orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

「いらすとや」さんの新しい素材が完全に「NHKにようこそ!」の件について

20160206030923


岬ちゃんはこない!


NHKにようこそ! (角川文庫)

NHKにようこそ! (角川文庫)

小説版は、2002年1月、角川書店刊。

今、「NHKにようこそ!」を思い返すと、そこには、あのころのインターネットとか、夢とか希望とか絶望とかそういうのの全部が詰まっていた気がする。
回線がADSLになり、黎明期をすぎて、一般の人にインターネットが広まり、目に見える世界はぐっと広がったのに、そこから自分の足で行ける世界はやっぱり小さいままで。第一次就職氷河期で、どこにも行けない初めての人たちが、上の世代と完全に分断されて、今みたいに、それ以外の何とかする方法を失ったまま、(そしてその世代は数年後にはロストジェネレーションとか言われる)どうにもなんない、言語化がまだされてない感情や環境をなんとかできずに、自分の無能と向き合ってた時代。

そういう時代に希求されたアイドルが、岬ちゃんだったわけですよ。

メンヘルで弱くて、自分を守ってくれるアイドル。引きこもり綾波

10巻程度で完結していておすすめの漫画「BMネクタール」

BMネクタール 1 (少年チャンピオン・コミックス)

BMネクタール 1 (少年チャンピオン・コミックス)

パニックモンスター作品として、多分自分の人生の中で一押し。

  • BMというモンスターの設定がとてもよい。
  • 全長30~50、乾燥に弱く(動けなくなるだけで死にはしない)動きは鈍く、何でも食べていくらでも増殖する、という設定なんだけれども、これが本当に素晴らしい。エグザイル算じゃないけれども、単体で向かい合えば何とかなるけれども、等比級数的に増殖してあっという間に手に負えなくなって詰むという、このどうしようもなさがいい。
  • あと、出自。人間が食料危機をなんとかするために作り出したという業の深さ。
  • ビジュアルがいい。人間の形をした奥歯がずらりと一面に並んでいる軟体動物って、生理的に物凄い来るものがある。すばらしい。
  • 結局どうにもならなくなって、日本が九州を遺して滅んじゃうんだけれども。
  • 物語の作戦的には、籠城と撤退がメインになる。が、それだけではない。
  • 全3章(小学生編、中学生編、高千穂編)なんだけれども、それぞれ、
    • 周りが全部モンスターに囲まれた街で、何とかそこから脱出する
    • 大きなビルの中に閉じ込められて、別の種類のモンスターも出てきて上に上がったり下に下がったりで、モンスターを倒して脱出する方法を探す
    • BMをめぐる人間関係
      • と、バリエーションがあってすばらしい。
  • 対処を間違わなければそんなに恐ろしいモンスターではなく、ただ、『油断』すると一気に牙をむいて人類を滅ぼす、という、人と技術の業みたいなものを、ビジュアルと設定で表現していて、すごい上手いなあって思う。


ハリウッドとかで映画化してくれないかなーって常々思っているんだけれども、それ以前にみんな知らなくて辛い。
チャンピオンが最近元気なので、昔のこういうすげーいい作品とかもみんな見直してくれるとうれしい。 

いつから孤独は“友とするもの”から“処理するもの”へ変わったのか。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

を読んでの感想。
あと、これ、とてもよかったのでみんな読んでほしい。もう読んでらしたらアレですけれど、(id:p_shirokuma)先生にも読んでほしい。


ディストピア小説の元祖的に言われている小説ですが、実際に読んでみると、そんなにディストピアと言うほどのものでもなかった。おそらく当時の基準からするとディストピアなのだろうけれども、実際に、その中で語られる製品や社会の仕組みが実装されてしまった社会に生きている自分たちからすると、“まあ、普通のことだよね、よくある”と思ってしまうことが多々ある。


