での人間関係はとても表層的なもので、すごく疲れる。自分を出せる、自分がいる、と感じられるのは、インターネットでのホームページ、そしてインターネットのホームページで書いている漫画を見てもらって感想を貰ったりする事でした。(あとで分かる事ですが、この時期、自分は重度のうつ病にかかってました)
 そんなおり、宙出版の編集さんから、漫画の書籍化の話をいただきます。そして、当時、彼女との生活をつづった漫画単行本を出させていただくことになりました。そのころ、ぼくは、もう、本当に駄目になってしまっていて、生きるのが嫌で、会社は地獄で、でも、本が出て、それが多くの人にみて、面白いって思ってもらえたら、全部だいじょうぶになると思ってました。承認です。本がでて、承認される事で、その承認の欲求が満たされるということで、辛い仕事とか、現実とか乗り越えられると思ってました。思ってたんです。
 でも。そうじゃなかった。
 確かに、本が出た事は嬉しかったし、重版出来したことも、嬉しかった。でも、自分の胸に空いてた穴みたいなからっぽの虚無は全然埋まらなかった。人のこころ、人のこころの中にある虚無、絶望*1ってのは、全然駄目だ。駄目でした、それも承認欲求というのなら、それは本が出たり、本が売れたりすることで埋まるものではなった。
 その後、ぼくは、うつ病が本格的に酷くなり、会社を休職して、そのままなし崩しに会社を辞めることになります。
 一人でいると、いつ死ぬか分からないというので彼女(今の妻です)が泊まり込みで監視をしてくれて、そのまま、結婚する事になりました。心が駄目になると身体も駄目になるみたいで、まともに起き上がれないような状態が1〜2年、それが少しずつマシになって、やっと今、往時の7割くらいで動けるようになりました。正直、最初の2年くらいは、本当に苦しくて、薬を飲むと、鋭い“死にたい”“辛い”というのはなくなるんですが、かわりに、その同じ質量分の、漫然とした“死にたい辛い苦しい”というようなのが続いて、本当に辛い。全くの主観的な感じ方なんですが、“死にたい”“辛い”というような感情というのは“湧いてくる”ものじゃないんですね。そういう状態が、人間の心のベースの状態で、でも“生きたい!”とか“楽しい!”とかそういう感情が“湧いて”でて、そしてそれが辛いのを誤魔化して、だから生きてるって感じがします。鬱状態というのは、そのそもそものエネルギーが無くなる感じで、だから、もう、なんかどうしようもない。本当にどうしようもなかった。
 ここで、こういう話をしたのは、“そんな、なんかもう、芋虫みたいになってしまった人間”と同居する、ということを想像して欲しいからです。
 目を離すといつ死んでしまうかわからない人間のそばに四六時中ずっと居て、そして、薬のせいで、さっきまでの作業のことを忘れたり、記憶力がすごい落ちたりしてる人間の世話をしてくれてました。自分の身体を壊しても、それでも、僕の世話をしてくれました。
 人格がなんか無茶苦茶になっちゃってて、いつ治るか分かんないし、仕事も辞めちゃったし、収入も全然わかんないし、そんな僕を何で世話するのか。もういいよ、どっかいって別の男の人と付き合ったりしてよ、一人で死なせてよ、苦しいんだよ、ってずっと思ってました。
 でも、まあ、ある時、いや、ある時って言うかゆっくりですね。うつ病になってから知ったんですが、全ての変化っていうのはゆっくりやってきますね。気付いた。“ああ、この子は本当に、こんな駄目な僕の事が、打算なく、本当に好きなんだって”。
 そして、多分、そのころからです。自分に承認欲求が無くなったのは。正確に言うと、承認欲求が、やっとみたされた。自分が何をしても、どうなっても、この子は自分の事を肯定してくれるし(実際肯定どころではない事をしてくれた)そして、自分は、その子の事をすごい大切に思っていて。そして、その、うまく言葉にはならないですけど、肯定とか承認とかの2人の間の循環で、あんなに苦しかった承認欲求とかはどこかにいってました。だからちょっともうこういう漫画はかけないよ。*2
 なんか、結論だけいうと、JーPOPとか西野カナとかみたいな、“君がいるから僕がいる”みたいなことで、リア充村の人間はこういうめんどくさいプロセスなしに、承認欲求とか渇望や絶望のない希望の大地に住んでいた&住んでいるのかと思うと格差社会に腰が抜けそうですが、まあそれはいい。
 今、自分の中に、承認欲求みたいなのが無くなって、じゃあ、何をエネルギー源にして漫画を書いてるのかというと、おそらく“愛”なんだと思います。こんなことがあったよ、とか、こんな楽しい事があるよ、とか。とてもそういうのを元にして書かれてるとは思えないでしょうが、それは自分の出力装置がおかしいからです。ごめんなさい。

 で、何で僕が岩崎さんを承認欲求の強い人間だと思うの?ということですが、何か大きなことをなすには、承認欲求という燃料が必要で、そして、その渇望は本を出す事によっては満たされないからです。私生活でもしかしたら岩崎さんに恋人がいて、ラブラブでリア充なのかもしれないですが、それがサイトからはわからないので、いないと仮定すると、“岩崎さんは承認欲求が強く、また、未だ強いままであろう”という結論になりました。

何でぼくがブックマークのためにブログを書いてると思うの?