若作りうつ社会のディストピア

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

“すばらしい新世界”の理想社会の人たちは、試験管で受精され、フラスコで培養されて、母親の身体を経由することなく生まれてくる。そのため、“母親”という存在はひどくいかがわしいものとされていて、また、家族というものが完全に解体されて、個人が完全に個人として存在している。人は常に若く、中年、壮年になっても30代ごろの容姿をしている。そして、60歳になった途端、老衰で死ぬように設計されている。
 子どものときのような純粋な“性欲”(広い意味での性欲、新しいものへの欲望、好奇心や純粋な他者への一次的関心)は推奨され、フリーセックスが普通であり、いつまでも同じ人間にかかわっていたり、とどまっていたりするのは、ちょっと異常だな、と周りに思われる。複雑な“恋愛”というものが存在しない。少女マンガやトレンディドラマみたいな恋愛観が世界を覆っている。大量消費が推奨され、お金や設備のかかる遊びがみんなの歓心ごと。苦痛や不安はあるけれども、それは全部、アルコールやタバコやマリファナを超える完全な嗜好品「ソーマ」が癒してくれる。
 この、“すばらしい新世界”が描かれた“1932年”は満州国が生まれ、ナチスが選挙で大勝利した年で、多分、この小説内に込められたメッセージや、世界観が当時意味したものは、今自分がこの小説から受け止めるものからは全く別のものなのだろうけれども、しかし、この小説の世界観が描く未来は、本当に、“それらしい”し、多分、“実現した”。
 バブル以降の現代の日本(そして他の国も)そのような世界観で生きているし、経済的な余裕はなくなったかもしれないけれども、携帯電話、スマホ、インターネットの発達で、人と人との関係性、それ以外の欲望の充足についての考え方感じ方というものは確実に不可逆的に変化してしまった。
 ただ、ソーマが無いのと、家族という物理的な価値観に縛られているけれども、それも、多分、そのうち技術的に解決されるだろう。技術的に解決可能な問題は、いつか必ず技術的に解決される。

星の王子様。孤独と、それを友とすること

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

星の王子様の出版が1943年。
世間一般ではどう読まれているのか、僕は詳しいことは知らないけれども、僕自身は、この星の王子様を「如何にして人は孤独を友とするべきか」という物語だと思っています。
星の王子様に限らず、昔の文芸作品や、童話というものに至っても、“孤独との向き合いかた”そしてそこから、“如何に『自分自身』をすくい上げていくのか”ということが、物語のテーマ以前の自明のこととして表現されていたと思います。(ほかのテーマというべきものは、この“孤独とは何か”という前提の上に積み上げられていた)

インターネット以降、孤独というものは、“処理するもの”に変わってしまった。

ザ・インタビューズが終わってホッとした - シロクマの屑籠
孤独は、そして、その別の側面としての“承認欲求”というものは、おそらく完全に変質してしまった。
かつて、“承認欲求”(かつてはそんな呼ばれ方をしていなかったけれども、当時の呼び名を僕はしらない)は個人の技術や内面の研鑽を呼び、そこから、自己の確立を経て、個人、あるいは社会の一員として、昇華されていった。(マズローがA Theory of Human Motivationを著したのは1943年だ)
でも、そのルートがなくなってもてあまされた承認欲求は、ただ、処理されるものとなった。なら、出来るだけ簡単な方がいい。それは薬であったり、インターネットのサービスであったり、ゲームであったり。別に、承認欲求をうまく昇華させ、孤独を“友”としなくても、社会が勝手に社会を動かしてくれる。個人が社会の“自律的な意思を持った歯車”とならなくても、(個人が孤独を友として、社会からの承認を得て構成員として社会に参加する、というのは古来そういう事だったのだと思う)勝手に何とかしてくれる。今は埋められない苦痛を埋めるためのソーマはないけれども、そのうち技術の進歩が何とかしてくれるだろう。
多分、これ以上何とか頑張らないでも、やり過ごしているだけで、そのうち何とかなっていく。

でも、それでいいの?

多分、正しさは。正しさという基準で考えるならば、正義は、そういう“すばらしい新世界”的な世界観の中にある。大多数の幸福は保障されて、ほどほどの、人間にとってアンダーコントロールにある苦痛と苦悩だけが与えられた世界。すばらしい新世界の世界も、労働や恋愛の苦痛は維持されているが、処理可能なレベルに抑えられるよう社会が設計されているし、それを超えたらソーマを飲めばいい。
楽しいことだけして生きていければそれでいいし、そういう社会や世界を実現するために、人間は20万年前、言語を発明してから“志向性を持った進化”を繰り返して頑張ってきたわけなわけで。
ただ、本当の性の喜びや、生の喜びというものは、そのような苦痛の中にあると思っている人もまだ多い。ナウシカが言っているように、生きるということ、命というものは闇の中で瞬く光だと。(そういう意味でいうと、すばらしい世界を生きる住人というのは、ナウシカが殺した新しい世界の住人の卵そのものだったのかも)


すばらしい新世界の中で、孤独を感じて、その中に生きる人間が4人でてくる。結局それぞれの人間は、お互いがもっている孤独の種類が違うから、それを共有できず、孤独のままでいるしかないのだけれども、ただ、とても親しい友人にはなれる。
個々人が、それぞれ違う生き物で、そして、それを知り、その中に自分をみて、友人になるという行為は、とても、良いものだと、自分は思っているのだけれども、それが、いつまで、共有できるのか。そういうことを、思った。