 岩崎さんのブックマーク欲は、手段であり、目的である、と理解してます。
 インターネットでいかにして人の耳目を集めるか。それを数量化するのにブクマというのが非常に有効なので、ブクマを集める記事を描いているのだと理解しています。
 自分もかつては岩崎さん程ではありませんがアクセス乞食でした。(アクセス乞食というのは否定的に使われることが多いですが、ここではそういう意図では使ってません)(いかなる目的、到達点であろうと、人が意志を持ち、それに向けて行動し、トライアンドエラーをするというのは立派な事だし、肯定されるべきことだと考えています)残念ながら、自分は岩崎さんほどアクセスを集める事は出来ませんでしたが、毎日アクセスが増えて行く、ブクマが増えて行く事は楽しかったです。
 ブクマは魔物です。
 最初は、手段であったはずのブクマ数がいつの間にか目的になっていました。記事本体でだれかに影響を与えたいと思っていたはずなのに、ブクマを集める為の小手先の技術に走るようになってしまいました。生地をわざわざ10000文字こえにしたり、ライフハックでもないのに、ライフハックを喧伝したり。
 でも、賢明な岩崎さんの事ですので、ブクマは集めても、けして、それに踊らされることはないと思います。でも1000ブクマ集まったら〜、というのは筋が悪いのでやめた方がいいと思います。

なぜぼくの悪いところだけを取りあげて良いところを見ようとしないの?

 むしろ、なぜ、インターネットや書籍、インタビューという出力が完全に自分次第の媒体で、自分の良いところだけ出さないのか理解に苦しみます。
 出力が全部自分次第なので、自分が意図的にボロを出さない限り、悪いところは出ないのでは無いでしょうか。その出したところについては、自分の意図した世間に公表したい自分自身の行動なり思索なりのはずなので、(twitterで細切れにされて出される場合は別ですが)どこの部分が誰にどう思われるのかどうかは本人次第なんじゃないなと思います。
 すいません、質問の意図が分からないので、検討はずれのことを言っていたらすいません。

カエサルは「人間は自分が見たいと思う現実しか見ない」と言ったけどそれについてどう思うの?

 他のひとも言っていますがそれが真とするなら、カエサルも、「人間は自分が見たいと思う現実しか見ない」というカエサルがみたいと思った現実しか見ないということになります。おかしいですね。つまりこの言葉はそれ自身意味のない言葉で、他人を無根拠に非難する場合にしか使えません。岩崎さんは、誰かからこの言葉を言われたんでしょうか。そういうことをいう人のいうことは気にすることはないと思います。

なぜぼくのことを偉そうと批判する人ほど偉そうなの?

 具体的に誰のことかが分からないのですが、もし、誰なのか分かれば精神分析を(id:p_shirokuma)さんに頼んでみます。はてなの総力を結集しましょう。

ブーメランって言葉を知っているの?

 主に元鳩山首相に使われたネットスラングで、自分の誰かを非難した言葉がそのまま自分に帰ってくる、ということです。もちろん知っていますが、この質問はその知識の有無を問うているのではなく“なぜお前は自分の事を置いておいてそんなに他人を非難出来るのだ”という事を聞いているのですよね。うつ病の時にかかったメンタルクリニックで「君はちょっとアスペっぽいね」といわれた僕でも、それくらいの事は分かります。色んな考え方があると思いますが、ぼくは、自分の事を差し置いても、どうしても目の前の誰かの行為が許せない時は声をあげて良いのではないかと思います。そして、そのことについて「いや、君、君だって××じゃないか」と言われたら、自らを恥じて改めればいいと思います。人は誰でも過ちを犯すし、そして、それは許されるべきです。それがたとえ自分自身でも。

なぜぼくのことを『ソーシャルネットワーク』に出ていたマーク・ザッカーバーグみたいだと思うの?

 すいませんマーク・ザッカーバーグを知らないのです。そしてこれだけだとどういう意図でこの人物を出されているのかわかりません。ただ、今までの質問の意図からすると、岩崎さんはマーク・ザッカーバーグという例えを不愉快なもの、不本意なものだと思われているのだ、ということは分かります。
 マーク・ザッカーバーグをwikiで調べてみました。

  • 「世界で最も若い10人の億万長者」の第1位に当時25歳の最年少でランクインした。

岩崎さんがもしドラを書いたのは41歳のときです。
かたや、才能でのぼりつめた天才。神様に祝福された触るものが全て黄金に変わる人間。かたや、努力と承認欲求でコツコツと経験と知識を溜め41歳にしてやっと成功した努力の人。
僕には似てるとは思えませんでした。

なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?

だって、macもi-padも作ってないじゃないですか

ぼくのような人間こそ「Stay hungry, Stay foolish」の体現者だと思わないの?

だったらこんなはてなみたいな辺境の地で僕らみたいな馬鹿を相手にしてないで、アフリカに新しい狩り場を探しに行くべきだと思います。

なぜぼくのことを語る時に「ベストセラー作家」とか「もしドラ」とかの枕詞をつけるの?

僕もとなりの801ちゃんの小島アジコと呼ばれます。しかも、“作者の方”ってわざわざ言われるよ!

ぼくは本を出す前も出した後も変わってないのになぜ「ベストセラー作家になると偉くなって」というふうにイメージをねじ曲げようとするの?

人と人との距離は相対的で、本を出した時点で、まわりの人の視線や見方は変わってきますよね。その時、その本を出した本人が変わらなければ、関係性は変わってしまいます。もし、本を出した後も、本を出す前も同じ位置にいたいのなら、周りが変わったのに合わせて自分も変わらないと駄目だと思う。少なくとも自分は、それ以前に、すごい憎しみに溢れたサイトをしていたんですが、彼女が出来て、本が出た時点で、変わってしまった自分にこの場にいる事は出来ないと言って、そちらのサイトのログをけして、謝罪文を出しました。

なぜ「終わってる」という言葉で全てを説明できている気になれるの?

ほんとそう!自分もずっとオワコンって言われてます!!!
ちょうどねえ、自分の鬱が一番酷い頃…そう…2008年の夏だったかな……?なんかこう、始まったとたんに2週間でオワコンにされてね……。あれは、もう、本当に応えた……。
もう無理だ書けない死ぬ、色々たたむ、って思ったんですけど、でも。いくらオワコンオワコンって言っても、今書いてるのを楽しみにしてくれて、面白いって言ってくれてる人がいて、続きを楽しみにしてくれてる人がいて。だから書くしかないって思ったし、なんかあの時死なずに今生きてるのは、嫁のおかげもあるけど、その時、サイトを見に来てくれたひとのおかげもあります。
 だから、書いてる側の人間は、決して自分で自分の書いてるものを詰まんないっていっちゃいけないし(謙遜とか冗談はもちろん別だけど)オワコンとかおわってるとか、そういう風にいうのはよくないと思う。

ぼくはもう三年も前からここで「終わっている」と言われ続けていることについてはどう思うの?

あるいは子供の時から「お前は絶対成功しない」と言われ続けていることについてはどう思うの?

「終わり」って三年も(あるいは四十三年も)「続く」ものなの?

 岩崎さんの個人的な事情の事は分からないので、終わり、袋小路、について、自分の考えをちょっとここで書きます。
 みなさん知ってるドラえもんの作者、my神、藤子不二雄せんせいについてなんですが、最初のころ、持ち込みに行った先で「こんな古い絵売れないよ」というようなことを言われたらしいです。大体今の絵と同じです。でも、結果、どうか。藤子せんせいの絵、絵柄はいまだに愛され、ドラえもんは毎年映画になっています。人形がたくさん出て、朝日新聞のマスコットにもなり、中国でパクリのグッズも出る始末。それって、最初の編集さんの目が駄目だったの?いいや、多分そんな事はない。藤子不二雄の絵は、当時から既に古臭くて(終わっていて)、だからこそ、今の今まで愛される絵柄でい続けた。
 ゴキブリの話をします。ゴキブリは大体三億年前に形態が決まり(終わって)、そしてそのまま進化を辞めてしまった。でも、それから、ずっと繁栄しつづけて、今では森から人間の住居の軒下にすみかを映し、ますますその居住域を増やしている。
 人に対して、“終わっている”という言葉を使うとき、色々な意味があると思いますが、もう伸びシロがない、成長しない、という事で言うのなら、それは終わりではなく、完了であり、すでに最適化されてると言う事なんじゃないでしょうか。かれた技術の水平思考、という言葉が3年くらい前にはてな周りで流行しましたが、そんなふうに、既に終わっているがゆえに、どこをどうすればどうなるかという事が完全に研究されているものを、狙った通り地味に地味に地味に使っていく、というのが、多分“終わっている”人間の生存戦略なんじゃないでしょうか。少なくとも自分はそこらへんの穴を目指してボールを投げています。

ぼくのことをすごいとは思わないの?