これからアリュージョニストで参照されそうな聖人No1!聖エラスムスについて

または、fateGOに出てきそう。


エラスムス (聖人) - Wikipedia

エラスムス(Erasmus, ? - 303年頃)は、カトリック教会および正教会で崇敬される聖人・殉教者(致命者)。フォルミアのエラスムス、アンティオキアのエラスムス、聖エルモ(Elmo)とも呼ばれる。ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』によれば、フォルミアの司教であったとされる。生きながら腸を巻き取られるという拷問を受け、殉教した。祝日は6月2日。エラスムスが祈りを捧げると落雷から守られたという言い伝えから、雷から守ってくれるよう、取りなしを船乗りたちが願ったことから、船乗りの守護聖人となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%82%B9_(%E8%81%96%E4%BA%BA)

という聖人なのですが、腸を生きたまんま引っ張り出されるというすげー拷問で死んだことで有名。で、聖人なので像がつくられるわけですが、

303年、イタリア・フォルミアの司教・エラスムスは、ランゴバルド族によって腹裂きの刑に処せられ、腸を引き出されてウインチに巻き取られたのち、解体された。後に聖人とされたエラスムスの絵や像は、自身の腸を巻き取った棒を携えた姿で表される場合が多い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E8%A3%82%E3%81%8D%E3%81%AE%E5%88%91


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いや!


いや!!




いや!!





おかしいやろ!!!いいんかそれで!!!

民俗学者、吉野裕子さんが好き

吉野裕子 - Wikipedia

蛇 (講談社学術文庫)

蛇 (講談社学術文庫)


在野の民俗学者の方で、多分、専門家の人から見たら、異端な部分もあるんだろうけれども、大胆な仮説と勢いよく本質へと切り込んでいく洞察は読んでいてとてもワクワクする。
特に一番のおすすめは、上に貼ってある“蛇”。

書くこと、書かないといけないこと、書きたいこと、ほか仕事とかが頭の中でぐるぐるになってうまく出力できない

ここ2週間ほど、いろいろ書きたいこととか、書かないとならないこととか、いつか書こうと思っててとりあえず纏めとかないとならない事とか、ほか、仕事で同じように状態になっているいくつかのセンテンスがあったりして、それが上手く整理がつかないで、頭のなかがスパゲティみたいになっていて、つまり、あまり調子がよろしくない。脳の出力のところと入力のところに石が詰まったみたいになっていて、それが取れなくて気持ちが悪い、うまく物事を消化して分かりやすい感じに整理して出せない感じ。色んな情報やアイデアや意思や考え方が全体に整合性を欠いたごちゃごちゃの塊みたいになってて、ちょっと苦しい感じが続いている。


なので、片っ端から出力して、とりあえず物の整理とする
文章、パン屋、ウナギの話 - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/archive/category/%E5%B0%8A%E3%80%85%E6%AE%BA%E3%80%85%E6%AE%BA
まあ、これと同じような感じのこと。


※調整 - orangestarの雑記
「いらすとや」さんの新しい素材が完全に「NHKにようこそ!」の件について - orangestarの雑記
10巻程度で完結していておすすめの漫画「BMネクタール」 - orangestarの雑記
いつから孤独は“友とするもの”から“処理するもの”へ変わったのか。 - orangestarの雑記
これからアリュージョニストで参照されそうな聖人No1!聖エラスムスについて - orangestarの雑記
命と魂について考える時に思い起こすセルオートマトンのこと - orangestarの雑記
「利己的な遺伝子」「銃病原菌鉄」から学ぶべき一番大切なこと - orangestarの雑記
これさえすればうまくいく!というのをやってみて大体うまくいかない理由(下書き) - orangestarの雑記
物語の作り方(下書き) - orangestarの雑記

命と魂について考える時に思い起こすセルオートマトンのこと

セル・オートマトン - Wikipedia



命とか魂っていっても、誰かが死んだとかそういう話ではなく。
社会における死の取り扱いというものではなく、死んだらどうなるんだろうとか、魂って本当にあるんだろうかとか、人の意識というものは自分では自分の意識を観測しているけれども、でもこれは“観測していると認識している”とだけで、本当は存在していない可能性だってあるのでは、とかそういう思考実験以前の、ポエムみたいな話です。