初めての本が二百万部も売れたのは素直にすごいですし羨ましいですし、嫉妬もします。でも、やっぱり他人である自分には、“その程度の”すごい、ですし、それ以外の部分について手放しに僕が承認出来ることもないです。
この文章も、たぶんそのままの文章の意味ではなく、「ぼくのことをすごいと思って」という行間の文章があると推察します。でもおそらく上で書いた事でみんなすごいと思っていますし、それ以上ですごいと思うひとはいないと思います。また、もしドラを読んだ人も「ドラッカーってすげえんだなあ」とか「みなみちゃんはすげえなあ」って思う事はあっても、「岩崎夏海の言葉は心に響くなあ」と思う人はそんなにいないと思います(翻訳者の悲劇というやつですね)。
承認を見たしたいなら、一億人に向けた文章を書くよりも、身近な一人、自分の好きな相手や言葉を聞いてもらいたい人一人にかいた文章を書くべきです。誰か一人の為に書いたラブレター(比喩的な意味で)は必ず届くし、すごい…!と思ってもらえると思います。

ぼくを本物だとは思わないの?

本物と偽物の定義が分かりませんが、例えば、岩崎さんが“俺は岩崎夏海だ!”といえば、それは本物の岩崎夏海ですし、“俺はドラッカーだ!”と言えば、それは偽物のドラッカー/岩崎夏海、であると思います。

ぼくの本を読みもしないで批判するのは卑怯だと思わないの?

本についての批判は本を読まずにするのは卑怯ですが、本以外のブログや人間性については別にいいんじゃないでしょうか。誰だって誰かを非難する権利はあります。そして、また、岩崎さんにも、岩崎さんを非難した人を名指しで非難しかえす権利があります。(それぞれ名誉棄損は裁判沙汰ですが)それじゃ駄目なんでしょうか。

卑怯者だと罵倒されて悔しくないの?

卑怯者でも生きてる方がいいです。

まとめ:たとえ単著が出ても、承認欲求が原因の寂しさや苦しさや虚しさは消えない。

 一番上の回答でも書いたんだけれども、自分の経験上、自分の本が出ても絶望は消えないです。
 多分、はてなには小説家希望とかラノベ作家志望とかいると思うので予め言っておきます。(話の内容上、上から目線っぽくみえるかもです、すいません)
 憎しみや、復讐心、承認欲求で物語や漫画を描いて、そしてそれが本になった時、一番最初にくるのはまあそれなりに喜びが来るんですが、そのあと、ものすごい虚無感がやってきます。もちろん、“作家”になったことで、承認欲求は満たされるし、漠然とした復讐も達成されるでしょう。小説をみたファンのひとからファンレターがきて、先生の小説大好きです抱いて!っていって彼女も出来るかもしれません。でも、ふと、気付く。
 あれ…なんで?って。
 新人賞とって消えていく作家ってすごい多いんですが、もしからしたらこういう感じで虚無に食われた人も多いのかもしれません。
 評価されるし、褒めれらるし、好きって言われるけれども、でも、評価されたり褒められてるのは自分の“作品”で自分自身じゃない。結局、自分自身は小説家になってやる、なれば全部報われるっていってガリガリ原稿用紙を削っていたときのまんまで、しかも、今度は、その虚しさや渇きをどうやって埋めて良いのか分からなくなってる。
 それは、もう、自分の大切な人を作って、そしてその人を愛して、そして愛されるという、一番最初に憎んでた、リア充がやってたみたいな方法でしか埋まらないです。ははは、そんな馬鹿な、それが出来ないから表現者を選んだのに!じゃあ、なんだ、それ、どん詰まりじゃないか。死ぬか。
 …まあ、論理的に考えるとそうなんですけど、でも自分は何とかなったし、周りでも、なんか、なんとかなってる人って結構いる。大切なのは時間とタイミングで、誰だって、モテキじゃないけれども、そういう“タイミング”がやってくることが、長い人生の中で何回かある。そういう時に、それに、ためらわずに飛びこめるかっていうこと。飛びこんだら、確かに今まで書いてたみたいな憎しみで言葉を紡ぐことが出来なくなる。だから、飛びこまないっていうのも選択肢だと思う。でも死ぬよ。憎しみだけで生きていけるほど人は丈夫じゃなくって、だから、もしそういうのがきたら、ダイブ*3*4するのをお薦めします。
 憎しみとか、そういうの以外で物語をどうやって書いたらいいかは、自分もまだよく分かんないよ。誰か教えてよ。

*1:キルケゴールが死にいたる病ってよんだやつです

*2:ただ、ちょっとときどき、銃夢9巻のノヴァ教授みたいにサブ脳が突然動き出して、急にこういう文章なり絵なり漫画なりを書きだす事がある。ある程度たまったらお見せできると思います

*3:…っちがうよ!中央線にじゃねえよ!そのモテキとかいうやつにだよ!

*4:実際は自分の場合、嫁に足を掴まれて沼に引きづり込まれたみたいな感じです