セルオートマトン、ってのがある

セル・オートマトンを利用したゲームの開発
セル・オートマトン - Wikipedia
ライフゲーム - Wikipedia


どういうものかは、上のリンク先を読んでもらうとして。
ざっと説明すると、格子状に並んだたくさんの四角があり、それぞれの四角は

  • 誕生: 死んでいるセル(「白」)の周囲に3つの生きているセル(「黒」)があれば次の時間ステップでは生きる(「黒」になる)。
  • 維持: 生きているセル(「黒」)の周囲に2つか3つの生きているセル(「黒」)があれば次の世代でも生き残る(「黒」のままである)。
  • 死亡: 上以外の場合には次の世代では死ぬ(「白」になる)。

という条件が設定されている。

すると、その中に、偶然、まるで生きているようにふるまう“大きなかたまり”が生じることがある。
もちろん、それは生きてはいない。簡単な人工知能プログラムのように“個”としての塊もない。



ただ、その“生き物様のもの”は他者を捕食して大きくなったりまたは崩壊したりしながら、そして、それが多数集まって、一つの生態系のようなものを形作ることもある。
でもそれは生き物ではなくて、平面に定義された環境によって生じる、ただの模様に過ぎない。



ライフゲームの世界【複雑系】

この動画の4分半ごろから現れる巨大なグライダーを自動生成するシステムもただの模様だ。


そういうことを、時々、ふと、思う。





セルオートマトンライフゲームは、見てるだけでも楽しい。
入門はyoutubeのこの画像。


ライフゲーム入門 (Introduction The Game of Life)

続・ライフゲーム入門 (Game of Life Demo)

「利己的な遺伝子」「銃病原菌鉄」から学ぶべき一番大切なこと

それは、原因があるから結果があるのではなく、“結果”があるから“原因”が帰納されるということ。ここを間違えると、ナチスドイツの優生学みたいな無茶苦茶なことになる。


「キリンの首が長くなったのは、高いところの植物を食べる為」


ではなく


「キリンの首が長かったので、高いところの植物を食べることができたので生き延びることが出来た」


が正解。


このふたつは同じことを言っているようで、全く違う。
ここら辺の錯誤が(そしてどう錯誤していることを理解できてない人が多い)いくつかの悲しい悲劇を生んでいる。例えは努力教。


「努力は必ず報われる」


という命題に対して、


「最終的に結果を残せた行為のみを努力と呼ぶ」


というようなことが意識せずに行われていることが、とても多くある。


こういう、因果の考え方に対して、なんとか、こう、ならないかなあと思うけれども、どうにも分かってもらえない。


利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

これさえすればうまくいく!というのをやってみて大体うまくいかない理由(下書き)

アンナカレーニナに、

すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。

という言葉があるけれども、これは、他のことにも大体いえる。



すべての仕事が早い人は互いに似ている。仕事の遅い人はそれぞれの仕方で仕事が遅い。

すべての成功するプロジェクトは互いに似ている。破綻するプロジェクトはそれぞれの仕方で破綻する。

すべてのコニュニケーション能力が高い人は互いに似ている。非コミュはそれぞれの仕方で非コミュである。

すべての面白い映画は互いに似ている。つまらない映画はそれぞれの仕方でつまらない。

すべての要領のいい人間は互いに似ている。不器用な人間はそれぞれの仕方で不器用である。

成功しているはてなブロガーは互いに似ている。しっぱいブロガーはそれぞれの仕方で悲しい。



他、適当に言葉を言い換えて入れてください。ブクマとかで。
つまり、どういう事かというと、“うまくいく状態”っていうのは、“うまくいく状態”になるために必要な要素が100個くらいあって、それが全部フルセットでそろっている状態。で、それが一つでも欠けていたり、極端に足りなかったりすると途端に“うまくいかない状態”になる。だから、“うまくいく状態”というのは全部似通っているし、“ダメダメ状態”っていうのは、その状態が上手くいくのに必要な条件の数だけ、様々な理由で失敗している。



必要なのはチェックリストと100通りの処方箋。
または、足りない部分を外部化できるシステム。
これさえやればうまくいく!なぜならば自分はうまくいった!って言ってる人は、その足りない最後のピースがたまたまそれだったにすぎなくって、物事全般に通用することではない。(ただそれが物事がうまく運ぶために必要なピースであることは間違いないので、そのやり方を真似してうまくいく人はそれなりにいるだろう。そういう意味でいうと有用なアドバイスではある)

物語の作り方(下書き)

25人のキャラクターが同時に登場して活躍する物語の作り方 - orangestarの雑記について。
このエントリについて思ってたよりも反響があったので、ちょっと追加書いてみる。あれから、書き方について細かくある程度聞いたので。
上に書いてある問題点を探す話とかあるので“だれでも物語が描ける方法”という風にはならないけれども、ある程度かける人の参考にはなるのではないかと。
麻草郁さん(id:screammachine)から聞いた話を自分でまとめたので、あちこち錯誤や自分が勝手に思い込んだ部分があると思う。だから麻草氏のやり方というよりは、麻草氏の話を聞いて、自分が考えた物語の作り方、だと思ってください。

物語を動かす最少人数は3人、そしてそこからのキャラクターの増やし方について

まず、実際の麻草さんの脚本の書き方としては、まずざっと“なんかこういう感じの話”というのを考えて(例えはクォンタムドールズだと「武器と人の関わり方の話」)それから、プロデュースの人に、今回何人くらい出すのか聞いて、それに合わせて、キャラクターを作っていきます。




主人公、

主人公の相方、

主人公のライバル、

ライバルの相方、とりまき

敵、

敵の部下、

などと言った感じで。




その時に気を付けている、というか、ほとんど反射でやっていることが、“物語を動かす最少人数の3人”
AとBという二人の人物がいて、その二人が二人だけだと、お互いの立場にいてきまった距離感にいるだけだけれども、そこに第三者が入ってくることによって均衡が崩れて物語が動き出す。そういう風な関係性を意識しながら、キャラクターを“セットしていく”ということ、らしいです。
そしてできた3人のセットを、1ユニットとして考えて、“物語を動かす最少人数の3ユニット”としてユニットを作ると、そこで9人のキャラクターが出来上がる。そういう風にしてキャラクターを作っていくらしいです。3×3、って言いましたが、それは人によって“2”でもよくて(2×2×2という形で人数を増やしていく)物語を作る際に、その作者が同時並行で管理できる人数をベースに、一つの組をユニット化、そのユニット化された組をさらにユニット化することによって人数を増やしていくことができる、ということでした。

実際の物語の作り方

などを、読んでいることは前提条件として。ここら辺の本を読むと結構簡単に脚本が出来るように見えるけれども、実際にどうしているかって言うと、


ようは、書いて潰してやり直して書いて潰して、結構進んだところで物語が破綻したので今まで全部ご破算にしてもう一度作り直して、ということを繰り返すらしい。いきなり完成系が書けたりタロットカードを並べたらいきなり物語が出来る天才って言うのはいなくって、ようは、殴り続ければいつか脚本は完成する!という事らしい。必要なのはシナリオが完成するまで殴り続けられる体力と自信!

その他:あらすじとプロットの違い。あらすじは“企画書”プロットは“仕様書”

よく、シナリオの書き方のところで、いわれる“あらすじとプロット”の違いですが、あらすじは“企画書”プロットは“仕様書”といいかえると、すごい分かりやすいことが分かりました。あらすじは、その物語を観たことのない人に“こんな風で面白いよ!”って説明するためのもの、プロットは、“こういう仕組みで作って、ここでこういう風になるので”ということを作る側に分かりやすく(つまり自分で整理しやすいように)するためのもの、として考えると。

その他2:桃太郎を使うと、あらすじとプロットの違いが分かりやすい。

みんながソラで言える、“むかしむかし~”っていうのがあらすじ。そこに、“何故桃太郎は鬼退治に行こうと思ったのか”“何故おじいさんは桃太郎を育てようと思ったのか”という何故、とその理由を入れるとプロットになる。また、どこに“何故”を入れるかによって、その入れた人が“どんなことを書きたいのか”がわかる


余談:

脚本家も人間ですので、書いてる最中に何度も心が折れることがあるそうです。「これ、最後まで書いても面白い話にならないんじゃないか…」とか。でも、そういう時でもとりあえず最後まで書ききると、面白くするための方法、小技はいくらでも(調味料的なやり方で)あるということなので、とりあえず最後まで完成させる、ということがやっぱり一番大事ってことらしいです。

余談2:本当は脚本の書き方とか必要ない

物語、があるのが先で、“脚本の書き方”というような“技術”はそれに付随するもの。
人を感動させる、というのを、人を殺す方法にたとえるなら、脚本術というのは、剣術やカラテみたいなそのための技術。それが無くても、殴り続ければ人は死ぬし、野生のゴリラはそんなものに頼らなくても十分に人が殺せる。ゴリラは素手が一番強い。ただ、耳元で、“人間は弱い生き物でちょっと頭蓋骨を握ってやれば殺せる”と教えるだけでいい。